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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0821  ワークショップ トラック大空襲

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8月15日にチュークの沈没戦跡についてワークショップをやり、聞いてくださった方には好評だった。自分としては、大過なくしゃべることもできた。
 チュークのことを考え続けてきたわけではない。ただ、自分のダイビング人生の終わりを感じているので、やったことのまとめをしておきたい。1983年から2009年まで毎年のように通った南の島についてまとめておきたいと思った。
 しかし、最近、ひどい難聴で、会話ができにくい。会話ができなくなると、ナレーションでしゃべることもままならなくなってしまったような気がした。
 司会をしてくれている潮美にナレーションも引き受けてもらおうか、とも思った。しかし、録音スタジオもないし、費用も時間もない。自分は常にチャレンジャーのつもりだ。チャレンジしよう。
 下手でも良いけど、わかってもらえないのは困る。やる意味がない。パワーポイントをつくり、左側にナレーション原稿を書き、右側に写真をいれて、それをナレーション的に読み上げることにした。字入りの紙芝居だ。今、映画をキンドルで見るけれど字幕編だけをみている。視覚、聴覚併用はわかりやすい。


 まず、そのパワーポイントを見て説明、次に6分程度の動画、そして、次の動画説明のパワーポイント。そして動画と交互に入れて、さいごにまとめのパワーポイントで終える。構成にした。 


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 PPその一
 ① ミクロネシア


 日本から南下していくと、小笠原、マリアナ、ミクロネシア、横並びにパラオ。トラック環礁は、ミクロネシアにある、太平洋最大の環礁、です。
 第二次大戦中、日本の太平洋の激戦地ソロモンに近く、連合艦隊全部を泊めることができる湖のような環礁。トラックは太平洋最大の前進基地、軍港でした。


 旧、日本委任統治の南洋の島々は、どこも魅力的で、ダイバーは、とりつかれますが、僕はトラックにとりつかれ、1983年から、最後は2009年、数え切れないほど通いました。
 これら、島々は歴史的には自給して生きてきたのでしょうが、外貨獲得の最大の資源は観光です。そして、その観光の目玉はダイビングです。


 ②トラック大空襲


 トラックは1944年2月17日、18日、アメリカ機動部隊の空襲を受け環礁に停泊していた日本の船全部が沈められます。 
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 日本の連合艦隊はマリアナに避退しており、残されていたのは戦闘能力のない輸送船団でした。連合艦隊が残っていたら、もっと激戦になったでしょうが、結局は沈められたでしょう。航空機の空襲に対抗できるのは、基地の航空兵力。
 そのトラックの航空兵力は竹島という航空母艦のような小島に飛行場、基地を置いていたのですが、トラックは鉄壁だと油断して、パイロットたちは、そのころのトラック市街地中心である夏島に遊びに行っていて、飛び立たずに地上で撃滅された。
 
 ③吉村朝之
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 1983年,トラックに残された遺骨の取材で 吉村朝之とトラックに行き、その後彼が亡くなるまで、僕はアアク5テレビ、吉村はアアク8テレビという姉妹会社を作る親交が続きますが、遺骨が取り持った縁です。
 岐阜在住のダイビングインストラクターであった吉村はトラックに遊びのダイビングに来て、遺骨が水中でそのままに山になっていることに、心を痛め、それを撮って、朝日グラフなどに写真を発表し、沈んだ船の全部に潜り、それらの船の来歴と沈められた状況を「トラック大空襲1985 光文社」にまとめます。


 ④1987 沈船ライブラリー撮影


 そして、1987、吉村と僕は、沈められた船の主要なものすべてを撮って、ライブラリーを作り、遺骨を祖国日本に帰す運動を拡大しようとします。
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 そのころのテレビカメラは、カメラと録画するVTR別々で、その間をケーブルで結んでいます。ケーブルの長さは100メートル、テレビに売り込もうとするので、当時として最高の画質の池上の79Eです。 また、発電機も必要、ちょっとした引っ越し荷物です。それを二人だけで、グアム経由、恐怖のコンチネンタル航空、恐怖というのは、荷物を下ろさずに隣の島に飛んでいってしまう飛行機であること。その飛行機で、トラックに運ぶのです。
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 ⑤沈船に潜る。
 撮影を行ったのは、1987年 9月2日 松丹丸 水深55m、に始まり、9月12日の駆逐艦追風 水深65mまで、当時としては、売り出されて間もない、ダイビングコンピュータ、アラジンとスントのテストの比較テストを行いつつ、潜水した。
 沈められた輸送船は60隻、軍艦は22隻、うちダイビングポイントになっているのは、35隻である。 今回は、愛国丸、富士川丸 第六雲海丸、そして、駆逐艦追風を、紹介する。
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 ★★★
 ここから、動画の映写に入る。
 フリートークの感じで、動画の説明をする。


