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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1218 ダイビンググラフィティ 18 新しい潜水機実験潜水

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   さて、怒濤の1960年代、次の話題を水中銃からスピアフィッシングの話にするか、デマンドレギュレーター付きのフルフェースの開発ストーリーでもある100m潜水の話にするか、迷ったが先に100mの話にして、次に水中銃で1た方が良さそうだ。


 事の発端はよくおぼえていない。舘石さんと、「何か、ドカンと一発やりたいね。」「ならば深く、100m潜ろう」というような話をした記憶もある。とかく、ダイバーという人種は、潜水機は深く潜るための道具ではない。深く潜ることには何の意味も無い」と言いながら、本能的に深く潜ろうとする。だから、21世紀になっても、テクニカルダイビングの目標の第一は、深く潜れる、潜るということだ。シーラカンスを命がけで見に行ったりする。そして、それを否定してしまったら、ダイビングというものは面白くなくなってしまう。自分の限界に挑戦するという気持ちを失ってしまったら、人間は、人類は存続しなくなってしまうのではないだろうか。
 しかし、意味も無く深く潜るのは、愚かだと言われる。事実、事情、内容を知らない人には、愚かだといわれた。愚かだと言われないために1963年にも報告書をつくったが、ここでまた、あれから60年が経過した今、また書き直そうとしている。ニッポン潜水グラフィティでも書いたが、視点を変えて書き直すことは、やっていいこと。是なのだ。
 
 とにかく潜ろう、しかし、愚かだと言われないために、また東亜潜水機の社員であった自分は、東亜潜水機の社長に納得してもらうために、深く潜るための理由を探さなくてはならなかった。
 それは、新しい潜水機のテストであった。
 タンクから空気を供給するスクーバは、二段減圧のファストステージを省略して、セカンドステージに、中圧の空気、水圧+7キロの空気をホースで送り込めば、ホースで送気する潜水ができる。日本アクアラングが販売するアクアマスターは、中圧空気を送り込む、入り口が一段減圧の隣に付いている。自分は、東亜潜水機は、一段減圧をまるっきり省略してしまいホース取り付け口だけをセカンドステージに付けたフーカーレギュレーターを作って売った。これがまあまあ採算がとれる程度に売れた。
 これで深く潜ろう。送気式ならば、綱付き電話付きだから安心して潜れる。
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 1954年の東京水産大学潜水実習の事故で幕をあけた日本のスクーバ潜水である。自分は、スクーバダイバーでありながら、危ない潜水は綱付き、物理的コンタクトありでやろうと思っていた。


 ただ、適当なときに適当な場所の100mに自分たちだけで行って潜るのは、それほど難しいことではないが、それでは意味がない。そして、勿論、自分は東亜潜水機の社員だから、社長の許可をもらわなくてはならない。「新しい潜水機を作ってテストする。」とその概要を話したが、新しい潜水機は良いけれど、深く潜る必要は無い。もっともであり、常識的には、そのとおりだ。
 「旭式、海王式のマスクは、レギュレーターが付いていないので、空気消費量が大きい。だから深くもぐれない。こちらのマスク式は深く潜れることを強調したい。」「それは良いけれど、まず浅いところから初めて次第に深くするべきで、いきなり深い潜水は危ない。」その通りで、反論できない。
 専務の佐野さんを説得して、佐野さんに社長を説得してもらおう。「今の東亜潜水機のコンプレッサーは、水深100mまで送気できるのはない。2段圧縮で、10キロぐらいの圧力を送れる、良いコンプレッサーをつくりましょう。それで、100m潜ってみせます。」佐野さんは、理屈ではなく、潜りたいのだ、ということがわかっていたのだ。若いということは、そういうことなのだ。「2段圧縮のコンプレッサーを作ろう。」といってくれた。結局、社長は、「大深度潜水のお金はだせないよ。」まあ、当然だろう。金さえ出さなければ、できないだろうと読んだのだ。こちらは、逆に会社の金さえ使わなければやっても良い。と解釈することにした。金をつくる。スポンサーを別にさがさなくてはならない。
 まず、新聞社を当たろう。登山などでは、○○新聞社後援というのをよく見かける。
 新聞社のカメラマンで水中撮影の出来る人、すなわち知人だが、読売新聞の富尾さん、毎日新聞ならば、矢田貝さん、荒井さんが頭に浮かぶ。富尾さんは、磊落な人で、このプロジェクトに波長が合いそうだった。東亜潜水機にも良くおいでになっていたが、なぜか巡り合わせで、電車の中で、毎日の荒井さであった。荒井さんは少しアルコールが入っているみたいだった。立ち話で、100m潜水のことを話した。応援しよう。運動部長に話しておくから、頼みに行きなさい。という運びになった。運動部長は、「スポーツは野球と相撲だけではない。水中とは面白い。応援しよう。」世の中は、少しずつだが、海の中の開発に眼が向いていた。毎日新聞後援というタイトルは使って良いけれど、お金はだせない。テレビ局ならば、お金が出るかも知れないとTBSを紹介してくれた。
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 TBSに足を運んで、カメラ・ルポルタージュという番組の竹山恭二さんというプロデューサー・ディレクターが興味をもってくれて話を聞いてくれた。すべてが終わったあとで、話してくれたのだが、潜水、水中というのも面白いが、君という人の、猪突猛進が面白いと、そのドキュメンタリーにしたいとおもったのだと。そして、これがテレビで成立するためには、100mの深さからの、君の声が、上に上がってくることが大事で、それが条件だ。この一言が、その後の僕とテレビの付き合いの原点になった。後の、須賀潮美の水中レポートも、この100mが原点だ。クストーも水中レポートはやっていない。僕らの二ユースステーション、水中レポートのマスクを使って、クストーの息子が、水中レポートの映像を作っている、この点では、僕らが先で勝っている。
 潮美が生まれたのは、1962年、この話も、1962年がスタートだった。


