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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0128 ダイビング グラフィティ23 摩周湖

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         摩周湖、湖岸、はるか遠くにカムイッシュ島が見える。
 ブログが書けなくなってしまっている。といって、、今年中に出す。出さなければ、もう自分の生涯ではだせない。と必須の思いで居る本、二冊、最新水中撮影調査技法と、ダイビングの歴史、も書けない。
 構えてしまっているから書けないのだ。まとまった形で書こう、きっちり書こうと思うから書けない。
 ブログを読む人は、一冊の本を読むようには読まない。適当に読んで、いいな!と思う部分があったり、そうなのか、と思ってくれる部分があれば良いのだ。自分が書いて、発表したのかしなかったのかわすれてしまっているような文章を読んだり、ちょっとしたメモを読み返してみると、「いいな!」と思ったり、これはきちんとまとめなくてはいけないな、とおもったりする。それをきちんとまとめる必要はないのだ。また、本を出すように、きっちりと構成されていなくても良いのだ。そのまま、適当にブログに出せば良い。 そんな風に書ければ良いのかな。


 自分の生きてきた人生、ダイビングライフもきっちりと順序立てて、生きてこられたわけではない。「支離滅裂」という言葉が好きだ、という生き方だった。それを順序立て、時系列にそってきちんと書こう、とすることがまちがっている。
 ここから先、支離滅裂に書こう。順序立てて。
 
 そんなことで、一旦、釜石にもどり、龍泉洞を見に(潜りに)行こうとして、摩周湖の話になってしまったところから、ブログにもどろう。摩周湖は、それから後、長く、摩周湖にいったのが確か1967年の夏だから、以後、2000年頃まで通い続ける知床への門口だった。
★★★★★ この印で、話がくるりと変わる。ことにする。映像の編集をしていて、反転の切り替わりのようなものだ。
★★★★★


 ダイビングの歴史を書きながら、自分の1963年の90m潜水からカーブをしてしまって、送気ホースとタンクの二系統から空気をもらうフルフェースマスク、バンドマスクの釜石でのヘリウム潜水の調査工事にそれた。書いていると、もう一つ進行中の撮影調査法のライン調査の話とも共鳴する。


釜石湾で、重いカービーのバンドマスクにも慣れて、視界の狭さも苦にならない。秋も深まった釜石湾は澄み切っていた。水深60m、見上げると、ホースも水面まで一直線に見える。海底に穴を開けて、ダイナマイトを差し込む。このまま、ここに居たい。窒素酔いになっているから気分が良い。水面から有線電話で浮上を指示してくる。仕方がない。ふんわりと上がってゆく。
 
 釜石湾口防潮堤の調査工事の休日、龍泉洞まで1時間、車を走らせて、観光に行った。観光用のコンクリート通路の行き止まり、ダイバーだったら、引き込まれ、吸い込まれるような水が湧き出している。はるか下の方に電球のようなライトが沈めてあるのが見える。一般の観光客が吸い込まれるような演出だ。「潜りたいね」


 勢いのあるときには、流れに乗っているときには、その流れの中、流れの先にあることは、何でもかなう。 釜石湾口防潮堤の翌年、昭和56年(1981)に、竜泉洞の水中撮影の依頼が、NHK仙台の大橋晴夫プロデューサーから来た。大橋さんは、NHKのプロデューサーの中での出世頭で、後には、紅白の審査委員長で、番組の終わりに、紅組だったか白組だったかにトロフィーを渡していた。その大橋プロデューサーの昇りつめて行く梯子の一段が、この龍泉洞で、巨人;広島戦の裏番組で20%をとり、巨人:広島戦を上回ったというのが、後輩への自慢の種子になった。