動画:
 愛国丸は特設巡洋艦、優秀、高速の商船に巡洋艦なみの大砲を載せている。
 
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 ケーブルさばき、アシスタントの労力が増えますが、これで、船内で迷うことがない。入れればどこまでも入れる。
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 水深44mにあるホールここになぜか遺骨が折り重なっていて、吉村は、これを見て、遺体を日本に帰す活動を始める。
 吉村の写真に触発されたのだろうか、日本のマスコミの報道の働きもあり、1981年3月 トラック島の遺骨問題を国会が取り上げ、7月5日から27日まで379体の遺骨が収集され現地で荼毘に付された。収拾を行ったのは、深田サルベージなどの潜水工事会社で、フリーのダイバー、インストラクターなども加わった。自分はスガ・マリン・メカニックという調査会社を経営していたが、これには加わらなかった。
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 そして、愛国丸の遺体の多くは回収されたのですが、トラックのダイビングサービス、ブルーラグーンは、遺骨をキープしていて、1987年の僕らの撮影の頃、愛国丸船内に水中展示、飾っていた。


 富士川丸
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 この動画だけは、1987年ではなく後に行ったツアーで撮ったものです。比較的浅くて、ナイトダイビングでみるソフトコーラルがきれい。ツアーの名所です1987年には、まだマストの先端が水面にでていました。
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 昼間は獰猛で、ダイバーにかみついてくるキヘリモンガラ


 第六雲海丸
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 旧式の運送船ですが、、船内にいろいろな日常雑貨が遺されています。戦跡水中博物館ですから、鉛筆の一本でも、持ち出すことは許されませんが。


 PP その二 追風について、
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① 輸送船団は錨を入れた状態でその場で沈められた。軍艦は数は少ない追風と文月、駆逐艦2隻だけだが、走って戦闘中に沈んだ。離れていて、沈んだ位置が特定できない。吉村はこの2隻の捜索、発見に、努力を傾ける。小型の魚探を持ち込んで、大きなブロックが写ったら、小型の錨を引いてひっかける。何かがひっっかかったら、潜ってみる。これをブルーラグーンのダイバーと一緒にやる。オーナーのキムオさん、後にマネージャになるチェニー、苦労の末水深65mに沈んでいる追風を発見する。位置が離れているのは、このためである。水深も深い。
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② 一等駆逐艦追風は、
 ソロモンの海戦で大破して、トラックで応急修理をした、新鋭の巡洋艦「阿賀野」を護送して2月15日トラック出港、マリアナ経由、日本に戻ろうとしていたが、トラックをでて、まもなく、2月16日、潜水艦の雷撃をうけ、損傷している阿賀野は避けきれず沈没、追風はその乗員480名を救助し、狭い駆逐艦船内は寿司づめ状態になって。マリアナに向かっていた。
 そこに17日のトラック空襲、追風は急遽トラックにもどって、戦闘せよと指令がはいる。
 常識的には戦闘不能だが全速で引き返し、北水道から、環礁に入り撃沈される。


