「河を渡って木立の中へ」ヘミングウエイの1952年、彼の終わりのころの本のタイトルだが、この小説、文庫本に入っていない。
この小説、死を間近にした小説家が、若い女性にプラトニックな愛を持つ筋書きで、ヘミングウエイのことだから、それが現実とも重なり合っていて、そのことが、この本の版権を持つ最後の夫人、メアリーの気に入らなくて、版権を売らないのだという。ということで訳書が文庫になっていない。そんなことらしい。昔、三笠書房の全集の普及版をもっていて、それには、収録されていて読んだのだが、ヘミングウエイらしい、悪くはないなと思った。
それでも、ヘミングウエイは好きなので、収録されている全集を図書館で借りたが、訳文が気に入らず、放り出してしまった。
訳文と言えば、高校三年の時、「老人と海」を翻訳した。時の高校の英語の先生、織家先生は、後に防衛大学の先生になった優秀な先生で、バスケット部の顧問だった。その織家先生にすすめられて、夏休みに訳した。自分としては自信があったのだが、先生に「こんなものは、訳ではない」と怒られた。創作だったのだ。どこかになくしてしまったが、惜しいことをした。
ヘミングウエイで繰り返し読んだのは、「移動祝祭日」、移動祝祭日って何だ?
「もし、幸運にも若者の頃、パリで暮らすことができたら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」
アーネストは本の冒頭でかいている。
ヘミングウエイの最終作?で彼の死後発表された。そんな思い出話のパリの話だけど、好きだ。
僕がパリに行ったのは、一泊二日、通り過ぎただけで、ルーブルに行き、セーヌ河畔を歩いて、古道具やをのぞいて、ベトナム料理を2回食べた。本当に「移動」祝祭日だ。でも、パリはパリで、心についてくる。
ヘミングウエイと言えば「釣り」だけど、僕は「釣りはやらない」やや、かたくなに釣りはやらない。なぜやらないか、それを話すと、ダイビングと釣り、漁、水産のあるべき姿、と長い話になるし、まだ、結論はでていない。でも釣りは悪い趣味ではないと思ってはいる。
そして、「ヘミングウエイ釣文学全集」これには、晩年のヘミングウエイがエスクワイヤに連載した「キューバ通信」が、載っている。
キューバ通信の中で僕が好きなのは、「モロ沖のマーリン」「海流に乗って」「青い海で、」などで、短編なので、図書館で借りて、コピーして持っている。
話は跳ぶけれど、宮本輝「ひとたびはポプラに伏す」講談社文庫、全6巻を書棚に残していた。
作家の書いた旅行記、随想のような紀行文が僕は好きなのだ。前述のヘミングウエイ「移動祝祭日」もその類だし、村上春樹のこの類は、手に入った全部を読んでいるし、書棚にのこしてもいる。村上春樹も、小説は60歳以降には、読んでいない。考えないとわからないから。
その宮本輝の「ひとたびは、ポプラに伏す」は、西安から、トルファン、カシュガルを抜けて、イスラマバードへと、シルクロードをたどる旅だ。宮本輝も、小説はめんどうな作家なのだが、これは、楽しんでじっくり読んだ。1990年代後半の中国からパキスタンへのシルクロードが、どんな様子、どんな途なのか、感じることができる。
その中に、「河を渡って木立の中に」という章がある。クチャを抜けるあたりの章だ。
その文で、この言葉は、アメリカ、南北戦争の時、南軍のリー将軍が、突撃の前に、つぶやいた言葉だということを知った。
そして、ネットで調べたら、リー将軍の片腕だった、ストーンウォール・ジャクソン将軍の死の突撃の前に口にした独白だったとも書いてある。どっちでも良いが、とにかく南北戦争の時の言葉だ。
宮本輝は、人によってそれぞれ、様々な木立があるのだと書いている。
終着点「死」も木立というと、やすらぎのように感じる。
「三途の川」などと言われると渡りたくない。こちら側にのこってしまいそうだ。
と、これは、84歳の時に書いたものだ
今、
毎日、河を渡るような日々を送り、木立に近づいていきつつ、リライトした。