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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0110 後藤道夫 お別れ会

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 12月20日に亡くなった後藤道夫のお別れの会が、今日、小田原でおこなわれる。
 挨拶と想い出を語ることになった。挨拶というのが苦手だ。挨拶がきちんとできない。電車で小田原まで2時間ぐらいだろうから、その間に考えよう。
 挨拶の他に想い出を語るのだが、何もなくて語ると脈絡が無くなってしまうので、PPを作った。

 後藤道夫にはじめてであったのは、僕が大学2年の時、葉山の磯に出かけた時だった。彼は弟の勇穀君と一緒にアクアラングの練習をしていた。1956年だったと思う。



 その出会いのことを月刊ダイバーのニッポン潜水グラフィティに書いた。

 やがて彼は真鶴に居をうつして、日本ではじめてのダイビングサービス、そのころはダイビングサービスという言葉はなかったから、セントラルダイビングセンターだったか真鶴ダイビングセンターだったか忘れたが、センターを作った。 

 僕は東亜潜水器に入社して、その東亜の三沢社長は面倒見のいい人で、後藤道夫のことを何かとおうえんしていた。ウエットスーツを作る生地の供給とか、コンプレッサーとか。ウエットスーツ生地の納品に僕がオート三輪で行くと、彼はベンツに乗っていた。金はどうすることもできないほど、無かったと思うのに。

 そして、1967年、後藤道夫と僕と、浅見国治の三人で日本潜水会を作った。日本で初めてのダイビング指導全国組織だった。

 彼はカメラマンとして活動し、全国一周の撮影旅行を企画して、旅にでた。ベンツではなくてオート三輪だったと思う。そして、南の果て、まだそのころは沖縄は変換されていないから、南の果て、奄美大島の加計呂麻島まで行き、そこでひっかかってしまいそこが彼の撮影スタジオになってしまった。 
 ちょうどそのころ、テレビ番組「マチャアキ海を行く」が企画され、彼がその最初のカメラマンになった。
 そのビデオを 紹介する。 4分ほどのクリップだ。


  
一緒に書いた本1978年の「潜水と水中撮影入門」このころから彼は水中撮影のハウジングとかストロボを作ることが専業になりカメラマンとしては卒業してしまったみたいだ。写真集「サンゴ礁の海」は、当時としては圧倒的だったのに、若い人を多数かかえていたから、海底キャラバンでは食べさせて行けなかったのかもしれないし、それに彼はものを作ることの天才だったから、ものつくりの方が好きだったのだろう。
 僕はそれまで水中ハウジングを作っていたのに、カメラマンの方に軸足を移した。

  日本潜水会の指導員講習にて、左端はユージニークラークさん、潜る研究者の創始者で高名
  
 日本潜水会は、全日本潜水連盟に発展的に解消してしまったが、その同窓会、毎年一度忘年会をやる集いは2009年まで続き、2010年、後藤道夫は、僕、須賀の死に花をさかせてやると、水中科学協会を一緒につくってくれた。僕の死に花はまだ咲いていないけれど、後藤道夫は先に行ってしまった。
   

   日本潜水会 2006年 益田一、後藤道夫、大津善彦

 未完だけれど、出かける時間になってしまった。

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