 振り返って見て、今思うのだが、出来事には、伏線、理由があり、その出来事が突然そこに出現してできあがるものでは無く、なぜ?と考えると。遡ったところに、それが成就する遠因がある。それが良いことであった場合には、喜んで居れば良いのだが、それが悪いこと、例えば事故死だったならば、どこかで断ち切れたはずだと悔やむ。どんなことでも、縦糸。横糸が絡み合い、編み上げられて結果になる。
 悪いこと、事故の方だが、それは逆に、原因がそこにあれば、必ず結果が起こる。原因だと思われるものを見つけても、原因があれば結果は防ぐことはできていない。その結果ができるだけ、小さいくて済むように、ダイビングの事故であれば、死亡が最悪、救急搬送ならば、助かる見込みはある。ヒヤリハットで食い止めたら大成功、幸運だ。そのことを忘れないようにしよう。
 原因を見つけ、結果をどこでくいとめるかが、危機管理、安全管理である。そんなことを今、別の本で書いている。
 
 良い流れ、を遡ると、大学時代、水中撮影に興味を持った。それが、次第に自分の中で成長していく流れになった。これは、現今ではほとんどのダイバーの流れだろう。
 その流れの中で、もの作り、水中で呼吸するための道具、水中で使う道具を作る仕事に入った。そして、次第に道具を作る仕事よりもそれを使う方向に流されて行ったが、作る仕事も並行して進んで行った。半ば意識し、半ば意識せずにそういう方向に進んで行った。流されて行った。


 1965年、映画:加山雄三の海の若大将が水中撮影を取り上げることになった。加山雄三は湘南育ちで、かなり素潜りができた。僕と同じくらいだったと思う。俳優として、それはすごいことだ。
 水中シーンが海の若大将の何処に使われたのか、記憶にない。若大将シリーズ、面白いけれど、筋なんか覚えていられない。意味のない映画ではある。とにかく加山雄三は、良く潜れて、海が好き、海がテーマの映画のためにハウジングが作られた。その頃の水中動画撮影は16mmフィルムを使うのが常だったが、劇場映画は35mmフィルムで撮る。水中に限れば、16mmでも良いのだが、35mmにする。映画屋というのは、画質にこだわるのだ。劇場映画用の35mmカメラは大きい。そんなカメラのハウジングを作るところは、1960年代の日本にはいくつもない。作れるところは映画屋の中でもあるだろうけれど、そんなところに作らせたら、起重機、とまで行かなくても、チェーンブロックで持ち上げるようなものを作るだろう。
 僕は1962~64年に読売ランド・竜宮城の仕事もしていて、ゴジラの特撮の円谷プロとも縁があった。円谷プロが、竜宮城の舞台装置、大道具を作った。竜宮城だから亀がでてきて太郎をあんないする。円谷プロは、亀のような潜水艇を作ってきた。その亀には、脱出装置がない。佐久間艇長が殉職して軍神になったような潜水艇だった。舞台監督だった僕は、そんな潜水艇は却下して、亀の甲羅のようなものを作らせて、亀(人)に着せて演技させた。そんなことから円谷プロから東宝に話が廻って、僕のところ巡って来たのかも知れない。
 そんな僕だが、自分で工作機械を操ってもの作りができるわけではない。だれにやらせようか考えるだけの人なのだ。
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      35ミリ シネカメラハウジング


 島野徳明は、僕の周囲に出現したもの作りの天才の一人であった。ものが出来るのは、こういう出会いでできる。アクアラングだって、とにかく潜りたいジャック・イブ・クストーとエミール・ガニアンの出会いでできた。


