そして、予備のベイルアウトタンクを右側に着けているのはまちがいで
左側に着けるべきだという。
60歳の100m、テクニカルダイビングをやるつもりで、大がかりなシステム潜水を、これこそ、日本で、遊びでシステム潜水をやった唯一の記録で、今後こんなことをするダイバーは、出てこないだろうと思われる潜水をやり、テレビ朝日で全国にオンエアーした。
実はこの番組、もっと大きな企画で、この100m潜水にからめて、世界のスクーバダイビングのすべて、その歴史から、紐解こう。そして、コルシカ島で、水深100mから宝石珊瑚を採っている、アラン・ボゴシャンの話から、モナコの海洋博物館までまわり、ニースにあるスピロテクニークの工場に行き、ジャック・イブ・クストーとガニアンが作った世界初のレギュレーターの話も取材した。ディレクターは、ニュース・ステーションの立松和平さんと潮美の水中レポートシリーズで育ち、同じく水中レポートシリーズで一人前になった中川隆カメラマンと、組んで、「海の博物館」というシリーズで一本立ちした乾君が監督だった。そして、10月に館山湾、あの1963年の90mと同じ場所に潜水しようと万全の準備をすすめていた。ところが、僕が健康診断を受けたところ、高血圧症と、冠状動脈に欠陥がありということでドクターストップがかかってしまった。そのドクターストップを河合祥雄先生に助けられて、解除してもらったのだが、準備していた10月が出来なかったために、2時間枠の放送時間がとれなくなってしまい。ヨーロッパをまわった部分の多くがカットされてしまった。
乾君には申し訳ないことになってしまったが、ヨーロッパを廻ったことは、僕の大きな財産になった。
その60歳90mを終えても、まだ、僕は龍泉洞をあきらめられなかった。洞窟というのは、一度入ると、捉えられてしまう。自分の家、自分の洞窟のように感じてしまうのだ。
潜水部の後輩に、テレビの撮影カメラマンをやっている古島茂君(第24代)がいる。同じ仕事だから、いろいろ袖すり合う因縁があった。が、自分が終わるまでに、一度くらい、古島君といっしょに仕事、撮影をしたいねと語り合った。その時に、龍泉洞はどうだろうと話を持ち出した。古島君はリブリーザを駆使して撮影している。リブリーザで、気泡を出さないと、魚に接近しやすいという。
魚に接近はとにかくとして、。気泡がでなければ、気泡に当たって落ちてくる龍泉洞の濁りもできないだろう。そして僕は、リブリーザ、CCRこそが21世紀の潜水機だと思っていた。しかし、一方で、リブリーザをやらなかったことが、自分が今生きている理由の一つだと思っても居た。リブリーザの開発も試行錯誤の部分がずいぶんとあり、試行錯誤の錯誤の部分で、ずいぶんと犠牲者がでている。呼吸気体の酸素分あるの低下は、ダイバーにそのことを知覚させることなく、その命を奪ってしまう。
1975年、日本にもエレクトロラングという名称で輸入されたベックマンのリブリーザは、米国で事故が相次ぎ、タンクが銀色のメッキで光っていることから、「シルバー・デス」 銀色の死 とよばれたということだ。1970年代、まだバックアップするサイドマウントタンクが普及していなかったのだろうか。
アメリカの海底居住計画、シーラブ計画も、リブリーザの呼吸ガストラブルで死亡事故が起こり、これが引き金となって、この巨大な計画が停止してしまった。
しかし、僕もどこかの時点で、リブリーザをやりたいとは思っていた。古島君に相談した。リブリーザについては、古島君が先輩だ。
古島君は、リブリーザを使うときに同行してもらっているという豊田君を紹介してくれた。2003年の秋のことだ。
豊田君の会社は、テクニカルダイビングセンタージャパン、新橋の駅の間近だが、エレベーターのないビルの5階に事務所がある。機材を持っての上り下りで、確かに体力は鍛えられるが。そして豊田君は、アメリカのテクニカルダイビングの指導団体IANTD(アイエーエヌディーティーディー)の日本代表でもあった。
購入したリブリーザは、インスピレーション、価格は121万8千円だった。そして、このインスピレーションはIANTDの資格をもっていなければ、購入できないという。その資格、まずマスターダイバーの講習を受けることになった。2003年、僕は1935年生まれだから、68歳、自慢では無いけれど、ダイビングの講習は、講師をすることは、1967年の日本潜水会設立以来数しれないが、受講するのは1957年の水産大学の講習受講以来の経験だ。1996年にテクニカル・システムダイビングで100m潜っている、そんなことは、INATDのキャリアにはならないのだ。
湯河原にあるプールで講習を受けた。このプールは、先日、潰れた、営業を停止したプールだ。このプールが潰れたことに際しては、その復活を願う募金があり、いろいろなスキンダイビング、フリーダイビングの知人たちが応援しているということで、その募金に付き合った。どんな募金かというと、プールの復活を願うようマスコミに騒がせる。その騒ぎを煽る資金だという。しかも、どの程度騒ぐかは、保証していない。少し考えれば、完全な詐欺だ。しかし、1500円とか2000円は付き合いだ。と思って応募し、電話番号とメールアドレスを抜き取られた。が、これも浮世の義理だから、仕方がない。マスコミの騒ぎも起こらずプール復活の兆しもない。学んだことが一つ、以後決してこのようなアドレスを抜き取られるような募金にはつきあわない。現金を現金書留で送る募金になら、応募しよう。この抜き取られた情報で、もしかしたら少額のお金がカードから外国に吸い取られているかもしれないが、調べようがない。ネット犯罪のおそろしさだ。
