100m、どこの海で?、そして、使う船、母船をどうするか?。
潜水する場所は、当然、館山湾だ。宿泊基地も、那古船形駅前の舘石館だ。
館山湾の真ん中あたり、バラ根と呼ぶ急深の地形がある。政やんの得意なタイ釣り場だが、海底がどうなっているかわからないという。館山湾では、ここ以外は100mの深度がとれない。
。
利渉義宣先輩は、大学漁業科一回生、僕は七回なので、6期先輩になる。舘石さんと小学校の同期だという。大学一年次の館山での水泳実習の時に、当時、実習場の隣にあった千葉県水産試験場の勤務しておられて、実習場に慰問?励ましに来てくれて、知りあった。その後、舘石さんの同級生だと言うことで何回かお目にかかって、館山湾の話をしたりした。
そのころ、人工魚礁の増設が盛んに行われ、漁師達が根と呼んでいる釣り場で、大きな岩礁でないポイントには、魚礁効果を補強する意味でのブロック投入がおこなわれていた。水産試験場では、良い釣り場であるバラ根の様子もしりたかったし、象瀬根と呼ぶ、40-80m線にブロックを大量に入れた根も状況が不明だった。僕は1960年初頭には、まだ人工魚礁調査をやっているわけではなかったが、大学4年次に人工魚礁調査を経験している。エア切れで死ぬところだった体験であり、調査の経験とはとても言えないが、一応方法だけはしっている。方法と言っても、写真を撮ってくるだけなのだが、とにかく、人工魚礁調査という目的で、漁業監視船の「ふさかぜ」を使わせてもらえることになった。こんなことは、1963年だからできたことで、未だ、ダイビングによる人工魚礁調査は、始まったばかりで、おおらかな時代だったのだ。
千葉県の漁業監視船 ふさかぜ で潜る。
船の目算は付いた。準備を進めて行く。
これは、水中銃の項で述べようとしていたのだが、こちらが先になったので、ここで述べるが、1961年に安森信昭君という高校生が夏休みのアルバイトに、飛び込みで入ってきた。水中銃の製作がはじまっており、猫の手も借りたい忙しさだったので助かった。いい子だったので、翌1962年、高卒で入社してもらった。ほぼ時を同じくして、伊豆大島の水産高校を卒業する鈴木郁夫も入社を希望してきた。聞けば、ハンドボール部のキーパーをやっていたとか、神津島の産でおじさんが漁業組合長だという。ダイビングもできる。安森の方は舘石さんとの海へ同行、連れて行って仕込んでいた。水中脱着もプールで教えた。つまり着々とスクーバダイビングセクションができつつあったのだ。
そして、僕は1961年に結婚して、1962年には娘の潮美が産まれる。
1963年、初夏、テレビの撮影が、ポツポツと始まった。撮影は、もちろんモノクロ16mmだった。 水中は舘石さん、陸上のカメラマンは浅井求さん。TBSではベテランのカメラマンで、キューさんとして名前が通っていた。
夜の海に潜るシーンなど、雑感的な撮影から入っていく。夜の海に潜る、今ではナイトダイビングは誰でもやるが、そのころ、僕も舘石さんも、ダイビングではトップを走っていたのだが、二人とも、夜の海に潜ったことがない。水中ライトが無いのだ。防水の懐中電灯はあったの思うが、アクアラングで、少し深く、5mぐらいを越えたら、たちまち沈没する。東亜潜水機で売り出している水中ライトは有線で、特別製電球むき出しの水中ライトだ。これは、ヘルメットダイバーが使う。片田さんに防水バッテリーライトを作ってもらう。マリン・ブライトという商品名を付けた。豚の形をした蚊取り線香入れと同じような形、大きさだったので、口の悪い奴が、マリンブタだねと言ったので、マリンブタがニックネームになった。
そのマリンブタを手にして、三浦岬の海岸、砂浜からエントリーして、磯根が近くにある場所に潜った。場所、地名は忘れてしまったが、多分、荒崎のあたりだった。魚は、キタマクラぐらいしかいなかったが、夜光虫に感動した。動かす手、動かすフィンが、夜光虫で光る。
潜水医学のバックアップは、慶応大学の上田先生にお願いした。潜水病、潜函病の治療に実績がある先生である。医科歯科の梨本先生は、旭潜研、菅原さんらのグループで、東亜潜水機はちょっと外れている。
慶応大学病院の研究室に行き、屋外の階段を走って登り降りして負荷心電図を測ったりした。
初夏から夏、アクアラング屋さんが一番忙しい時期だ。代わりに、冬は寝て暮らす。1960年から1963年の間にアクアラング屋さんという商売が、いくつか勃興していた。先に述べた水中銃も、運動具関係に下ろしていた。これが、夏に3000丁も売れた。その仕事+100m潜水で、僕は昼も夜も働いていたような気がする。自宅は千葉県鎌ケ谷というところに、土地があり、そこに建てていた。東武線で、柏まで出て、柏から常磐線で、南千住へ、1時間30分の通勤だった
僕らのアクアラング小屋の前に、清水さんが作ったワンマンチャンバーが置いてある。出発前日、めちゃくちゃ働いて、家に戻れなくなり、早朝の出発だからと、そのチャンバーの中で眠ってみた。