 島野徳明は川崎の東芝の工場に勤務していたが、大量生産のラインの中での仕事には飽き足らなかったのだろうか、そして、趣味でダイビングをはじめて潜水科学協会に出入りして、舘石さんと僕に接近してきた。物作りの天才とは、器用な人という表現も出来るけれど、それを生き方の礎に置くほどの人である。東芝を退職し、工作機械、旋盤を購入して、町工場をはじめた。川崎とか、東京の下町には、そういう人たちのネットワークがあって、それが戦後日本、1940年代から1950年代、1960年代の日本テクノロジーの上昇をもたらした。ソニーもホンダもスズキもそれが原点だったと思う。
 僕は、島野製作所にレギュレーターの高圧部分の切削加工を依頼し、精密加工は何でも島野という関係になり、1963年の90m潜水実験にも島野徳明は、高圧空気充填係で参加している。空気充填なんて、誰でもできることで、彼でなければ出来ない仕事ではないのだが、才能のあるスタッフが固めていることは、支えになる。この90m実験も彼が、単なる空気充填だけではなくて、計画の段階から参加していれば、2系統の空気供給、タンクを背負う送気式が考えられ、実現していたかもしれない。もしかしてホースのトラブルで僕が死んでいれば、島野徳明が居れば助かったのに、ということになったかも知れない。
 加山雄三の大型ハウジングを島野徳明に相談した。「やりましょう。」彼の旋盤一台では出来る仕事では無かったが、彼は図面が書け、ものつくりのネットワークをもっている。これが、僕たちのハウジングつくりの始まり、原点だった。
 
 ところが、このハウジングの料金を東宝映画は支払ってくれない。事務手続きの不備だったとかで、予算に入っていなくて、支払うべきお金が残っていないとか。これは、スキャンダルになる。紆余曲折があり、東宝に撮影機器を多く納めている大沢商会が処理してくれることになった。その大沢商会で、16mmシネの、これはゼンマイ巻き上げの報道ドキュメンタリーカメラである「ベルハウエル70DR」のハウジングをつくることになる。これは、10台単位の製作で、2ロット作ったから、ハウジングとしては大量生産になった。そして、その大沢商会で、今の僕らの日本水中科学協会を中心で支えてくれている白井常雄氏に出会う。白井さんは、その大沢商会の潜水機材部の責任者になっていて、VOITの代理店になる。ボイトは今、マレスに吸収されてしまったが、フィンでは、ダックフィート、レギュレータもUSダイバーと並ぶメーカーだった。
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         DR70   ハウジング


 そのDR70の16ミリシネカメラで、自分でもなにか撮りくなった。自分の手、ではなくて頭で機器を作る。そしたら、その機器で実際の水に潜る水の中のことをやりたい。その結果、その経過、その反省、試行錯誤でまた機器を改良する。作る、というサイクルを繰り返して自分は進んできて、それは今日でも続いている。
 だから。そのプロセス、その流れの中で、摩周湖に潜るテレビ番組を撮影することになった。
 しかし、そのようなプロセスで進んで行くことを、当時、意識した方針でやったとは思えない。今振り返って、そういうことだったのだと納得しているのだ。その時、その時点では流れに流されていた。
 ダイバーなら誰でも知っている。流れに逆らえるものでは無い。潮を、流れの行き着く先を読むのだが、そのころの自分は潮を読むという意識もなかった。流れの先に摩周湖があった。
 どういうプロセスで話が進んで行ったのかも思い出せない。記録も残っていない。思い出せたことをなぞって書いている。
 思い出せないことは、書かなければいい。時というフィルターで漉しとられた話である。


 鈴木博は、中学時代の友人の友人であった。自分のの中学時代の一年先輩で、山下新平、シンパイという奴がいた。防空頭巾をかぶって、空気銃にヤツデの実を詰めて打ち合いをする遊びを考え出した。成長しては、わりと偉くなり、ヨットマンになって、シドニー→ホバートのレースで良い成績を収めその世界ではちょっと有名にもなった。そのシンペイは、慶応に行き、その慶応での同級生が鈴木博で、シンペイの紹介で東亜潜水機に訪ねてきて、アクアラング屋さんになった。スクーバの販売をアクアラング屋さんと呼んだ時代のことで、今、その息子の鈴木一成が、日本水中科学協会の理事になり、日本スクーバのスーツ部門が、ドライスーツの「ゼロ」になる。日本スキューバ本体は、東京湾の工事会社としては、かなりの業績をあげているが、一般ダイバーに親しみのあるのは、ゼロだ。そのゼロが出来た所以までは、ここでは、脱線できないが、とにかく、親しい付き合いは続いている。
 それは、摩周湖で始まった。自分の会社スガ・マリンメカニックは、その鈴木博と島野徳明の三人ではじめるのだが、摩周湖の旅の時、自分の独立を博に相談した記憶もある。


