リブリーザの練習、独習をしていた2003~2004年に、波左間、西川名がホームだったら、ずいぶん楽だったと思う。その独習をしていた大瀬崎のゴロタ石の上で滑って転んだりして、けがをしたら、また、潜水後、御殿場越えをして減圧症になっていたら、千葉の館山だったら事故にならなかったのに、と悔やんだろう。
その時期、外房の乙浜で藻場の調査をしていた。タンクは館山の西川名で調達していたし、内房では、坂田の海洋大学のセンター、そして、西崎でも、塩見でも魚礁の調査をしていた。それなのに波左間には、年に一度ぐらいしか行っていない。なぜだろう。波左間に通うようになったのは、仕事としての調査を全部終了してからだった。巡り合わせと言うほかないだろう。
その頃は、仕事としての調査は、外房か、内房、遊びのダイビング、半ば遊び、楽しみのダイビングは、大瀬崎だった。
なぜ、大瀬崎だったのか、それも足場の悪い、大きなゴロタ石を重いタンクを背負い、ころんだら骨折の可能性のある大瀬崎先端 なのか、それはハナダイのためだ。ハナダイの類は、ダイバーのためにこの世界、それも伊豆半島に存在している。ハナダイは、アクアリストにも人気があるが。
この大瀬崎・先端のポイントは、ハナダイのために、深く潜るダイバーのメッカだったのだろう。自分にとっては、そうだった。
釜石のところで、窒素酔いジャンキーのことを書いたが、大瀬崎先端と伊豆大島、秋の浜は窒素酔いジャンキーのたまり場だった。そして、伊豆海洋公園もそうだが、海洋公園は、深度をとるためには、二番の根付近まで行かなくてはならないが、海洋公園は益田さん、友竹らが1960年代後半から、窒素酔いジャンキーになっていた。まだ、テクニカルダイビングなどという言葉もなく、勿論、僕らは何もしらなかった。テクニカルダイビングは、僕の60歳100m潜水のときに、日本ではじめて、ハミルトン博士の講演会をひらいたが、その葛藤は、60歳100mの項で書いた。
リブリーザ独習以前、1990年代後半、12リッターシングルで、大瀬崎先端、水深50-60mで、窒素酔いを楽しんでいた。
あるとき、潜っていくと、それらしいダイバーが一人で、ゆっくり潜降していく僕を矢のように追い抜いて行った。名のあるジャンキーなのだろう。
僕は、次第に窒素酔いになるのを楽しみながら、ゆっくり、それでも、減圧表の指定など無視した速さで60mまで達して、スミレナガハナダイを見る。窒素酔いの状態で、ハナダイを見るのは、夢のようだ。この酔いの愛好、大酒飲み状態になった奴を、窒素酔いジャンキーと僕は呼んでいる。
60mに達したら、タッチアンドゴー。直ちに引き返す。スミレナガハナダイをglimpse、ちらっと見たら、浮上をはじめる。よく、学生などに、魚は。observe、しっかり見て、写真を撮れ、と言ったりするが、オブザーブしていたら、減圧症になる。だから、グリンプス(チョロスナ、ちょろっとスナップ)の写真になる。ろくな写真は無い。12リットルシングルでは、減圧停止を長くする余裕は無い。潜降速度を早くしてターンプレッシャーは、120以上だ。引き返しながらも写真を撮る。ニコノス・ファイブに20mmを付けて、フィルムでの撮影だ。遊び、楽しみだから、社員ダイバーを連れて行くわけにはいかない」」。バディには、東大、理論天文学(現教授)の小久保君に何回かつきあってもらった。小久保君は、東大海洋調査探検部のコーチだったが、僕のバディをやらせたので、窒素酔いジャンキーになりかかった。反省したが、大酒飲みが酒をやめられないように、ダイバーが窒素酔いジャンキーになると、容易にはやめられない。窒素酔いの恐ろしさは、酔いだけではない。その酔いの魅力につかまってしまうことだ。
そんな状態のところにインスピレーションを買ってしまった。浅いところで、機材に慣れる練習をすれば良いのに、大瀬崎先端に行ってしまう。リブリーザにサイドマウントのベイルアウトタンクを持つと、重量は30キロを越える。それで、大きなゴロタ石を越えて行くのは、苦行で、転んだら大変だが、潜りたい一心で頑張る。
