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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0313 ダイビンググラフィティ 26 100m潜水

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人の人生、一本道では無い。いくつもの道が錯綜していて、それが絡み合い、より合わさっている。そして、それは、記憶の中で、時系列で並んでは居ない。
 自分のダイビングライフもそのようで、いくつもの道が錯綜して流れている。生涯スポーツの流れ、リサーチ・ダイビングの流れ、テレビ撮影の流れ、それが撚り合わさって、1995年~96年に60歳のくぎりイベントで100mに潜っている。
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   深田サルベージ、新日本海事の新日丸400トンを東伊豆の八幡野に浮かべた。


 その潜水は、システム潜水とテクニカルダイビングの葛藤で。結局はシステム潜水で潜っていて、この潜水で、二つの潜水の具体的な区分けが。よくわかる。
 システム潜水とは、僕の60歳の100m潜水では、新日丸という大型の潜水母船を東伊豆八幡野の湾内、水深100mの上に浮かべ、ケージを吊り降ろす。ダイバーはケージに乗って潜降する。呼吸する混合ガスはホースで船上から供給される。もちろん電話は繋がっていてダイバーは船上の指揮者、トップと呼ぶのだが、トップの指示でうごく。混合ガスの混合比などもトップが、コンソールボックスで、調整する。トップとダイバーは、広義のバディである。水中のバディも必要で僕のバディは、あの釜石湾口防波堤の潜水時に23歳で入社した田島雅彦である。雅彦は龍泉洞も沼沢沼も潜り、その後JAMSTECの深海潜水コースに入学し、終了後、対馬沖のナヒモフ号の金塊捜索引き揚げ作業に出向し、もどって来たときには30歳を越えていた。ナヒモフの潜水はシステム潜水であり、スポンサーの笹川良一は、金塊は出なくとも日本で深海、システム潜水の技術を育て根付かせるために役立てば良いという考えを表明していた。
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   ケージを25mに降ろして、スクーバでそこまで降りて行く。
   左がカメラマン、潮美。ケージを挟んで須賀、その下に、100mまで追っていくROV

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     僕の背負ったタンク、14リットルのダブル
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        船上のシステム 船上減圧の再圧タン

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     トップ、船上ですべてのコントロールをする河野さん。

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        総指揮の石黒信男さん。彼のおかげでこの潜水ができた。当時帝国酸素で
        ヘリウムガスを提供してもらっている。


 ところがやっかいなことに、僕は、テクニカルダイビングに憧れていた。


 後藤道夫の潜水の弟子で、熱海の後藤病院の子息である後藤輿四之がいる。もちろんダイビングのエキスパートであり、優れた外科医でもある。素潜り魚突きの達人である鶴耀一郎の弟子である。霜婦岩で巨大なイソマグロを突いて雑誌に発表もしている。後藤道夫と紛らわしいので、熱海の後藤さん。略してアタゴさんとも呼ばれていた。その熱海の後藤さんに僕の100m潜水の潜水医学的なエンジニアリング、バックアップをお願いしていた。アタゴさんは、アメリカのテクニカルダイビングの医学的な理論バックアップをしているロイ・ハミルトン博士と親しく、ハミルトン博士が、日本のJAMSTECに出張してきた機会に、僕の100m潜水の減圧表デザインを依頼し、同時に、僕が常任理事を勤める生涯スポーツの社会スポーツセンターで、テクニカルダイビングの講演会を開催した。これが、日本におけるテクニカルダイビングについての講演会をやっていただいた。の嚆矢である。
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     ハミルトン夫人、ロイ。ハミルトン。後藤先生、 須賀


 テクニカルダイビングの定義は、混合ガスを使う40mを越える大深度潜水であること。そして、スクーバであること。つまり、システム潜水とは真逆である。がんじがらめに安全を追及するシステム潜水とは裏腹に、糸の切れた凧であるスクーバを金科玉条とする。自分としては、今でこそすっきりと割り切れている。すなわち、ダイビングとは、システム潜水とテクニカルダイビングの狭間にある。システム潜水は安全度が高いが、その装備、システムは大がかり高価であり、煩雑であり行いうる場所、条件が限定されるイベント(作業)である。テクニカルダイビングは、冒険であり、それを行う個人の技術と責任に安全の多くを負っている。その狭間に作業、仕事としてのダイビングがある。
 その仕事の中身は石油掘削とか海底居住のような大プロジェクトから、個人のレクリェーションまでの巾がある。 その狭間でダイビングを編み、機材を選択する。
 これが、現在の自分のダイビングについての考え方の到達点でもあるが、まだ、その割り切りの無い1995年の時点では理解ができていない。苦労した。
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    103mに着底した僕を、ROVで撮影したもの

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      レポーターの三浦洋一さん、芸能界一番のダイバーで、僕がカメラマンで、日本を一周するニュースショーの番組をやった。残念ながら早く逝ってしまった。
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        浮上したらタンクに速攻で入って減圧する。
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        減圧中の須賀と田島、純酸素を吸っている。


 システム潜水のケージを25mまで沈めておき、僕はスクーバで降りていく。ステージに乗り移り、ステージで降下を続け、80mで、停めて、最後の20mをまたスクーバで100mまで降りる。100mでは、タッチ&ゴーで、ステージにもどり、フルフェースの送気式に切り替えて、水面と連絡、テレビ番組として、この潜水をやったから、レポーターの三浦洋一さんと話をしながら船にもどり、減圧は船上のタンクに入って行う。こんなややこしいことをなぜやるか?それは、自分だけしかわからない。独りよがりのテクニカルダイビングのつもりをやった。
 しかし、何の意味も無く、ただの遊びで、システム潜水で100mまで潜ったのは、日本では、いや、世界でも僕一人かもしれない。
 後から思えば、システム潜水に割り切った方が世方かもしれないが、自分は索付きのシステムと糸の切れた凧のスクーバの間で揺れていたのだ。


 後藤輿四之先生は、僕の潜水について報告書を書いて、高気圧医学会に発表した。そのタイトルは「日本初のスポーツとしてのテクニカルダイビングによる100m潜水」だった。今となっては、「日本で最初で最後のスポーツとしてのシステム潜水で100mに潜水した。」が適切だったかと思う。もうこんな大掛かりなバカなことをやる人は決してでてこないだろう。
 そして、100mに降りたケージから、田島と二人、バディで、海底に降りたって、記念撮影とかすればよかったかもしれない。



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