湯河原プールでは、25m潜って泳ぐ途中でのマスククリヤーとか、いろいろあったが、とにかく、IANTDのマスターダイバーには合格し、次は、フィリピンのセブ島、マクタンにあるコンチキ・ダイビングセンターでの海での実習になった。三日間だったか、四日間だったかの講習、一人では実施できないというので、名古屋の浅井さんにも、インスピレーションを買わせて、参加させた。セブ、マクタンのコンチキは良いところだった。
IANTD公認?の看板を付けていて、混合ガスの製造ができる。ヘリウムも日本よりも安価、容易に入手できるらしい。日本でもこのくらいの設備があってもいいだろうが、無い。日本はテクニカルダイビングの後進国になっている。ホテルも日本よりも安価に泊まれる。
ただ、エントリーが岸からだが、危なっかしい手すりのない階段を30キロのリブリーザを背負って上り下りしなくてはならない。豊田君は新橋の5階で鍛えているから問題ない。海は、入り江で波も無く、深度もとれる。ぼくらは、10m前後の平らな海底で練習したが、ちょっと泳げば崖になっていて90mぐらいまで降りられるらしい。
見事に不合格になった。30キロ以上あるくそ重いインスピレーションの水中でのとりまわしが中性浮力ではできなかった。マウスピースのシャット、開閉でミスがあった。
豊田君は、別の講習グループも見ていて、こちらの方は、やや進んでいて、30前の若い人だが、終了試験、体験で、90mまで潜ったそうだ。僕が90m潜るのは大変だった。60歳の100mはシステム潜水で、100名近くのサポートがあったお祭り騒ぎだった。こちらは、数週間の練習で、豊田君がバディでもぐったっが、それだけで90mだ。
テクニカルダイビングとは、そういうことなのだ。その代わりに、システム潜水では、パーフェクトに近く死なないが、テクニカルでは容易に死ぬ。豊田君の教えたテクニカルダイバーがフリーダイビングの監視役で潜っていて、死んだ。直接的な原因は、常に不明だが、サイドマウントのエマージェンシータンクを持っていなかったらしい。持っていれば助かったかもしれない。豊田君には、講習でサイドマウントタンクとの切り替え練習を何度もやらせられた。なんとなく、おかしくなったら、すぐにマウスピースを閉じて、サイドマウントに切り替えろ、という。なんとなく異常ってどういうのか?それは説明できない。個人差もあるし、その時の環境、シチュエーションにもよる。
このドキュメントの終わりのところで、自分の死生観を述べよう、説明しようと思っているが、短く言えば、海で死んで何が悪い、陸でだって人は普通に死ぬ。自動車事故でも死ぬ。海に生きたのだから、海で死んで責められることはおかしい。教える方にミスがあれば、賠償責任保険で対応する。たいていの場合、ミスがある。自分のミスで死んでも、インストラクターがいっしょにいれば、そのインストラクターの賠償責任保険で対応される。自分一人ならば、自分の生命保険しか降りない。ただ、その原因だけは、もしも安全を謳うならば、公表しなければならない。CCRを200万出して買うレベルになれば、死ぬのは自由だが、その原因、経過の報告は義務だとおもう。
フィリピンでの講習で、合格しなかったが、やることの大概はわかった。
インスピレーション機材もも合格しなかったら、返品、返金というわけではない。そうだったら、全員合格になってしまうだろう。
大瀬崎先端は、深度がとれるので、そこで独習して、機材になれることにした。
このあたりで、田中光嘉とと縁ができた。彼はテクニカルダイビングのロイ・ハミルトン博士の弟子筋だった。
「なぜ、僕のところに相談に来なかったの? 自分なら最後まで面倒を見るのに。」豊田君も僕を見放したわけではない。不十分だから、セブ島の講習に通えといっているだけなのだ、しかし、そんな時間もお金も無い。リブリーザでする仕事などないのだ。水深60mまでなら12リットルダブルで楽に行ける。スガ・マリンメカニックは、深潜りを得意にしていたこともあるけれど、やがて、メンバーの加齢とともに、そして、1990年の事故以来、そんな危ないことは仕事ではできないということになり、40m以上の仕事はしないようにしていた。。
そしてさらに、ちょうどその時、スガ・マリン・メカニックを閉める時期が来ていた。10人のダイバーを抱えて行くのはつらかった。僕が50歳、みんなが30歳ならば無敵だった。無敵だったが故に前途のある若者を殺してしまった。そして自分は60歳を越えて、社員メンバーも自立するべき年齢だ。全員を部長、課長にしてそれぞれに部下を従えさせる経営の才は自分にはなかった。僕は、自分が先頭に立って潜りたいのだ。撮影の会社、アアク・ファイブ・テレビも中川が独立の時が来ている。テ・ルというレジャーダイビングの販売店も、担当していた大西が独立の時期がきていた。
リブリーザは、すでに200万を超えるお金をかけてしまっている。もう、無駄金は使えない。だいたいのことはわかった。独習することにした。田中光はサイドマウントの予備タンクを持たなければ危ない。そこに置いてあった6リットルの細身のアルミタンクを6万円で買った。後に、これが、僕の命を救うことになる。
続く