 お金は、TBSが30万出してくれることになった。これは、東亜潜水機に入る。決まった後から聞いたのだが、カメラマンの舘石さんは、この金額の半分を東亜潜水機に要求した。夏の一番稼ぎ時に命をかけるのだから、と言うことだった。社長はオーケーして、そして、残りの15万は、保険にかけた。東亜潜水機出入りの保険会社の担当、町井さんは、奇しくも、僕の高校のバスケットの先輩で、後になってこの話をしてくれた。社長は、保険のことは、何も話さなかった。


 さてマスクを作らなければならない。
 泥棒を捕まえてから縄を綯う、泥縄よりももっとすごいことを僕はやっている。振り返ってみれば、本当の冒険を僕はやっていたのだ。
 新しいマスク式と言いながら、マスクがない。まさか、旭式のマスクを使うわけには行かない。金王式(海王式)も使えない。と言って、新しく設計する能力は自分には無い。マスク、しかもフルフェースの設計は特別の設計技術と能力が必要だ。ダイブウエイズの武田さんは、マスク設計の世界的な達人で、後に、潮美の水中レポートのマスクを作ってくれるのだが、まだ、武田さんとは出会ってもいない。そして、マスクを作るゴム金型は、高価であり、50万以上かかる。
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     マスクを組み立てる 須賀
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         出来上がったマスクにレギュレーターをつける。


 外国製、スエーデンだかどこかのフルフェースマスクを複製することにした。マスクの内側、つまり人間の顔に相当する部分を木製でつくり、その上に生ゴムを貼り付け、重ねて、加硫して固めた。これをトキタゴムという出入りのお店の若主人がほぼボランティアでやってくれた。二個作った。一個は舘石さんの分のつもりだった。しかし、舘石さんは、このマスクを見て、「こんなもので潜ったら死ぬ」瞬間的に却下して、普通のスクーバ、TOASCUBAで潜ることにした。送気式も拒否して、9リットル5本組で潜ることになった。これは正解で、僕はこのマスクと新しい送気式のために、九死に一生の事態になる。
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         清水登(すすむ と読む)実験潜水船上で。


 1962年、清水登さん、片田零吉さんが嘱託として東亜潜水機に入職した。清水さんは帝国海軍で潜水の神様と言われていた人で、伏竜特攻の潜水機を作った。伏竜の話は別記するが、僕の特攻100m潜水の総指揮をしてくれることになる。東亜潜水機での仕事は、水中切断、水中溶接の機材製作と販売部門を作られた。海軍で潜水する本来の目的は、特攻ではない。工作兵、敵の砲弾が命中して、船体に穴が開いた時、めくれ上がった鉄板を切断して、新しい鉄板を貼り付ける。つまり、水中切断と溶接で戦争してきた。
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      片田さん 水中電話機で通話中

 片田さんは、東大の化学専攻の学科を出た人で、戦後のどさくさの時期に、なにか化学調味料のようなものを作って、大儲けする。そのもうけた金で水中テレビを開発する。そして、そのテレビを持って小笠原に行く、未だ小笠原は日本に返還されていな時代だ。珊瑚採りの漁船で行くのだ。水中テレビで珊瑚のあるのを探し、確認して、桁網で引っかけて採る。ROVの先魁だ。もちろん失敗する。しかし、超、大きい珊瑚を引っかけて水面近くまで、船の上から見られるところまで揚げてきて、船に取り込む寸前で落としてしまったという。「あれが揚がっていれば」と悔やむが、珊瑚は諦めて、日本コロンビアと組んで水中テレビを作って売る「水中理工機」という会社を立ち上げる。水中テレビの販売は、時期が早すぎた。そして、技術が成熟していないからトラブル続きだった。余技的に水中電話機、有線通話機もつくる。企業として成立するどは売れずに倒産する。度の強い眼鏡をかけていて、そんな風には見えないけれど、冒険者なのだ。東亜潜水機に来て、水中電話機製作の分野を担当することになった。
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        門を入って左側、アルミ製の小屋が僕の根拠地になった。清水さんの作った一人用再圧タンクが前においてある。


 そのころ東亜潜水機では、中庭部分の空き地に、アルミ小屋を建てて、半分に仕切り、僕のスクーバ部門が半分、もう一つの半分を清水さん、片田さんの部門が使うことになった。
 清水さんは、一人用、つまり一人しかはいれないポータブル、車に積める再圧タンクも作った。

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