そして,ここから追風の映像、
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先に述べたように、当時は、カメラとVTRは別で、その間をケーブルでつないでいる。
 カセットテープ一個の撮影時間は20分。最初に吉村がもぐり、10分撮影する。僕は船上で、テープを交換して、エントリーしてケーブルを伝わっていきカメラを引き継ぎ、吉村は浮上、このリレーで合計30分は撮れる,
 トラックブルーラグーンガイドのケーブルさばきはパーフェクトで、僕らは、何のストレスもなく65mに潜って撮影できた。
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また、ブルーラグーンのオーナー(先代、創始者)のキミオさんは、米軍がこれら沈船の調査をしたときに助手として潜っていたダイバーで、減圧症で身体が陸上では不自由だ。「多分、これが最後だから、ガイドしてあげるよ」と一緒に潜ってくれた。
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 ここにも遺骨は見えやすいところに置かれていて遺骨の下のハッチには、多分、阿賀野の救助された兵士の遺骨なのであろうか、山になっているのが見えた。阿賀野から救助された兵士の467名がここで亡くなっている。タンクを脱がなければ入っていかれない。水深60mだから、入れなかった。
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そのころ1980年代の終わりから、1990年代にかけて、僕は衛星チャンネルという、衛星経由で電波を発信する、今で言うBSの走りの局のフリーゾーン2000という番組の映像記者というのをやっていて、東京の海、川などの環境を追ったりする番組を小遣い銭稼ぎ程度のギャラで、本業の水中調査のかたわらやっていた。カメラマンが自分が撮った映像を映写しながら、アンカーという名称の女性キャスターとトークする番組でなかなか楽しかった。
 その一本で、1957年撮影のライブラリーを使って、「南海に眠る駆逐艦追風」をやった。
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 駆逐艦追風の艦長であった魚野(うおの)艦長の遺族、奥様と妹さんをスタジオに呼び、追風の水中映像などを見ながら、お話を聞く。フリーゾーンとしては、大作だった。
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 まず、艦長の奥さん、妹さんと靖国神社にお参りするシーンを撮った。靖国神社のシステムなど、僕は知らなかった。日本国民、多くの人は知らないだろう。戦争で亡くなった兵士は靖国神社に奉られ、霊は靖国にもどってきている。遺骨があれば、そしてそれが遺族に戻されるならば、菩提寺に埋葬されるが、公的には、靖国に、名前が奉納され、奉られる。遺族はそれを参拝する。追風のような軍艦の場合、遺族は「追風会」という遺族会を作り、艦長の奥さんが、その代表をつとめ、艦が沈んだ日、命日には、靖国にお参りする。カメラは、奉られている、奥の院には入ることはできないが、応接の間までは入ることができ、そこで、僕は、魚野艦長の奥さんとお目にかかり、初対面の挨拶を交わした。
 追風会は、靖国だけでなく、沈んだトラックにも花束を捧げに行く。


 スタジオでは、遺骨の写っているよ水中映像を見てもらい、お気持ちは?など、馬鹿なことは聞けない。何を質問してよいやら、見当もつかず、ただだまって、みてもらうだけでしかないが、魚野艦長の奥様は、冷静に魚野艦長との過ぎた日々のことを語ってくれた。戦時中、帰らぬ出撃をする駆逐艦の艦長、魚野艦長は、もうこの戦争は負ける。今度の出撃では帰らない覚悟だと言っていたそうで、女の子を一人、お父さんの遺影だけをみて育てられた。1944年の戦死だから、番組を作った1991年には、お子さんは45歳だ。どのような月日が、ご家族に流れたのだろう。
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 聞けば、魚野艦長は兵学校を恩賜の短剣をいただいて、卒業していて、それも見せていただいた。兵学校を主席か次席で卒業ということは、将来の提督である。実戦で戦果を残さなければ、提督にはなれない。魚野は、今度の出撃が最後で、もう前線には出さないと言われていたとか。
 阿賀野の救助した乗組員も480人乗っている。弾薬も少ない。トラックに戻らないという、指令違反をしてでも、船と救助した命を救う道が合ったのではないか。とも考えた。これは、後からの調査でわかったことなのだが、トラックに戻らず、マリアナに直行せよという指令もでていた。その電文の順序が通信兵のミスで、前後してしまった可能性もあったとされている。
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 もう一つ、吉村が高知に在住していた生き残りの竹本さんを訪ねてのインタビュー。今は亡い吉村だが、竹本さんは撃沈とともに海に飛び込んだ。かなりの人数が浮いて、泳いでいたのだが、艦載機が戻ってきて、機銃掃射で次々とこらされた。パイロットは手を振っていたのがわかったという。手を振りながら殺していった。竹本さんは、何とか逃れて、島に泳ぎ着く。


映像の説明はこれで終了、次はまとめのPPである。


 PP その3


 愛国のホールが遺骨の山であることをみた吉村は、遺骨を日本に帰すことを訴え続けた。
 朝日グラフに何度か写真を載せ単行本として「トラック大空襲」を書くまでに12年、16回通った。
 駆逐艦も探し、追風と文月、2隻とも吉村が発見した。
 
 昭和58年(1981)3月 国会が取り上げ
7月5日から27日まで379体の遺骨が収集され現地で荼毘に付された。セレモニーをやった。
 
 しかし、その後もブルーラグーンの水中遺骨展示は続行される。


 追風も1994年に遺骨収集が行われ。
 厚生省は追風などは、以後中に入れないように入るハッチを溶接で塞いだという。



 チュークが、枕船のすべてを戦跡博物館として遺し、遺骨を含め何ものも持ち出すことは許されない。それを見ようと世界のダイバーが集まり、遺骨の水中展示も行われている。
 厚労省が、遺骨収集の交渉をすれば、受け入れてくれた。しかし、ダイビングサービスは、自分たちの財産である展示している遺骨を基出すことは、しない 