 この摩周湖の撮影が、僕が自分の手で、テレビ番組の水中撮影をした初めての水中番組で、ここで大きなコーナーを曲がったことになる。そして、その後の生涯の大きな部分を占める知床との関わりの最初になった。


 どういうことで山内さんがこの摩周湖の旅に参入したのか記憶にない。
 山内等司さんは釧路の港湾潜水士で、種市の潜水学校の一期か二期の卒業生である。港湾潜水士というのは、港に小舟を持ち、港湾に入る船のスクリューにロープが絡んだとか、大事なものを落としたとか、細々した潜り仕事をする人で、それまで。ヘルメットダイバーがこなしていた。ヘルメットだと綱持ち、送気をする助手と最低で二人一組だが、スクーバだと一人でできる。一人だったためにスクリューに巻かれて亡くなった室蘭の友人もいる。これは、ずっと後のことだが、
 東京から、日本テレビのプロデューサー・ディレクター、名前を失念、アシスタント・ディレクターも名前失念、陸上カメラマンは、松井さんと言い、ドキュメンタリーではなく、通常のカメラマンとして名のある人だったらしい。そして須賀、ダイビングのアシスタントで鈴木博、博の友人で、山登りをする新山隆さん、なぜ山登りのエキスパートが必要なのかというと、摩周湖は、湖面まで降りること、そしてまた登ってもとにもどってくるまでが登山なのだ。そして、摩周湖のほぼ中心にカムイッシュ島という小島があるが、これも岩石、岸壁の小島で、この頂上にクライミングで登ろうという計画もあった。ただ、ゴムボートで、カムイッシュ島に上陸した、おめでとう、では話にならない。何かする。何かすると言っても、岩の小さな出っ張りがあるだけだ。そこに登る。


 総勢で、釧路の山内さん宅に集合、押しかけた。おどろいた。山内さんは、おいおいとわかるように、でたらめな快男児なのだが、奥さんが天下をとっている。東京からはるばるやってきた遠来のぼくらに、門前払い的扱いなのだ。「また、オヤジがろくでもない人たちを呼び込んで、金にもならない。」確かに僕らは、金にはならない、ろくでもない人たちなのだが、こんなにあからさまに態度に出された経験はあんまりない。山内さんは、平然とへらへらしている。
 僕らが打ち合わせを、肩身狭くして行っているうちにも仕事が入り、若い衆が出て行く。山内さんも行くので、僕らも同行した。舟のつないであるところまでは、歩いて5分ぐらいだ。赤錆びたような鉄の小舟がつないである。山内さんは、一緒に行かず、摩周湖用のゴムボートの点検、車への積み込みを僕らと一緒にやった。若い衆にまかせきりだ。


 ゴムボート2艘、エンジン、多量のロープ類、このゴムボートを急峻な森林の樹の上に、ロープを張り渡したロープウエイを作り、ゴムボートを吊り下げて降ろそうというのだ。
 そして、摩周湖畔、弟子屈に向かった。
 翌朝、斜里からの応援部隊、3人が来た。
 網元の佐々木さん、「幸ちゃん」コウちゃんと呼ばれて気易い人人だったが、なにしろ網元で、経営者であるから、それなりの貫禄がある太った大きい人だ。50才代半ばだろうか。斜里の鮭定置網管理にダイビングをとりいれ、それを山内さんが担当、出入りしている。その縁で、摩周湖にきた。
 そして、ボートの吊り降ろしに、樹と樹の間にロープを張り、滑車で一気に下までつりおろしてしまおうという計画なので、木登り名人がきた。この名人が、若き日の、まだ20代前半だった佐野博さんで、後に佐野モーターという斜里一番の自動車会社、ホンダの代理店を経営して、僕らの斜里、知床方面の、世話役の中心になる。潮美の水中レポートシリーズの立松和平さんと、パリ・ダカールのオートレースにも同行する人であるが未だそんな先のことはわからない。木登りは本当に達人だったが、ロープウエイはうまく行かなかった。ゴムボートが重すぎて、ロープが撓んでしまってすべって行かないのだ。
 しかし、テレビである。うまくずり落ちていく区間だけを撮影し、あとは大きな橇に乗せて、引きずり降ろすようにして、湖面まで降ろした。
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          摩周湖畔 鈴木博
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        新山君と 須賀


