60歳の100m潜水のトレーニング 14 リットルW を背負っている。
「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時人不待」
何処の坐禅堂にも板木で掛けられている言葉だというが、今、自分の気持ちに一番フィットする言葉だ。
もう一つ「なすべきことはあまりにも多く,なしたることはあまりにも少なく。」これは、セシル・ローズの墓銘碑の言葉だというが、セシル・ローズとは、どんな人か、ダイヤモンド商人で、現代の感覚からは、悪人である事とか知らないうちから、言葉だけが頭にはいっている。そして、なぜかスリランカのガルフェース(ゴールフェース)ホテルから視たインド洋に沈む夕日のイメージとが浮かぶ。ケープタウンに行ったことが無いからだろうけど。
月日は夢のように過ぎ、小さな竹の橋の下に川の水は流れて行く、これは歌の文句だが、毎日大量に飲む薬(朝12種類、昼2種類、夜8種類)を一週間ごとに仕切りが桝のように付いている小箱に分けるのだが、これを区切りにしていると一週間が一日のように過ぎて行く。
加齢のこと、死の事をあからさまに書くことは、美学ではない、本当は男の美学、と書きたいのだが、女性が強く、立派である小説をこのごろ読んでいる。とにかく自分の老いだとか、間近になっている死のことをあからさまに書くことは、かっこよくないので、回りくどくかいている。
残された時間で何かできるか、考えると、時を無駄にできない。
とはいえ、無駄な時間、無駄ではないのだが、直接的な作業以外に費やす時間がないと生きて行かれない。
1988年に、ダイビングを生涯スポーツとして、公的にも業界的にも認めさせようと、社会スポーツセンターを芯にして運動を展開した。成したることは、かなりあったかと思うが、昨年、その社会スポーツセンターは幕を閉じた。成し遂げられなかったことになるのかな。しかし、その時に、生涯、スポーツを続けて行こうと決意したことが、今の自分を存在させていると思う。人は何歳までダイビングができるのだろう。若いころは40歳どまりだと思っていた。しかしそれは、自衛官、保安官の現役基準であり、自分がその年齢を過ぎると、人をレスキューできる状態であれば現役と思うことにした。今は、レスキューされて生き残れる間は、になっているが。
自分が一番、ダイバーとして充実し活動していたのは50代である。60代、人の寿命は、65歳と考えられていることを知った。65歳で癌になったが、同時に、自分の人工魚礁リサーチ写真集を出したのがその65歳だった。70歳で、自分の会社スガ・マリンメカニックをきれいさっぱり引退したが、それは、新たな出発であり、今度出すことを決意している「リサーチ・ダイビング」の実例集に載せる実例の大半、外房・乙浜の調査、豊潮丸の航海、お台場の調査は、70歳以後の仕事である。75歳で、日本水中科学協会を立ち上げ創立12年を迎えている。これも、何を成し遂げられるか、毎年の勝負である。
健康診断というものがある。なんとかクリアーできたのは、70歳までだろう。そこから先は、どんな健康診断も潜り抜けられない。何をしてもいけない、「病床に横たわって死ね」と判定される。
幸い、今の主治医、昭和医大の柴田先生は、僕がダイビングすることを前提として、視ていてくれる。死ぬまでの命なのだ。
生死事大、生事大、生きることだけが前提ではない。どう生きるかは、どう死ぬかということ、すべて自分が決めること、結果は自分で決められないが経過は自分が決める。完全な自己責任である。どれだけのことをその間に成し遂げられるかが問題であり、生きるテーマである。