そして今はチュークへの中国の進出が大きくなっている。中国が作った海洋研究所がある。戦績保存と並行して日本が海洋研究所を作るべきだった。その経過の中で、遺骨展示の議論もする。展示はやめさせられないが、その形態は議論できる。そのようなこと、やったのかもしれないが、展示は続いている。


 アメリカ人の経営するダイビングサービスもホテルシップであり、設備もよく、大繁盛で、予約は2年先まで満員とか。彼らがどう考えるか聞いたこともないが、遺跡はアメリカ軍の戦果だから、詳しく研究されている。そのレポートを見ることはでできていないけれど、一環であろう、立派な本も出版され販売されている。それを、ここでも資料として図を使っている。



 霊は自分の心の中に存在するとおもっている。遺骨については、それを視てどう思うかである。
 こうも考えた。
 彼らがそこに居て、その船が日本の船であることを、自分たちの船であることを主張し、護っている。そして、過ぎた戦のことを思い出させる。
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 トラックの海は、他に魅力がたくさんある。美しい無人島もいくつもあるし、ジープ島、オーロラ島と宿泊できる島もある。僕もシャークの3Dをとったり そのサメに浪曲を聞かせるという番組をつくつくったりもした しかし、日本人としてこの問題を忘れて良いのだろうか。



 遺族は靖国へお参りし、トラックにも花束を捧げにくる。
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 魚野艦長の遺族は、そうしてきた。僕らの作ったフリーゾーン2000の追風、遺族に残酷な問いかけをしたかもしれない。しかし、丁寧に答えてくれた。そして、自分の思いのたけを話すことができ、本当に良かった。家代々大事にします。といってくれた。


 すべてが、事実であり、けっして忘れたり、無視してはいけない。それぞれが受け止めて考えることしかできない。





 空襲のあった1944年から数えて、79年になる。明治維新から終戦までよりも長い。もう少しで100年だ。
 3世代がトラックの海、戦跡を通り過ぎて行く。水中遺骨展示も視る。
 そして、それぞれの感慨を持つ
 日本人が、当時の姿そのままに見ることができる、おそらく唯一の戦跡。


 ココまでで、僕のワークショップ、「トラック大空襲は終了した。


 しかし、考え続けている。このブログを書くことで、一応のピリオドにしたい。


 ★★★
 
 デンマーク在住、確か、日本のミノルタの電子機器のお仕事をされていて、ライフワークにダイビングの歴史の研究をされている竹川さんという方がいる。僕もダイビングの歴史の研究をしている関係で、日本の大串式マスクの研究のお手伝いをしたことで親しくなった。日本水中科学協会のシンポジウムでの講演をお願いし、快諾をいただいていたが、交通事故に遭われて、今年度はむずかしくなった。
 今回はオンラインでのワークショップだったので、デンマークから参加されていた。なお、チュークからも、僕のすべてのトラックでのダイビングのお世話をお願いしている末永さんも参加されていた。その竹川さんから、メールをいただいた。


須賀次郎様


とても素晴らしいワークショップ『トラック島』でした。ありがとうございました。
終戦記念日に『トラック島』の記録に接したことは、辛い戦争という事実を、今回の『トラック島』を鑑賞して、痛く重く感じました。


多くの場合、映像記録が容易に真実を伝えることが出来ますが、その記録はもちろんほとんどの場合過去になっています。しかし『トラック島』の記録は現在も同じ位置に実在しています。海面から深くても70メートル海底に向かうと、約70年前の真実がそこに現存しています。
犠牲者がまだ横たわっている場所が、見せ物観光ビジネスのアトラクションでは、なんともさみしい感じもいたしました。


1)
ナチス(ヒトラーも含めて)がアルゼンチンに逃げるのを助けたと噂されていた、ドイツを最後に出港したUボート U3523 XXI(海底100m)が発見されました…この件は前にお知らせしましたが、、、下記のようなものです。
『2018年 4月 Newsweek英語版にセンセーショナルな記事が載りました。
かつて、ヒットラーは終戦直前に最も優秀な潜水艦で南アメリカに逃亡した、と云われる仮説がないでもなかったのですが。冗談話で、そのような仮説を信じないでもなかった人達も存在していました。いや、堂々とその説を書く人間もいたことはいたのです。しかし2018年 JD-Contractor A/S の海底 スキャナ船 が ノルウェーとデンマーク間の海域(Skagerrak)で、この話題の潜水艦を発見しました。U-3523 Type XXI.
私のこの博物館の訪問は、このトピックに関する潜水艦の扱いがその後どのように進化したかを尋ねることでした。
答えは、ドイツ政府とデンマーク政府の間で、潜水艦は永久に手付かずの状態にしておく、神聖な埋葬地としてランク付けされました。
JD-Contractor A/S社の持ち主は Gert Normann Andersen氏で、SEA WAR 博物館の館長でもあります。またデンマーク潜水歴史協会の創立メンバーでもあります。
約5年が過ぎましたが、公式なドキュメント撮影目的の潜水でさえ、全面禁止。