 幸ちゃんは大きな鉄板を持ってきて、これも湖畔まで引きずり降ろした。この鉄板は何だ?  湖畔には倒木がたくさんある。水中もおなじように倒木が一面にあるのだが、倒木に鉄板を載せて、焚き火をする。これに鉄板を載せ、これも持ってきた鮭を載せて、「ちゃんちゃん焼き」というのをつくる。これをやらなければ、摩周湖に降りる意味がないとか、佐々木さんはこのためにきたらしい。フライパンでも良いと思うけど、テレビなのだ。ワイルドでなければ絵にならない。これはおいしかったが、宿にもどったら、宿に入れてもらえない。湖畔にたくさん生えているアイヌネギ、野生のニンニクをちゃんちゃん焼きに入れた。これは、おいしかったのだが、猛烈に臭いなのだ。食べた者には、自分の匂いはわからない。他の客はいなかったので、なんとかいれてもらったが、後の掃除がたいへんだとか。
 次の日、潜った。日本一の透明度だ。確かに透明だが、透明は絵にならない。日本一という言葉があるだけだ。湖底一面の倒木だが、これも、絵としては、10秒ぐらいしか持たない。魚は、大きなニジマスがいる。しかし、群れているわけではない。通り過ぎ、倒木のしたに逃げ隠れるだけだ。ゼンマイ巻きのDRでは、3分しか廻らない。あんまり良いカットは撮れなかった。
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 これだけでは番組にならないだろう。このときが、制作する側での、僕のテレビ番組撮影の初であった。90m潜水は、写される被写体の側だったから、番組作りのことはわからない。
 ニュースで5分ぐらい流すだけなら、この湖底の倒木だけでもなんとかなるのだろうが、30分である。演出、ディレクターは材料をたくさん欲しい。木登り、ちゃんちゃん焼き、そしてゴムボート、ゴムボートでただ走っても、どうにもならない。摩周湖にはその真ん中あたりに小さな島がある。カムイッショ島だ。その島が、岩の島で、この岩に博がクライミングをする。そのサポートが新山さんだ。
 
 カムイッシュ島にゴムボートで走って行ったが、別に人跡未踏の島ではない。冬に結氷するときならば、スケートですいすい行かれるらしい。崖を降りるのは大変だろうが、物好きはたくさんいる。小さな祠があって、お線香が上げられていた。神の島にお線香とは、何だろうなと思うけど、日本人なのだ。
 島で岩登りなどしているうちに、霧が降りてきた。霧の摩周湖だ。展望台から見下ろして、この島が見えるのは運が良い、ということが観光のうりものになっている。
 岸に帰るのだが、霧で方向がわからない。まあ、ちょっと左に向かって走って、岸に着いたら右に向かって岸沿いに走ればいい。
 僕と博が小さい方のゴムボート、大型の方に残りのみんなが乗った。走って行き、霧の中で、僕らのボートのエンジンが止まった。ガス欠だ。予備のガソリンは積んでいない。大型は先に行ってしまった。声を限りに叫んだが、とどくかどうか、ロープで結んでおけば良かった。が後の祭り、後のロープだ。
 30分ぐらい漂流して、大型ボートが現れた。なぜ、予備のガソリンを積んでいないと怒っても仕方が無い。山内さんなのだ。
 基地に戻り、荷物を積み込んで、岸沿いにゴムボートを走らせて、裏摩周に向かった。裏摩周には、上に登る道があるのだ。あの樹から樹へのロープウエイは何だったのだ。テレビなのだ。テレビ番組のドキュメンタリーは、いくつかのエピソードを積み上げて行く。そんなこと、まだ僕は知らなかった。この撮影で知った。


