停滞すると連続性が切れてしまって、部分的には繰り返しになってしまうのだが、とにかく、接続しよう。
1970年代に話をもどす。
1970年代は、テレビの撮影、テレビのドキュメンタリーや、ニュース取材がフイルムからビデオに代わる時代だった。
テレビはテレビカメラが作られたために成立したのだが、そのカメラは巨大であり、太いケーブルを引きずっていて、スタジオで台車付きである。スポーツ中継は大型バスのような中継車が行って撮る。
これでは、ニュースやドキュメンタリーの撮影現場、例えばベトナム戦線には持って行かれない。16mmフィルムで撮り、フィルム映像をテレビ映像に変換する。
ハウジングを作った70DRは、ニュース取材用のカメラで、戦場では、報道カメラマンが、砲弾に当たって飛び散っても、手にしていたDRは、直撃されない限り、生き残っていて、そのカメラマンの最後に撮った映像が残っているというカメラだ。
摩周湖は、このフィルム撮影で取材したが、放送局のテレビ映像に本格的に関わったのは、このフィルム時代ではなく、録画するテープの巾が1インチのリールから、四分の三インチのカセットになり、録画レコーダーが、ようやく肩からベルト掛けて抱えて走れる大きさになり、カメラも担いで走ることが出来る程度の大きさになり、このレコーダーとカメラをケーブルで繋いで、二人一組で走る、録画するシステムでニュース撮影ができるようになったころだ。このシステムを、ENGシステム、エレクトロニック・ニュース・ギャザリングと呼んだ。
それは海について言えば、小笠原が変換された1968年頃で、テレビ局各社は、このカメラの水中ハウジングを作り、レコーダーは、ボートの上に置き、ケーブルで水中テレビハウジングとむすんで水中撮影ができるシステムを作った。ところが、この水中テレビシステムで水中撮影をするカメラマンが各社にはいない。そこで、カメラマンにダイビングを教えるか、ダイバーにカメラ撮影手法をおしえるかの議論があった。ダイビングは命にかかわるから、ダイバー、すでにダイビングが出来る者にカメラを持たせた方が、安心だ。とはいえ、使い物にならない映像を撮られても困る。
東亜潜水機を退社するとき、引き留められるとともに、マスク式の潜水機の製造はできないような、これは信義的な約束をした。
そこで、ハウジングを作る島野徳明と、高校時代の友人の友人であり、摩周湖に一緒に行った鈴木博と三人で、スガ・マリン・メカニックを設立したのだが、テレビカメラのハウジングもつくり、そのテレビカメラを使って、主に水産関係の調査、人工魚礁の調査もするようになっていた。
自分のところで作った、最新鋭の撮影機材で調査をするというのがスガ・マリン・メカニックの売り、セールスポイントだった。
それが糸口になって、日本テレビ(NTV)山中プロデューサーの水中撮影を受けるようになり、ポンペイのナン・マタールの遺跡、ガラパゴス、アラスカ、日本一周、知床で撮影をやるようになる。世界を股に掛けるというと格好が良いが、社長業を放り出して留守にするわけだから、社長業としては失格になったが、自分では満足、幸せだった。
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振り返って見ると、自分のダイビング人生はいくつものルートがあって、それが絡み合っている。知床ルートがその一つだが、そのルートではなくて、釜石から、龍泉洞に行き、龍泉洞から沼沢沼に行くルートに話をもどそう。ディープダイビングと、トンネルのように、頭上に水面の無い、閉鎖空間への潜水のルートだ。
龍泉洞は、NHK仙台の大橋プロデューサーの仕事だった。NHKには、親友の河野、竹内、親友でライバルの南方などそうそうたるカメラマンが居るのに、なぜ、僕にカメラが来たのかという理由をちょっと話した。それは、撮影が、フィルムから、ビデオに移行する隙間での、NHKの職制の隙間の出来事、フィルムのカメラマンは、ビデオカメラを振れない、使えないという隙間でのできごとであった。
そこで、龍泉洞なのだが、
龍泉洞は鍾乳洞である。最近は、メキシコのセノーテとか、沖縄や、徳之島の海の中の洞窟探検を仲の良い友人たちが励んでいるが、龍泉洞は、鍾乳洞と呼ぶにふさわしい鍾乳洞である。