2)
1940年 4月9日、大戦初日、ノルウェー首都オスロに入る、20キロ手前の狭い海峡(幅約500m)で、ドイツ戦艦 Blucher が島の秘密に構築されていた魚雷発射管(2013年、ノルウエー潜水歴史協会の招待で見学しました)からの魚雷攻撃で撃沈され、岸から僅か数百メートルのフィーヨルド内に沈んでいます(水深60-80m).  距離からすると、ダイバーの日常的アクセス地点であります。
しかし敵の戦艦であれども、2016 年 6 月 16 日に戦争記念碑として保護されました。フィヨルドの底に沈んでいる人々のために、ノルウェー文化遺産総局によって法律でも保護されました。 その目的は略奪者から船と魂を守ることでした。犠牲者600ー1000人。
3)
MS Estonia (スエーデンーエストニア間 フェリーボート 16000トン)、スエーデンーエストニアーフィンランド海域で1994年事故沈没(海底80m)、犠牲者852名。
3国間で、敬意を表す海中墓地として調査潜水以外の潜水禁止に合意。




少なくとも、なんとかこの3つの例の如き、トラック島にも対策が講じられたらと願うばかりです。


ZOOMで二人の再会の場面を眺めました。人間の繋がりとはなんと素晴らしいのだろうと、思わずにはいられませんでした。胸が熱くなりました。


最後に、須賀様の説明、ハッキリと、理解しやすく、とても素晴らしいナレーションでした。ありがとうございました。
お身体に気をつけて、お元気でお過ごしください。
再会を祈りつつ、
竹川一彦


 竹川さんのご意見、僕も同じようなことを考えたものでした。戦跡として、そのまま手つかずに保存しておくという文化がトラックにも、そして日本にも無かった。
 実は僕も、おなじような結論を思っていたものでした。もういい。静かに眠らせてあげたい。
 しかし、僕も吉村も、そこに遺骨があったから、遺骨に呼ばれてトラックに行ったのではなかったのか。トラックは、美しい環礁で、世界中のダイバーは、それだけでも集まる。でも、遺骨に呼ばれても行く。
 「トラック大空襲」で吉村が書いている。遺骨を日本に帰してあげたい、協力してくれとキミオさんにいうと、いや、彼らの最後の場所、海底に静に眠らせてあげた方が良いのではないかと、さらに、吉村がたのみこむと、そうだね、やはり日本の兵隊さん、日本に帰してあげようと協力してくれる。もちろん有料、30%OFFで、彼らには生活があるのです。
 そして、そのキミオさんが、自分の創立したブルーラグーンでは、遺骨の展示をします。
 なんだこれは。静かに眠らせていない。言っていることと違うではないか。そして、僕が追風に潜るとき、ダイバーは水深60mで、命がけで、狭いハッチをくぐり抜けて。遺骨を取り出して並べてくれます。大腿骨も集めてくれます。
 そして、この遺骨の映像がなければ、35年後にこのワークショップを僕はやることはなかったでしょう。


 海軍兵学校を恩賜の短剣で卒業した魚野艦長は祖国に愛しい妻と子、そして出世コースが帰りを待っています。船には救助した人員が満員で乗っているのに、全速で、トラックに戻ります。ゆっくり走って空襲をやり過ごすこともできた。そして、北水道を抜けて、環礁に入ってすぐに敵弾に倒れ、後は阿賀野の救助されていた副長が指揮をとり、撃沈されます。
 魚野艦長はすばらしい指揮官であり、日本の武人の姿をみます。魚野艦長と追風の悲劇については、まつやま書房 宮崎三代治「ああ紅顔、未来の光」という本もあります。
 僕が映画監督ならば、映画を作り、ヒットさせたでしょう。


 今回、2023年8月には、ちょうど時を同じくして、NHKがマリアナとトラックをテーマにしたスペシャル番組を放映します。時を合わせたわけではなく、困ったものですが、NHKは、フォトグラメトリーを使用して巨大な沈船を再現したり、苦労していましたが、何を言いたいのか、わかりませんでした。でも、この番組企画が通ったのは遺骨がそこにあったからだと思います。そして、NHKだから遺骨の映像は使えない。しかし、遺骨の思いは伝えたかったのでしょう。


 トラック島の戦跡は、遺骨がそこにあるから、人々に語りかける。何を?、それは、受け止める人様々で、結論などないのでしょう。

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