 まあ、これだけのことを、二日でやった。降りるのに一日、潜水、カムイッシュ、引き揚げが一日。次の日、アイヌが来た。この辺の繋がりはどうなのだ。どうでも良いらしい。
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 アイヌの酋長?一家が、マネージャーの運転するキャデラックに乗って来た。アイヌプロダクションだ。弟子屈温泉の硫黄谷の噴煙の中からアイヌが現れる。そして、この探検が成功するようにと、展望台のうえで、酋長が弓矢の舞いを踊る。テレビの旅のドキュメンタリーでは、なぜ?とか因果関係はどうでも良いということを学んだ。北海道だからアイヌがいる。踊りを踊る。突然踊っても繋がらないから、噴煙の中からあらわれる。


 道を走っていた。博の運転だった。道ばたにキタキツネが現れ、車を停めた。後ろのシートでは松井さんがカメラを出して撮る用意を始めた。博は車から降りて、道ばたの石を拾って、キタキツネに向かって投げた。みんな唖然とした。博は、犬でも猫でもキタキツネでも、四つ足を見れば、石を投げつける習性があるらしい。エピソードの一つがこれで潰れた。


 佐々木幸ちゃんは、斜里の定置網漁業の潜水作業は、漁師達自身にやらせたいという考えを持っていた。そこで、相談に乗って、伊豆海洋公園の日本潜水会の一級講習に来てみるように薦めた。
 そして、やってきて、体験、立ち泳ぎ10分を3分で沈没して、翌日には荷物をまとめて逃げていったが、次は若い衆をよこすから、と、益田さん、友竹と相談、打ち合わせをしていった。網元なのだ。これが、北海道斜里の定置網と益田海洋グループとの繋がりの発端であり、友竹が知床斜里に通い、富戸の宮本君が、知床定置のダイバーになる流れになった。
 そして、その時に後から来た若い衆たちが、日本テレビ、山中プロデューサーの木曜スペシャルの水中番組、日本一周で、知床の定置を撮るときに親しくなり、山中さんの、朝日ジャーナルノンフィクション受賞作、知床、「シルエトク」の主人公になり、僕もまた、摩周湖に行き、清里で神の子池を見つけ、流氷に潜り、潮美のニュース・ステーションに繋がっていく。


 そして、潜水医学では、医科歯科大学の真野先生が斜里に一年に一度はカニを食べに行くようになり、斜里の定置網ダイバー達が、これも一年に一度、医科歯科大学のチャンバーに入りに来る。一年に一度まとめて窒素抜きをしたところで、どうなるものでもないだろうが、潜水医学のお話、講義を聴くために、東京に遊びに来られるわけだ。
 そして、後に、斜里定置網組合が、長年の無事故、無・減圧症の功績、お礼を祝って、真野先生、海洋公園の友竹などが斜里の公民館で表彰を受けた。僕もそのついでに、ルーツだということで、表彰され、記念品をもらった。記念品は、でっかい置き時計で、そんなもの飾る部屋もない。でっかければ良い、北海道なのだ。


 山内さんは?減圧症に罹患して半身不自由になった。しかし、そんなことにめげないで元気に生きるのが山内さんだ。不自由でも水上ジェットスキーには乗れるらしく、阿寒湖だかどこかの湖(北海道には湖がいくつもある)で水上ジェットスキーを乗り回して、そのクラブの会長になったとか、風の噂に聞いた。その後のことは、知らない。


 斜里の話、流氷の話は、山ほどあり、また別の機会にしたいが、摩周湖での、チャンチャン焼きがルーツなのだ。
 振り返れば、すべては霧の中、摩周湖の霧の中で、二人でエンジンが停止したゴムボートで漂流した鈴木博もとうに居ない。
          


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