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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1124 ダイビングの歴史15 レギュレータ:コンプレッサー

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       レギュレータ 船の科学館での展示、左側が東亜

レギュレーターの話をしよう。
 レギュレーターはジャック・イブ・クストーのプロデュースで、スピロテクニークの技術者エミール・ガニアンが作った。クストーの奥さんが、スピロの縁者だったらしい。
 タンク、ボンベに詰めた空気を呼吸して、潜るというアイデアは古くからある。流しっぱなしにすれば、すぐに無くなってしまうから、調節しなくてはならない。手動での調節、吸うときだけコックを開けば良い。これは、何種類かある。口で噛んでバルブの開閉調節これが大串式で特許をとっている。自動弁、吸ったときだけ流れる。これも、いくつかの試みがある。旭式の佐藤賢俊さんもやってみた。大串さんもやってみたらしい。減圧弁の構造は簡単なものだから、簡単にできる。全部失敗だった。何が失敗だったか?、呼吸抵抗がキーなのだ。軽すぎれば噴出してしまう。重ければ、5分も呼吸すれば、苦しくて耐えられなくなる。
 よく知られているように、スノーケルを長くして潜ろうとしても潜れない。50cmも潜れば、人間の肺にかかる圧力と水面の圧力との差で数回の呼吸で終わりだ。水面と呼吸の中心、肺の中心との圧力差、プラス、スノーケル管の抵抗、管の太さ、長さが関係する。この総和が呼吸抵抗だ。面白いことに、ある程度、呼吸抵抗があった方が、息こらえがしやすい、気分が良い。これは感覚の問題なのだが、ぼくは、細めの子供向けのスノーケルを使っているし、素潜りの達人、鶴耀一郎は、スノーケルの先に10cmほどのゴムホースを着けていた。
 とにかく、レギュレーターで重要なのは、呼吸抵抗だ。1942年ジャック・イブ・クストーもこれに苦労して、一年ぐらい、試行錯誤をやったらしいことが、日本アクアラングのカタログに掲載されている。日本アクアラングのカタログは、このあたりの歴史について、わりと詳しい記事を載せている。
 ジャック・イブ・クストーらは、レギュレーターの位置を、背中の肩甲骨の間に置くことでまずは解決した。タンクに取り付けて背負うと、このあたりにレギュレーターが来るようなハーネスを作った。
 これだと、水平姿勢になった時に、人間の身体の厚さ10cmほどだろうか、抵抗がくわわってしまう。レギュレーターの機構的な呼吸抵抗を30mmから60mmとして、プラス身体の厚さ100mmを加えて。200mmぐらいの抵抗になる。これは、スノーケリングの呼吸抵抗とまずまず合致して、使える。現今の良いレギュレーター、僕の場合ダイブウエイズのレギュレーターは、心地よい呼吸抵抗になっているが、ちょっと苦しくなると、調整にダイブウエイズに持ちこむ。我慢出来ないことはないが、快い呼吸がしたい。位置の差による呼吸抵抗については、もう少し書きたいがそれはまたにして、先に進む。とにかくジャック・イブ・クストーらは、使える、水中で呼吸を続けられるレギュレーターをつくった。


 1953年にスクーバ、タンクとレギュレーターが東京水産大学に紹介され、1954年には、これをフランスから2台買って、学生の講習を行った。ほぼこれと同じ頃、海上自衛隊関連も購入したのだろう。
 それから三年、自分が1957年に東京水産大学での学生講習に参加したときには、このフランス純製に加えて、菅原久一さんが、潜水研究所で売り出した無印が加わっていた。そして、その同じ年に発足した日本ダイビング協会、後すぐに日本潜水科学協会に改名する、が発足して、その機関誌「どるふぃん」に掲載されている広告を見ると、レギュレーターの広告は、まず川崎航空、これはオレンジ色塗装の、アルミタンクとのセットで、1ページの広告を出している。川崎は、大きなメーカーだから、スピロとライセンス契約があったかもしれない。他には、東亜精機、東亜潜水機ではない精機が広告をだしている。伊藤精機という会社も作っている。
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       川崎のタンク、オレンジ色でアルミ製タンク、空気充填のタンクはねずみ色に塗らなくてはいけないが,一部、首のあたりが、ねずみ色だから、これでも良い。


 そして、僕が東亜潜水機に入社した1959年、東亜潜水機も、菅原久一さんと全く同じの無印を売っている。これは、おそらく菅原久一さんが東亜潜水機にいた時代にやった仕事なのだろう。1960年、東亜潜水機は、月に2-3台のレギュレーターを売っている。
 この時代1954-1960年、タンクとレギュレーターを買っても、コンプレッサーを買わなくては、空気の充填は出来ない。1954年、東京水産大学小湊実習場が買ったコンプレッサーは、インガーソルという米国のメーカーのものだった。
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       インガーソルの携帯コンプレッサーで充填中、水産大学のものも、これとおなじようなものだった、東亜のphcは、もっと小さい。」


