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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0107 ダイビンググラフィティ21 釜石湾港防潮堤①

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      カービー。モーガン バンドマスク(フルフェースマスク)、ダイバーは田島雅彦
      本当は、このタイプのマスクとシステムを僕が作らなければいけなかったのだ。

1969年の秋、お世話になった東亜潜水機を退社した。ありがたいことに、ずいぶん引き留めてもらった。佐野専務は、鰻の「尾花」で席を設けてくれて、とどまるようにと言ってくれた。このことを一生忘れないけれど、決心したことだ。
 辞めた理由はいくつかある。ダイビングを仕事の中心にがしたかった。90m潜水とかダイバーらしいこともしたけれど、ダイビングが仕事ではない。1967年に後藤道夫、白井常雄らとはじめた日本潜水会が軌道に乗り、発展的に全日本潜水連盟になろうとしていた。その中心として活動する。多くの時間をとられ、東亜潜水機から給与をもらって居ることが心苦しいレベルになった。佐野専務は、日本潜水会も好きにしていい、東亜潜水機のPRにもなるのだから、と言ってくれたが、心苦しい。
 自分の機材デザイナーとしての能力も限界に来ていた。シングルホースも思うように作れなかった。三沢社長も引き留めてくれて、いつでももどって来い、もどってマスク式を完成させてくれ、だから、マスクは作るなとも言ってくれた。潜水機を作れないので、カメラハウジングを作ることにしたのだが、これはまた別の話だ。
 しかし、一番大きな理由は、独立するときが来たということだったろう。大会社でない限り、10年は一区切りだ。自分の会社を持ってからも、何人もの社員が去っていった。そして、最後はナンバー2に任せて自分が去ることにした。個人会社の宿命だろう。
 そして、月日がながれる。カメラハウジングも、日本のトップメーカーの位置まで行けたと自負しているが、やはり自分はダイバーであり、機材を作るよりも、機材を使って水中で撮影している側の人だ。いつの間にか、人工魚礁を中心にするリサーチ・ダイビング、テレビ局の水中番組の撮影が主業務になってしまっていた。


 1970年代は日本人ダイバーが世界に雄飛、活躍した時代だった。日本人ダイバーと言っても、お客様のレジャーダイバーのツアーではない。仕事をするオイルダイバーだ。数はどのくらいいたのか統計がないが、工事ダイバーの多くはその経験をしているだろう。北海の石油掘削リグの潜水などが仕事場で、エアーラインのファーストクラスに乗ると、ジーンズに革ジャンバーのダイバーをよく見かけた。
 そんな1970年代の終わり、1979年、僕にも声がかかった。ペルシャ湾でのパイプライン敷設の現場マネージャーで行ってくれないかという話だった。
 自分の会社、成功しているとは言いにくいけれど、一応社長だからとお断りした。しかし、「須賀さんの会社くらいならば、社員にまかせておけばなんとかやれるだろう。社長の給料が不要ならば、利益も多く出るはずだ。」と言う。それもそうかも知れない。自分が潜りたいために始めた会社だから、ペルシャ湾の潜水も経験してみたい。視察に行ってみることにした。
 サウジアラビア、めちゃくちゃ暑い。空港に降りると、男の子が身体を売る客引きに寄ってくる。女性は薄いベールで顔を覆っているが、蒼いアイシャドウ、深紅の口紅、細かい部分は見えないから美人に見える。なるほど、アラビアンナイトだ。


 さそってくれたのは、名古屋にある日本シビルダイビングだが、サウジ現地の会社は、日本の会社とアラビアの王族の会社の合弁だ。王族が社長でなければ、オイル事業には参画できないという。その辺のからくりはよくわからない。
 会社は、人種によって職責が決まっている。ダンマームに本社があり、ペルシャ湾の現場は日本の会社が分担している。オフィスでの経理はアラビア人でターバンを頭に巻いている。営業は、パキスタン人だ。ロイヤーはアメリカ人で、これは、アラムコとの連絡担当だ。日本人の現場は、ダイバーは日本人が占め、船上の作業員は韓国人、料理はタイ人だという。
 夕方、街に出るとスーパーの前に大型のベンツが停まり、年配の紳士が一人、その後から、これは、真っ黒で透けて見えない スカーフ、ヒジャーブというのだろうか、それにマスクのように顔を覆っている女性がぞろぞろっと付いて出てきた。差別してはいけないので、買い物に行くにも奥さん達、全員を連れて行くのだとか。