鍾乳洞は、石灰岩地形を湧き出す地下水が溶かし、穿って、まるでスポンジの断面のように立体的な迷路となる洞窟である。竜泉洞も、地中深く~」湧き出してきた水が、洞窟の中を川のように流れ出て、岩泉川に注いでいる。
洞窟の中の川に沿うように観光用のコンクリの道があって洞窟の行き止まりまで行ける。観光銅である。
動物は穴があれば隠れ家とする。原始時代の人間も洞窟を家にした。穴居である。岩泉龍泉洞にも穴居のあとがあり、穴居人の博物館的な展示が洞窟の入り口近くにある。
水が穿った洞窟だから、進んで行くと水に阻まれる。水面があれば泳いで、水面が無ければ潜りぬけて行かなければその向こうには行かれない。洞窟探検は、水は潜りぬけ、壁があればよじ登り、人間が入れるような穴であれば身を縮めて通り抜けて先に進む。苦労して進んだ先が大きく広がる大洞窟であれば大発見である。
人は、海にはどこまでも深く潜り、山があれば頂上まで上り、洞窟に入れば行き止まりまで行きたい。そして、それが人の命を奪うことになるのだが、ある種の人間、ダイバーもその種の一つだが、行き止まりまで行くこと、もしかしたら、向こう側の出口からでるまで、進むことを止められない。
竜泉洞に魅せられた男が居る。ダイビング用品メーカーとして成功し、その後は、消防用の呼吸器に乗り換えてさらに成功した日本ダイビングスポーツ社の松野庄治さんだ。
昭和42年(1967)に行われた竜泉洞潜水調査の報告が、雑誌「海の世界・1968年2月号」に掲載されている。書いたのは松野さんと一緒に潜った越知研一郎氏だ。
「くぐり抜けて水深計を見ると、なんと52メートル。海でも経験したことのない深さだ。空中の6倍の水圧でウエットスーツが煎餅のように薄くなり、冷たさが身にしみる。身体の下にはぐんと深い淵。100メートルを越えそうな奈落が真っ黒く落ち込んでいる。奥へ奥へとロープを引っ張って懸命に泳いだ。松野君がピタリとすぐ横を進む。キャップランプの光がたよりない。 ――中略―― 奥へ進もう。X洞の地点へ出て驚いた。水中にスパン!と断層が抜けている。ビルの谷間と言おうか、いや大きな都市の駅前通りにいっぱい水をためたようだ。せめて15階建て以上のビルの群でないとその大きさは想像できない。大地底湖だ。
ぐんぐん浮上する松野君、かすかに水面の広がりを見た瞬間、僕は急に気分が悪くなった。吐き気とともに頭も胸も苦しい。
引き返そう。思いきりロープを引っ張って合図した。すぐUターンしたところまでは意識がはっきりしている。ロープだ。生きるためにはロープを引くのだ。目の前が真っ暗になり、ロープがクモの糸のように一筋に伸びているのだけが印象に残っている。」
越智研一郎さんと松野さんは、見つけた大洞窟をX洞と名付けた。鍾乳洞は立体的な迷路だ。同じ地点に行くことはとてもむずかしい。記憶だけでは行かれない。見たと思った? X洞に行こうと調査を継続する。昭和43年(1968)、彼等のグループのダイバー2人が調査を行った。新たな洞窟が見つかれば、観光の宣伝になる。隔てている壁を掘りぬけば、巨大な地底湖が壁の向こうに広がる。
1人は戻ってこなかった。
鍾乳洞の潜水では、ダイバーが吐き出す気泡が鍾乳洞の壁にあたって、壁に貼りついた水垢、泥のような堆積物が巻き落とされる。それまで水晶のように澄み切った水が、一瞬にして視界ゼロになってしまう。光の届かない暗黒の中での視界ゼロだ。濁りの中では、ライトの光は全く通らなくなってしまうから本当の暗黒だ。出口を見出せなくなったのだ。
洞窟、トンネルの潜水の事故は、出口に戻れなくなって亡くなる。今でこそ、そのラインの引き方、使い方が一つのシステムになっているが、その時代はそんな方策はない。
この事故の時、岩泉町では、新しい巨大な洞窟の発見を祝おうと、シャンペンを用意して、待っていたのだと言うが、一人が戻って来なかった。そして、松野さん達の龍泉洞探検は終止符を打つ。
松野さんたちのグループの中心で、先ほどの海の世界の記事を書いた越智さんも、その龍泉洞ではなく、生計のための仕事にしていた船底の清掃作業で命を落とす。