インスピレーションは、潜る寸前には、純酸素に近い酸素濃度に高めた気体を呼吸する。エントリーは労働だから、酸素濃度が高いと楽になる、そして、潜水直前にデュリエント、薄める空気を入れて、酸素センサーが設定する酸素濃度にする。この薄め操作を忘れると、酸素中毒になるので、アラームが鳴る仕掛けになっている。ある日、小久保君が、水中で変な音がすると、ハンドサインで知らせてくれた。僕の耳が、その頃から少し悪く、アラームの高い音が聞こえなかったのだ。今のリブリーザは、進化しているから、こんなことは無いだろうが、これが命拾いの第一回だ。もしも、バディがいなかったら、酸素中毒で死んでいただろう。
リブリーザのカウンターラング、呼吸袋は、一旦、深く潜り、少し浮上すると膨らんで、安全弁から気体が放出される。潜ると再び、空気が補給される。数回これを繰り返すと、浮上潜降の巾が1mくらいでも、どんどん希釈ガスが消費される。希釈ガスの容量は小さい。3リッターだったと思う。だから、水平姿勢で静止しないと危ない。僕は、水平姿勢での静止に自信がないから、海底に膝を着くようにして、先端の斜面を這い上がるようにして潜水していた。これなら身体は上下しない。ある日、それでも、希釈ガスを消費したらしく、タンクのガスが無くなった。水深60mだから、撮影のための少しの上下動でのガスの消費は大きい。浮上の途中、水深20mぐらいのところだった。
希釈ガスが無くなっても、カウンターランクは袋だから、呼吸は継続出来るはずと思っていた。だんだん浮上していくのだから、呼吸は続けられるはずなのだが、ガス分圧の変化のほうが恐ろしいので、希釈ガスがゼロになると、酸素も停まるようになっているらしく、
給気がとまった。ちょっと焦ったが、ベイルアウトタンクに切り替えた。しかし、60m潜っている。ベイルアウトタンクの容量、6リットルでは、減圧停止が充分にできない。空気が無くなるまで、3mに居て、後は運を天に任せて浮上した。1時間、ビクビクしていたが、減圧症の症状はでなかった。
なお、最近、辰巳でリブリーザの練習をしている中川が抱えているベイルアウトタンクは12リッターだ。
さて、東京にもどるには、大瀬崎の場合、御殿場をこえなくてはならない。一泊すれば良いのだが、予定が詰まっていた。これも運を天に任せて、御殿場を越えてもどることにした。東京から潜りに行く場合、西伊豆は、御殿場が癌だ。館山ならば御殿場越えはない。この時減圧症になっていれば、館山だったら、と悔やんだだろう。
御殿場を越えながら、祈るように心にに誓った。神様、減圧症にならないで越えられたら、リブリーザは終わりにします。幸運は3度と続かない。それに、バディを窒素酔いジャンキーにさせてしまう。 幸いにも減圧症の症状は出なかった。
田中光嘉の20世紀商事の社長に、インスピレーションを30万で引き取ってもらった。持っていれば、いろいろと考える。実は、この間、リブリーザを使った撮影の仕事もしている。「東京タワー」という映画で、主人公の岡田准一が、プールの飛び込み台10mから突き落とされるシーンを水中で受ける撮影、気泡を出せないので、リブリーザを使って成功した。
そして、この時にやめなければ、リブリーザで、その後、波左間で、深い、70m級の魚礁にもぐっていたことだろう。リブリーザを僕が使う場合、魚礁の中に座り込んで、1時間でも、石になっているつもりだった。上がったり下がったりしなければ良いのだ。海底の石になって、気泡を出さないで、魚の観察ができると思っていたが、田中光嘉を使って、そのような調査をする見積もりを、水産工学研究所などに出したが、決まらなかった。
※ダイビング・ワールドを出していたマリン企画では、マリン・アクアリストという雑誌を出しており、その別冊特集で1998年に「ハナダイ深度」という特集を出して、そのスタッフの中心だた橋本直之君は、慶良間の座間味でダイビングスタッフをやっていて、何度か一緒に潜った。確か日大の水産出身で、たまたま、座間味のガイドをやめて東京に帰る時、僕と一緒になった。座間味で飼っていたという肺魚をしっかり抱えていた。肺魚だから、水に入れないで東京まで抱えていかれるらしい。カメラマンとしても雑誌の編集も優秀だったけど、その後どうしているだろう。座間味で肺魚を飼っているなんて、粋だとおもったものだけど。