スケジュールは8月5日から15日を予定していたが、船の都合で、5日から10日になった。
8月5日出発、その頃、舘石さんはすでに水中造形センターを立ち上げていて、社員は、慶応を出た永持毅君、専属モデル兼務の伊藤淳子が居た。そして、車は進化して、プリンスの大型ライトバンニューマイラーだった。これをコーラルピンクに塗っていた。派手な車だ。
僕の方は、同級生だったバディの原田進が応援に来てくれた。トラックに、コンプレッサーと、一人用再圧タンク他、潜水道具を積んで、僕と原田、安森はその荷台に乗って出発した。他のメンバーと一緒に汽車でいっても良いのだが、テレビ撮影のため、トラックに乗って行った方が絵になる。トラックの荷台に乗る、そんなことが許された時代なのだ。勿論、館山道も首都高速も遙か後の話だ。走れば埃が舞い上がる砂利道がほとんど、町中だけが舗装の道を元気よく走って行った。
山のような機材、そして、ワンマンチャンバー1台を、ふさかぜに積み込む。二人潜るのだが、ワンマン、お一人様用だ。緊急事態であれば、二人重ねて入れれば良いだろう。病院に運び込む、運搬用チャンバーと思えば良い。
※もはや、遠い昔のはなしだから、行動の筋道は覚えていない、その時に書いた報告書を見て、水中だけは、今でも鮮烈に覚えているので書いている。
8月6日
象瀬根の人工魚礁に潜る。まず一回目、最初の潜水は、水深40mだ。まず、僕が潜った。ここが本来の天然礁の象瀬根で、根になっていて、ウミトサカなどが生えている。魚は全く居なかった。
舘石さんは、五本組のタンクで潜ることになったが、流れが速くて、五本組でもぐれない。僕は水中で待った。二本組の通常のタンクに切り替えて僕のホースをたどって潜ってきた。
人工魚礁ブロックを探したが、一個だけポツンとあった。
第二回目の潜水、15時に潜降開始、1キロの
水中ライトを取り付けた潜降索を下ろして水深70mを目指した。透視度が悪く、何もない海底に降りた。深い水深は寒いだろうと考えて、10mmの厚さのウエットスーツを作った。これは、馬鹿馬鹿しいことで、水深100mならば、夏の盛りだから寒くもないし、第一、寒くなるまで深いところに留まれない。そして、、10mm厚のスポンジが60m潜ると薄く。2-3mmになってしまう。なる。舘石さんの5本組のタンクは過重量になった。潜降索を手繰って浮上した。
僕は不快感に襲われ、15時5分に浮上開始、タッチアンドゴー状態だ。こんな状態で、100mに行かれるのだろうか。水深70mを越えると、2m潜るだけで、意識を失いそうになる。
8月7日 三回目の潜水 象瀬根 水深60m
ここは、人工魚礁のブロックの上に降り立つことが出来、舘石さんは快調に撮影した。ブロックには付着生物も少なく、魚は全くいない。この人工魚礁は失敗だなと思った。僕は突然のように苦しくなった。舘石さんは問題なかったのだが、僕はライトをまっすく当てていることが出来なくなり、大きく左右に揺れ始めた。空気不足だ。喚起不足による炭酸ガス蓄積中毒だろう。耐えられなくなり、浮上した。
8月8日 四回目の潜水 バラね
フィリピンで発生した台風が北上している。
本番と同じ潜降索、1キロのライトを二つ付けている。80mに一個、60mに一個、
透視度が良く、水深30mから見下ろすと、60mのライトが見える。
水深75mで息苦しくなる。フルフェースのマスクは、レギュレーターを取り付けた筒が、マスクの中に伸びてきていて、マスクを押しつけるようにして口を伸ばせば、その筒を銜えられるようになっている。マウスピースのようなもので、呼吸死腔を小さくしている。その筒から流れ出てくる空気がまるでところてんのように感じられた。75mでターンして浮上を始める。自分のホースが、60mに引っかかって、あがれなくなった。手で外せば外せるのだが、外すきもちにならない。引っかかったので、潜降索も全部一緒に引き揚げてくださいなどと水面に通話している。先に上がりかけていた舘石さんが、これに気づき、ちょっと降りてきて、簡単に外した。ああ、外せば簡単だったのだ、などと思っている。窒素酔いと炭酸ガス中毒がダブルで来ている。浮上してきた僕らを出迎えた永持、安森の二人は、これはもうこれ以上はダメだとおもったという。僕は安森の手に支えられて浮上した。
その夜、二人を診察したドクターは、舘石さんの心臓に不整脈があるという。ここまでだ、という意見が出た。聞けば、コンプレッサーが過熱して、駆動のVベルトがスリップして空気量が減ったのだという。
僕は、100リットルの親ボンベの空気を放出してもらえば、大丈夫、空気量さえあれば、行かれると主張した。議論は二つに分かれ総指揮の清水さんが決定することになった。「ここまで来たのだから、やらせましょう。」さすが特攻隊と僕は口には出さなかったが、感謝した。
舘石さんも付き合うよと言ってくれた。舘石さんが降りれば、原田に行かせようと僕はおもっていた。舘石さんには、カメラマンとしてのプライドがある。