船には海藻だとか、牡蠣の類だとかの付着物が水線下に付く。これが水の抵抗になり速度が落ち、燃費がかさむ。ドックに入れてこれを落とすのだが、ドックに入れないで、ダイバーが落とす作業も行われる。勿論、ダイバー作業の方が、コストも時間も少なくて済む。巨大な油槽船などでは、船底は、運動場のように広い。出口、浮上できる縁が何処なのかわからなくなる。コンパスは効かない。大廻しロープを設置して作業するのだが、それでも、危険な作業である。越智さんは、これで命を落とした。
僕らの時代、スクーバ潜水は、普通に、不注意で、あるいは不可抗力で、たやすく命を落とした。僕の場合は、幸運の星が頭上に輝いていて、ここまで生き延びた。注意深かったわけでもない。技術的に優れていたわけでもない。ただ、幸運だった。
その僕が、巡り合わせで、竜泉洞のX洞を目指す。松野さんに挨拶をしておかなければならない。仁義を切って置かなくてはならない。様子も聞いて置きたい。古い友人だったから、知っていることは何でも話してくれると思ったのだが、竜泉洞については口を閉ざして何も語らない。それでも、友達だからと、X洞入り口の部分の簡単な青焼きの図面をくれた。そして、上に向かう穴には全てと言って良いほど、ガイドロープが垂れ下がっているけれど、そのどれも目印にはならないと教えてくれた。つまり、ガイドロープがたれている穴は調査済みということらしい。そういう目印にはなっている。
竜泉洞の奥、観光舗道の行き止まりは、差し渡しで15m程度の泉である。少し高く作りつけたテラスから見下ろすと青い透き通った水が深みから湧き上がっている。湧き上がると言っても、強い流れではない。潜るのに何の支障もないような湧き上がりだ。ここから潜り込んで壁をくぐり抜ければ、本当の大地底湖がある。はずである。いや、地底湖と呼ぶのだから、水面がなくても、空間が無くても地底に拡がる水間があれば、それが地底湖だ。地底湖は存在している。その向こうに空間が有るか無いか、空間の地底湖を探すのだ。その空間の水面にでれば、ビルが一つ建つほどのドームがある、のだという。
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潜水メンバーは、河合、井上、田島、米田、鶴町、そして、自分、須賀だ。その当時のスガ・マリン・メカニックのベストメンバー、スガ・マリン・サーカスだと自負していて、そのことが、その思い上がりがやがて事故を起こすのだが、とにかく、チームで動けば恐ろしいものはなかった。それに、見習いの堀部を連れて行った。堀部は歩行者天国で踊っていたロックンローラーで、暴走族、食べさせればいくらでも食べる力持ちだ。洞窟の中での荷物運び要員であるが、ダイビングでも使えないことは無かった。
堀部は言った。「一目見て、暴走族とわかるようなシャコタンの車を買いましょう。須賀さんはそれに乗ってください。似合います。」そう言われて、二人で検討したことがある。スカGの良い車を見つけたのだが、馬鹿にはなりきれず、買わなかった。少し、後悔している。一生に一回ぐらいは、そういう方向の馬鹿をしてもよかった。堀部は、やがて、数々の武勇伝を残してスガ・マリンメカニックを去り、父親の後を継いで事業に成功し、青年会議所のメンバーになった。が、挨拶に来ない。お歳暮一つ来ない。しかし、そういう、殺しても死なないような奴が、ダイバーには向いている。とも言える。
まず釜石で経験し、慣れた、水面からホースで空気を送るフーカー式潜水で潜ろうと計画した。洞窟での事故は、迷路に迷い、空気が尽きるために起こる。ホースで空気を送る潜水ならば空気が無くなることは無い。ホースで水面から空気を送っているのだから迷うことも無い。
水に入り竪穴を降りて行く。水深35mで竪穴の底に着く。さらに、斜め下方に向かって急角度に降りている洞窟の奥にカメラを向けて、500ワットの有線ライトで照らした時、人生観が変わったと思うほどの衝撃を受けた。大きな広がりに、陸上の空気と同じほどの透明度で光が通っている。そして透明な青、河合が別の有線ライトを持って先に進む。太鼓橋のようなブリッジが20mほど先にある。その地点までライトを進めて、ブリッジにライトをくくりつける。