 日本シビルの社長と同行したので、アラビア王族社長のパーティに招待された。ちょっとした旅館の宴海場大広間ぐらいの部屋、ペルシャ絨毯が敷き詰められている。山のように料理が出てきたが、全部食べてはいけないし、食べ散らかしてはいけないのだと注意された。適当に、それでも満腹するまで食べる。
 一応食事が終わると促されて、テーブルから立ち上がり、出された円座にあぐらをかくように座ると、するするとカーテンが降りてきた。。カーテンで仕切られ隠されたテーブルでは、女子供が食事をする。そう、残された半分を食べるのだ。食べ散らかしてはいけないわけがわかった。宴会場のように座ったこちら側は、ステレオで大音響でゴッドファーザーのテーマ?サウジは禁酒国だが、高級ウイスキーがジャブジャブでてくる。また、注意される。ここで飲むのはかまわないが、酔って表に出ると、宗教警察に捕まり牢屋に入れられると。僕はお酒を飲まないので良いけれど、酒飲みにとっては大変だ。
 
 せっかくだったが、アラブ勤務はお断りして、日本でスガ・マリン・メカニックの社長さんをまじめにやろうと決意した。それは正解で、1980年代、次々と冒険的な潜る仕事、テレビ番組の撮影などが続く。
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         調査に使用した母船、再圧タンク、ガスバンクが見える、
          写真提供は、元ジャムステック 米倉司郎氏


 調査工事は1980年、釜石防潮堤基礎工事の測量、1981年沼沢沼水力発電所取水口トンネルの調査、テレビ番組の撮影は、龍泉洞大洞窟を探せ、日本一周、バハカリフォルニアのコククジラ、ポナペ・ナンマタールの遺跡、ガラパゴス、ハワイ・シャークハント、アラスカ、そして、1986年からは、ニュース・ステーションの水中レポートシリーズと続くのだが、まずその最初の1980年、釜石防潮堤基礎工事の測量、これは、サウジへ同行した、日本シビルダイビングが元請けになり、僕らスガ・マリン・メカニックが下請け、JAMSTECの潜水グループが技術協力して、水深60mへ、船上減圧で行った。コンパクトではあるが、混合ガス潜水工事としては、日本で二番目?に行われた記録に残る本格的なものであった。
 
 この潜水で使用した潜水機が、カービー・モーガンのバンドマスク、世界的に普及していたレギュレーター付きのフルフェースマスクで、石油掘削リグでの潜水もほとんどが、このタイプで行われていた。
 背中に12リットルのタンクを背負い、水面からはホースで送気する。二系統の送気を持つシステムで、ホースをアンビリカル、へその緒と呼ぶ。これこそが、1963年の僕の実験90m潜水で、ホース切れの危険で気づき、東亜潜水機で僕が開発していなければいけなかった潜水システムだったのだ。
 
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        左がカービー。右が横浜マスク


 使ったバンドマスクは、カービーのマスクに並んで、ヨコハママスクというのがある。これは東亜潜水機の競争会社であった横浜潜水衣具が、カービーを模して作り上げたもので、作りが丁寧だということで、世界ではヨコハマフアンも居るということだった。そう、僕が、少なくともトウアマスクを作って、それがここに置かれていなければいけなかった。


 釜石は、東北大震災の津波で大きな被害を受けた。あの防潮堤は、この被害を防ぐためのものだったのに。いや、あの防潮堤があったので津波の到着が何分か遅れて、何人かの命が救われた。いや、あの防潮堤を信じて、逃げ遅れた人もいる。議論はさまざまだが、1980年、工事は釜石湾口、水深60-70mに大きな石を投げ込むことからスタートした。その投げ込んだ石が海底でどのように着底して積み重なるのか、その状況を正確に測量するのが僕らの仕事だった。
 防潮堤の工事は30年続き、完成したすぐ後に、大津波がやってきた。結果として釜石の街を護れなかった。


 この項続く



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