2013年後半を振り返ってみると、連載のようにまとまったことを書いておいて、あとでなんとかすることができる下書きにしたいなどと言って、数回書いて、置き去りにしてしまったテーマがいくつかある。これらのテーマを書き続けながら、日々の雑感、日記的なことを挟んで行こうということにしたのだが、それらのテーマが行き倒れ状態になっている。新しい年を迎えて、テーマを復活させようと、原稿をそれぞれのテーマでファイルを作って整理、まとめてみた。
近々では「潜水士」、「福島」「人工魚礁」もうだいぶ前になってしまったが、「リブリーザー」「潮美への手紙」がそのままになっている。「ウエアラブルカメラ」「潜水技術」「グラフィティ」「お台場」「辰巳」「読書・映画」「JAUS」は、項目別整理のテーマだから、ぼつぼつ続いている。
受験本も最終の校正に入っていることでもあり、「潜水士」から復活させよう。ここまでの展望だが、最後にこのテーマを書いたのは、12月14日で、潜水士の制度が作られる前、比較的深い潜水、長時間の潜水をする漁業者に重大な症例が多く、減圧症についての処置も、「ふかし」療法がほとんどで、再圧室を備えた病院もあったが、信頼されておらず、再圧タンクも特許の申請がされているような状況だった。そのころ、僕たち、まだ黎明期のスクーバダイバーはどうだったのだろうか。減圧表は?というところで、
1943年版米国海軍減圧表
ダイビングを始めたころ1956年ごろの僕たちのテキストは、「A Manual for Free Divers Using compressed AIR 」という61Pの英文で、ウズホールの潜水指導をしているダイバー、まだ、当時はインストラクターという言葉もつかわれていなかったのだが、今で言えばインストラクターのD.M.Owen が1954年に書いたものであった。61pとページ数が少ないから、僕にも簡単に訳すことができた。この本に示されている減圧表は、米国海軍のダイビングマニュアルに示されている米国海軍の減圧表で、1943年版である。米国海軍減圧表の元祖、原型だろうと思う。クストーのアクアラングの誕生が1943年であるから、この表は、それ以前のヘルメット式潜水器のためのものである。この表で、例えば90フィート、約27m潜ったとすると、30分までは無減圧、ストップは0分である。45分になると10フィートで6分の減圧停止になる。
繰り返し潜水、一日に複数回数の潜水を行うときは、2回目に潜る時は、時間を2倍して表を引く。27mに30分潜ったとすれば、二倍だから60分潜ったことにして表を引く、大変にわかりやすく、30分でも60分で表を引くから、6mで9分、3mで16分の停止となる。
僕たちは、この表に従って潜水しても3%、100人に3人は減圧症になるが、その症状は軽く、ふかしで対応できると教えられた。減圧症に対する安全度は、漁業者のヘルメット式よりもはるかに高いものだったと思う。
そして、東亜潜水機に入社した1958年には、1952年版の米国海軍のダイビングマニュアルを原文で読んでノートをとっていて、減圧表も1952年版であり、現在の米国海軍の減圧表とは、数値は改善されているとしても、その組み立ては全く同じで、繰り返し潜水記号で、繰り返し潜水に対応している。
1952年版米国海軍
そして、1961年潜水士テキストに減圧表、(別表2)が発表された。米国海軍の表と比べて見ると、停止時間などについて、その数値は近い。ということは、このまま米国海軍の表を使っていても良いのだと、勝手に解釈した。自分はそれで良いとしても、一般のダイバー、当時は東亜潜水機勤務だから、そのお得意さんであるダイバーは、この表が規則になっているのだから、守らなければ規則違反になってしまう。
繰り返し潜水についての修正時間は、別表3という、計算線の表を使う。定規で正確に線を引かなくては、数値が求められない。国家試験の問題に必ず出題されるようなことだから、大変に面倒であり、なおかつ手で定規をあてて線を引くのであるから、不正確である。こんなものは現場では使っていられない。しかし、規則である。使えないと切り捨てることはできない。