ダイバーはシルエットになり、気泡がライトに照らされて、光り輝きながら上に向かう。、ブリッジの下をくぐりぬけると、先には青黒い暗黒が下に向かっている。ブリッジの部分を第二ゲートと名付けた。
衝撃を受けた光景を映像にしたい。美しい映像を作るためには三次元的なカメラの動きが必要だ。ホースでは自由な動きが出来ない。自由に洞窟の空間で動くためには、ホースがどうにもならないほど邪魔だ。フーカーのホースはあきらめて、全てスクーバで行くことに決めた。ホースはX洞への通路に入るときから使えば良い。この通路で、おそらく一人がでられなくなり、亡くなったのだから、僕らは穴に入るときは、ホースで行こう。
自分で撮る映像に、自分で魅せられてしまい、いくらでもテープをまわしてしまう。映像も大事だが、X洞への通路も探さなくてはならない。上にも下にもいくつもの、人間がようやく身体を突っ込めるような隙間がある。まるでスポンジのような鍾乳洞の、スポンジの隙間全部に入り込んでみる時間は無い。テレビ番組のロケだから、時間には限りがある。
黙して語らない松野さんを拝み倒すようにして教えてもらったことは、「水深50mあたりから上へ向かう穴があり、穴を上に向かって行くと5mか6mで行き止まりのようになる。行き止まりの壁を左の方に、ダイバーがタンクを背負ってようやく入って行かれるほどの隙間のような通路がある。少し苦しいけれど何とか入り込んで2mほど進むと突然のように大きく開けて、そこがX洞だ。大丈夫だよ、何とか行かれるよ」と教えてくれた。
当時の日記、1981年の6月の日記から抜粋、リライトする。
鶴町は通算9回目の潜水で、第三ゲートを少し越えたあたりに人間がようやく入って行かれるような穴が上に向かっているのを発見した。次の日、
6月24日、河合がカメラを持って行く。鶴町が見つけたと言う上に向かう穴を探すのだが、同じ場所に行かれない。同じ穴なのかどうか区別がつかない。皆同じような穴に見えるという。
通算11回目の潜水は、須賀がカメラを持って撮影した。第二ゲートと第三ゲートの間あたりに、上に向かってダイバーが入って行けるか行けないかぐらいの大きさの穴を二箇所発見した。一箇所には、一度入ったという印のロープが吊り下がっている。もう一箇所がちょうど55mだ。上に向かっている。これに違いないと思った。しかし、入り込むには空気が不足している。スチル写真を撮り、思いを残して立ち去った。ホースだったら入ってゆけたのだが。
6月25日
通算第12回目の潜水。河合、田島が撮影に入った。洞窟は水深68mで行き止まりに見えるという。地底湖は、水深68mで底になっているのだろうか。
続いて通算13回目の潜水を鶴町、井上、米田で行い。水深55mで上に向かうたて穴を見つけた。二人は、この穴がX洞への通路だと言い張る。多分僕の見た穴とおなじだろう
6月26日
6月19日から潜水撮影を開始したのだから、8日目だ。これで予定していた日数が尽きる。
テレビ番組だから、何か山場を作って盛り上げて終わらせなければならない。あと一回だけの潜水だ。55mで上に向かう穴がX洞への入り口であったとしても、あと一回の潜水では、入って行くのは無謀だろう。 幸運だけでは生き残れない。無謀だと思うことは、やらないことにしていた。第三者がみれば、それでも充分に無謀に見えただろうが。
一日前の潜水で、河合と田島は、水深68mで行き止まりになっていることを発見したという。底があるのならば底を極めよう、と相談がまとまった。
最後の潜水だから、水面の基地で指揮をする米田を残して全員が潜水した。須賀がカメラを持ち、河合と鶴町が先行した。彼等がいう68mの底まで行こう。後方でビデオ信号のケーブルをさばくのが井上、田島、堀部だ。その頃のテレビ・ビデオカメラは、水面に録画のVTRを置き、カメラとの間をケーブルで結んでいた。命綱付きの潜水だ。僕らは、このケーブルのおかげで、何度も命を救われている。つまり、その時代に生きた(潜った)ことは、幸運の一つでもあった。
地底湖での潜水では、なぜか窒素酔いは軽い症状だった。少しおかしい感じ、ぐらいで終わって居る。何故だろう。淡水で、しかも水が冷たくて8度だからか?
