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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0212 要約すると -1

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月刊ダイバー3月号、連載、日本潜水グラフィティ最終回、本屋にでた。

24回の予定が27回にしてもらった。27冊のダイバーを書架に並べる。
須賀潮美が編集してくれたのだが、全くの書き直しもかなりあった。娘だから厳しいのかなとおもったりしたが、直すと必ず良くなっている。いい編集者になったのだなあ、と思う。最終回、ここまでの流れから少し時代を飛んで、どうしても書かなくては終われないことを書かせてもらった。「ダイビングの夢と冒険とは何だ、そして安全管理と危機管理についての事を書いた。良い終わり方、自分にとっては感動的だった。どうか、ぜひ買って読んでください。
 絶対カットされるなと思いつつ、坂部編集長と潮美に謝辞を書いたが予想通りにカットされていた。 
この終わり方は、これで一番良かったと思うのだが、もう一つの終わり方、これまでの26回分を振り返ってようやくして終わる終わり方も考えた。

サマセット・モームの自伝的な「要約すると:summing up」という作品がある。内容は忘れてしまったのだが、タイトルだけは覚えていた。最後に人生は経糸横糸を編んで行くタペストリーのようなものだというところが印象に残っていた。と思っていて、もう一度読もうと図書館で目を通したけれど、ちがった。これは、別の小説「月と六ペンス」と混同していたことがわかった。「月と六ペンス」は、ゴーガンをモデルにしたモームの長編ではベストだろうか。つまり、僕の潜水人生の要約、summing up にしようかと思ったのだった。

潜水、ダイビングの意味、それにかけた人生の意味は、何だったのだろう。
ブログに書きかけたけれど、容易にはまとまらない。

 この前、ここまで書いたが,かなり時間がたったし、その間にシンポジウムもいれてしまったので、もう一度前書きをここにのせた。

★要約すると
東京水産大学で潜水を教えてくれて、写真の使い方、調査のやり方、レポート、論文の書き方、その後、自分が生きるためのアイテムのほとんどを指導してくれた、恩師の宇野寛先生に「潜水とは、潜ることは、海の中、水の中で何かをするための手段であって目的ではない。」と教えられた。先生は研究者だから、潜水は研究の道具で当然だが、もう一人、潜水だけの師、つい最近亡くなってしまった後藤道夫の師でもあった菅原久一にもそのように教えられた。

そして、以来、潜水は目的ではない手段である。手段として潜水を使って、海の中、水の中で、社会にとって、人類にとって何かに値することをやり遂げなければならないという思ひに縛られた。
27歳の時、100mを空気で潜って90mで引き返したが、これにも意味を求めた。新しい送気式潜水器の開発だった。今、潜水士の受験本を書いているが、今の作業潜水の中心である潜水器は、デマンドバルブをフルフェイスマスクに付けた送気式応需弁付きの全面マスクで、これこそ、僕が100m潜水に使った潜水器だった。

      27歳、館山沖の死ぬ一歩手前の100m潜水

しかし、これは、何としても深く潜りたいために無理やり考え出したテーマであった。とにかく、誰よりも深く潜りたかったのだ。ダイビングしたかったのだった。
ただひたすら潜りたい、ダイビングがしたい。これは今現在でも全く変わっていない。
潜ることが僕にとっての生きがいだった。他に何もないのだから、潜ることをお金に換えなければ生きて行けない。
プロという言葉がある。それでお金をもらうこと、稼ぐことがプロであるが、もうひとつ、そのことを止めたら生きて行けない。ダイビングを止めたら生きて行けないというのもプロだ、と思う。その道に人生を捧げる、プロフェストするのもプロという言葉の語源だと、スポーツ社会学の佐伯先生に教わった。これは社会体育指導者の講習で教えられたことであるが、なるほどと思った。
他の職業でお金を稼いでいても、ダイビングをしなければ生きて行けない気持ちであれば、これはプロだ。本当のプロともいえるだろうが、こんな人は稀だ。稀だが僕の周りにはかなりたくさんいる。
好きこそものの上手というから、プロダイバーの多くは上手になるが、下手であってもプロはプロだ。
出発点にもどって、潜水とは手段であるという言葉に縛られていたから、いろいろと目的を考え出していた。
東亜潜水機では、今の作業潜水の中心である、送気式応需弁付きの全面マスク潜水機の開発では、疑いも無くトップを走っていた。それでも、もっと潜りたかったから、魚突きの水中射撃連盟をつくり、潜水の安全指導を目指して日本潜水会をつくり、さらにそれを全国組織として全日本潜水連盟をつくって、水中スポーツ大会を沖縄海洋博でやったりした。東亜をはみ出してしまった。それでも大事にしてくれたが、大事にされればされるほど、申し訳ない気持ちになりやめてしまった。

       1967 日本潜水会、一緒に泳いだ浅見も友竹もとうに世を去った。 
            これは伊豆海洋公園


東亜で作っていた潜水機をそのまま持ち出すことは義理に反してしまう。それではもう一つのプロフェツションであった撮影だと水中カメラを作ることを始めた。これも良いところまで行った。ブロニカマリン、R116 は、まだシー&シーも水面下にあった当時日本でトップだった。しかし、それでも、そのカメラを売ることよりもカメラを持って潜水すること、撮影することに体が向いてしまうのだ。

     ブロニカマリンの最終形


撮影することは記録することだ、記録することは調査をすること。大学で専攻してつもりだった水中調査が仕事になった。ハウジングメーカーが調査会社になってしまった。スガ・マリンメカニック、メカニックという名前が付いているのは、器材を作る技術を生かそうという意味だった。
そして、調査撮影からテレビ撮影に変わって、ポナペ島、ナンマタール遺跡の呪いの風に吹かれて、テレビ番組の撮影に飛んで行ってしまった。


       ニュース・ステーション、須賀潮美の水中レポートシリーズ

そしてニュース・ステーションをはじめとして、最後は大型展示映像、3Dの撮影まで進んでいった。
 もう一つ、後に指導団体言われることなるダイビング指導の途も派生的に歩んでしまった。
 ダイビングは「安全だ」などという雑音が途中で入ったけれど、安全とは安全な範囲にとどまるから安全なのであって、夢と冒険を追うことがダイビングの本質であるとすれば、冒険とは安全を確保しつつ、危険に立ち向かう事であり、決して安全域にとどまることではない。冒険とは危険をどのようにして切り抜けるかということに知力(インテリジェンス)と身体能力を傾けることなのだ。
その身体能力を鍛え、維持するにはトレーニングが必要である。トレーニングあるのみ、潜水のトレーニングとは、泳ぐことだ。トレーニングを安全に行うために、フィンで泳ぐ競技を始めた。

沖縄海洋博 海洋フリッパーレース

ダイビングという冒険で、声明を維持するのはトレーニングであり、トレーニングの成果を競うのが競技会だ。1975年だったか、沖縄海洋博のイベントとして、全国大会をやり、一つの頂点を極めた。その後、山あり谷ありだったが、今でもなお、日本ダイビング界最大のスポーツイベントとして全日本スポーツダイビング室内選手権大会をやっていて、70年代からの通算では56回目になった。


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