この計算線(別表第3を見ると)、これは計算尺を印刷物の表にしたもので、定規で線を引くのは計算尺のカーソルと同じだと気づいた。ならば、計算尺を作れば良いと準備をすすめて、計算尺メーカーから見積もりをとった。1000の単位のロットで作らないと作ってくれない。社長にお伺いを立てたが、あまり良い返事がもらえない。ならば、と厚紙に印刷したもので紙と紙を滑らせるようにしたら、これでもできる。社長の許可をもらって、これを作り、全国のお得意さんに一回目は無料で配布した。
一方、マスク式潜水機を作っている旭潜研は、少し遅れてだが計算尺を作って売り出した。旭の佐藤社長は潜水士制度の黒幕である。最初からそのつもりでこの別表3を作ったのかもしれないと勘ぐった。
別表3の計算尺
別表2の早見回転表示板
そして、2012年、1962年から数えて、50年後だ。僕たちJAUSは、横須賀のJAMSTEC、海洋研究開発機構でプライマリーコースの研修会をやらせてもらっている。海洋研究開発機構では、主催事業として、消防士や警察官を対象にしたスクーバ研修会を開いている。海猿のトレーニングなみの一週間のコースである。この研修は当然、潜水士の規則に沿って行われる。その教室で僕は見た。あの時旭潜研の作った計算尺の現代版を。メーカーの名前が日本海洋産業と変わっているが、これは、この会社が旭潜研を吸収したためだ。
懐かしいとともに複雑な心境になった。あの時、ボール紙細工ではなくて本格的な計算尺を作っていれば、今も売れていたかもしれない。50年後の今だ。50年売り続ければ金額は小さくても、かなりのものになっただろう。
そして、50年変わらない減圧表というのも大変な代物だが、いまでも米国海軍の表が基本だから、この表で潜水しても、作業潜水としては、減圧症が多発するということでもないのだろう。
現在の潜水士テキスト 80-90になっている
48年版テキスト 55-60より下はない。
しかし、現在のこの表の一番深い区分が80を超え90以下になっている。90mまで空気で潜水ができるのだ。このことが今取り上げられて問題になっている。しかし、昭和48年版の潜水士テキストでは、最深が55をこえ60以下になっている。何を根拠に30mも深くしたのだろうか。まさか、1964年に僕と舘石さんが100m潜水に空気でチャレンジして90mで引き返したから、90にしてわけではないだろう。僕たちは90mで、一時的に意識を失った。
近々では「潜水士」、「福島」「人工魚礁」もうだいぶ前になってしまったが、「リブリーザー」「潮美への手紙」がそのままになっている。「ウエアラブルカメラ」「潜水技術」「グラフィティ」「お台場」「辰巳」「読書・映画」「JAUS」は、項目別整理のテーマだから、ぼつぼつ続いている。
受験本も最終の校正に入っていることでもあり、「潜水士」から復活させよう。ここまでの展望だが、最後にこのテーマを書いたのは、12月14日で、潜水士の制度が作られる前、比較的深い潜水、長時間の潜水をする漁業者に重大な症例が多く、減圧症についての処置も、「ふかし」療法がほとんどで、再圧室を備えた病院もあったが、信頼されておらず、再圧タンクも特許の申請がされているような状況だった。そのころ、僕たち、まだ黎明期のスクーバダイバーはどうだったのだろうか。減圧表は?というところで、
1943年版米国海軍減圧表
ダイビングを始めたころ1956年ごろの僕たちのテキストは、「A Manual for Free Divers Using compressed AIR 」という61Pの英文で、ウズホールの潜水指導をしているダイバー、まだ、当時はインストラクターという言葉もつかわれていなかったのだが、今で言えばインストラクターのD.M.Owen が1954年に書いたものであった。61pとページ数が少ないから、僕にも簡単に訳すことができた。この本に示されている減圧表は、米国海軍のダイビングマニュアルに示されている米国海軍の減圧表で、1943年版である。米国海軍減圧表の元祖、原型だろうと思う。クストーのアクアラングの誕生が1943年であるから、この表は、それ以前のヘルメット式潜水器のためのものである。この表で、例えば90フィート、約27m潜ったとすると、30分までは無減圧、ストップは0分である。45分になると10フィートで6分の減圧停止になる。