とにかく、この時の潜水まで、窒素酔いは少しばかりいい気持になるだけで、不快感もなければ、意識が途切れることも無かった。どんどん潜って行って60mを越えた。すぐに70mだ。おかしい。70mあたりに底があるはずではなかったのか。下を見ると、竪穴が真っ直ぐに下にむかっている。青黒い透明で、下の深さはどのくらいあるかわからない。70m地点で底なしの穴の中に浮いている。浮いているというが、深くてウエイトがオーバーになっているのでどんどん沈んで行く。サーチに出ていた河合と鶴町が戻ってきて、僕の腕をつかんで引き上げにかかった。僕は、到達地点で水深計の指針をカメラに収めようと思っている。なにか水深の証拠が撮れなければこの潜水は終わらない。腕を振り解いて、その水深で停止しようとする。彼等は上に引き上げようとする。水深70mでの格闘だ。上で見おろしていた井上と田島は、窒素酔いで、狂った三人が格闘しているのかと思ったそうだ。ようやく鶴町の水深計をつかんでカメラの前に持ってきて、意図を理解させた。水深計の指示は73mを示していた。彼らに引き上げられていたから、本当は80m近くまで落ちていたかもしれない。浮上と決めてからは、あっという間に水面に向かって駆け上がった。用心のために減圧停止を長めにしてから浮上する。
あとで計時を調べてみると、潜降を開始してから73mまで潜り、浮上して減圧点に戻るまで、3分弱しか経っていなかった。規則で決められている一分間に10mの率どころではない、一分間に50m以上も潜降し、浮上している。そのころは未だ、停止点までは、早く上がっても良いと考えられていた。その後、浮上途中の水中で減圧症になるダイバーが多くなり、深く潜った場合には、停止点まで、カタツムリが這うようにゆっくりと浮上しなければならないことになった。カタツムリが這っている間に死んでしまう奴もいるだろう。速攻で上がって潜水病になっても生きていた方が良い。
撮影が終わっていないのに、何故引き上げたのだと、彼らを問い詰めると、その時の僕の顔は、目が点になっていて、つまり視野狭窄の状態で、潜水を続けたら危ないと思ったのだそうだ。
地底湖は、50mから60mの途中で、左右に二股に分かれていた。鶴町と河合は前回の潜水で、わき道にそれてしまって底についた。今回は本筋を行ったので底がなかった。本筋に行ってよかった。枝洞に入って底を発見したなどと番組で放送したら大恥をかくところだった。
僕たちは、国内の鍾乳洞で水深73m潜水の記録を樹立した。というと聞こえは良いが、73mまで墜落したのだ。水深計を映しているから記録になる。
NHK夏休み特集「地底湖の謎―謎の大洞窟」は昭和56年(1981年)8月20日に放送され、巨人対広島の野球放送の裏で、野球放送を抜いて驚異的視聴率を上げた。出世コースを驀進した大橋プロデューサーは、いつもこの視聴率を後輩に成功例として話したそうだ
鍾乳洞というのは、人を引き込む魔力があるらしい。その洞窟が自分の洞窟だと思いこんでしまう。もしかしたら遠い祖先、人類が穴居生活を送っていた原始のころの記憶がどこかに残っているのかもしれない。
この撮影に参加したみんなが竜泉洞は自分の洞窟だと思いこんだ。あと一息でX洞が見つかるところまできている。あと一歩だ。この撮影をあと一週間続けられたならば、ホースを使って、あの穴のところまで行けば、入って行かれた。一度東京に帰って器材の整備と点検をして仕切りなおしができるならば、行けていたと思った。
この項続く