繰り返し潜水、一日に複数回数の潜水を行うときは、2回目に潜る時は、時間を2倍して表を引く。27mに30分潜ったとすれば、二倍だから60分潜ったことにして表を引く、大変にわかりやすく、30分でも60分で表を引くから、6mで9分、3mで16分の停止となる。
僕たちは、この表に従って潜水しても3%、100人に3人は減圧症になるが、その症状は軽く、ふかしで対応できると教えられた。減圧症に対する安全度は、漁業者のヘルメット式よりもはるかに高いものだったと思う。
そして、東亜潜水機に入社した1958年には、1952年版の米国海軍のダイビングマニュアルを原文で読んでノートをとっていて、減圧表も1952年版であり、現在の米国海軍の減圧表とは、数値は改善されているとしても、その組み立ては全く同じで、繰り返し潜水記号で、繰り返し潜水に対応している。
1952年版米国海軍
そして、1961年潜水士テキストに減圧表、(別表2)が発表された。米国海軍の表と比べて見ると、停止時間などについて、その数値は近い。ということは、このまま米国海軍の表を使っていても良いのだと、勝手に解釈した。自分はそれで良いとしても、一般のダイバー、当時は東亜潜水機勤務だから、そのお得意さんであるダイバーは、この表が規則になっているのだから、守らなければ規則違反になってしまう。
繰り返し潜水についての修正時間は、別表3という、計算線の表を使う。定規で正確に線を引かなくては、数値が求められない。国家試験の問題に必ず出題されるようなことだから、大変に面倒であり、なおかつ手で定規をあてて線を引くのであるから、不正確である。こんなものは現場では使っていられない。しかし、規則である。使えないと切り捨てることはできない。
この計算線(別表第3を見ると)、これは計算尺を印刷物の表にしたもので、定規で線を引くのは計算尺のカーソルと同じだと気づいた。ならば、計算尺を作れば良いと準備をすすめて、計算尺メーカーから見積もりをとった。1000の単位のロットで作らないと作ってくれない。社長にお伺いを立てたが、あまり良い返事がもらえない。ならば、と厚紙に印刷したもので紙と紙を滑らせるようにしたら、これでもできる。社長の許可をもらって、これを作り、全国のお得意さんに一回目は無料で配布した。
一方、マスク式潜水機を作っている旭潜研は、少し遅れてだが計算尺を作って売り出した。旭の佐藤社長は潜水士制度の黒幕である。最初からそのつもりでこの別表3を作ったのかもしれないと勘ぐった。
別表3の計算尺
別表2の早見回転表示板
そして、2012年、1962年から数えて、50年後だ。僕たちJAUSは、横須賀のJAMSTEC、海洋研究開発機構でプライマリーコースの研修会をやらせてもらっている。海洋研究開発機構では、主催事業として、消防士や警察官を対象にしたスクーバ研修会を開いている。海猿のトレーニングなみの一週間のコースである。この研修は当然、潜水士の規則に沿って行われる。その教室で僕は見た。あの時旭潜研の作った計算尺の現代版を。メーカーの名前が日本海洋産業と変わっているが、これは、この会社が旭潜研を吸収したためだ。
懐かしいとともに複雑な心境になった。あの時、ボール紙細工ではなくて本格的な計算尺を作っていれば、今も売れていたかもしれない。50年後の今だ。50年売り続ければ金額は小さくても、かなりのものになっただろう。
そして、50年変わらない減圧表というのも大変な代物だが、いまでも米国海軍の表が基本だから、この表で潜水しても、作業潜水としては、減圧症が多発するということでもないのだろう。
現在の潜水士テキスト 80-90になっている
48年版テキスト 55-60より下はない。
しかし、現在のこの表の一番深い区分が80を超え90以下になっている。90mまで空気で潜水ができるのだ。このことが今取り上げられて問題になっている。しかし、昭和48年版の潜水士テキストでは、最深が55をこえ60以下になっている。何を根拠に30mも深くしたのだろうか。まさか、1964年に僕と舘石さんが100m潜水に空気でチャレンジして90mで引き返したから、90にしてわけではないだろう。僕たちは90mで、一時的に意識を失った。