 実は、東亜潜水機はコンプレッサーのメーカーである。専務の佐野泰治さんは、千葉大工学部卒で、潜水用空気圧縮機の祖?でもあるのだ。
 ヘルメット式潜水機は、手押しポンプで空気を送る。手押しポンプには、天秤型と、回転式がある。深く潜ればその水圧と同じ圧力まで圧縮しなければならないから、力が必要、人間が押すわけだから、人数が多く必要になる。天秤型の場合、天秤に丸太をTの字に着けて、例えば片側6人、両側で12人で押したりすることも出来る。馬力では無く、人力を増やすことができる。大きな母船ならば、人数を増やして、それこそかけ声をかけ、歌を歌って景気よく押すことも出来る。しかし、小さい舟ではこんなことはできない。回転式は、両側、二人が良いところだが、天秤式よりも場所をとらない。小舟でも作業できる。また、圧縮する容積も小さければ小さいピストンですむ。小さければ押す人数も少なくてすむ。大串式は、目と鼻を覆うだけの小さな容積に空気を送れば良いのだから、深海潜水に向いている。水深80mの八坂丸の黄金引き上げが出来た所以である。
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     天秤式ポンプ 水産大学、館山潜水実習でのマスク式潜水
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     回転式、東亜の古いカタログより、


 いずれにせよ、ポンプでの送気は人手が必須である。小舟からの送気は難しい。コンプレッサーは、これらの問題を解決してくれる。しかしこれも、深く、送気圧力が大きい場合には、一段の圧縮では、空気圧を上げられない。一段の圧縮で5キロ、5気圧程度まで、10キロ、水深100mまで潜るには2段では、やっとどうにか、場合によってはたりない。
 東亜潜水機では、ヘルメット式、マスク式、のための送気コンプレッサー、6キロ程度、水深50mぐらいまでのヘルメット式、マスク式潜水のためのコンプレッサーを製造販売していた。
 ヘルメット式のヘルメットと潜水服では、東亜潜水機の他に、横浜潜水衣具という会社があり、競い合っていた。日本のヘルメットダイバーには、東亜派と横浜派があった。潜水服は、横浜の方が少しばかり柔軟性が高いとかいうことも聞いたことがある。しかし、東亜潜水機にはコンプレッサーがある。もちろん、他にもコンプレッサーメーカーがあるが、両方をもっている総合メーカーは東亜潜水機だ。それに、僕が入って、スクーバも本腰をいれるようになった。


 スクーバタンクは、150キロまで充填しなければならない。送気式とちがって、少しずつ、時間をかけても良いわけだが、コンプレッサーが小さいほど、時間がかかる。
 驚くべきことに、日本にアクアラングが紹介されたのが1953年だが、1955年には、東亜潜水機はアクアラングタンク充填用の高圧コンプレッサー、PHC(ポータブル、ハイプレッシャー、コンプレッサー)を売り出している。1956年に僕は、白井祥平先輩と奄美大島に行くのだが、その奄美の瀬戸内にある真珠会社に東亜のPHCがあった。
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      1960年当時のphc 良い写真が見つけられなかった、これは、東亜潜水機にかざってあるもの、


 150キロ、150気圧まで空気を充填するためには、通常は三段圧縮にする。三段階に分けて、圧力を高めて行くのだ。が、PHCは、二段圧縮である。たとえば、これは大体の時間だが、10リットルのタンクに充填するとして、120キロまで、1時間ぐらいかかる。そして、120から150に上げるのにあと30分かかってしまう。ところで、米軍放出の消火器に使っていたタンクは、充填圧は120キロである。
 2020年現在でも、ダイビングサービスとか、高圧ガス充填所の他では、120までしか充填しないところが多い。広島大学の練習船、豊潮丸も120キロまでである。120キロから先は効率が著しく悪いのだ。だから、1955年当時、120キロと見切ってコストダウンしたのは、大正解だった。東亜潜水機では、1963年頃だったか、YS-11と言う小型、三段圧縮の高圧コンプレッサーを出したが、これは、どちらかと言えば据え付け型で、ポータブルは、エンジンが小さくてすむ、それでも一人では持ち上がらなかったが、PHCが独壇場だった。今、2020年代の東亜潜水機は、高圧コンプレッサーが主力商品であり、ポータブルセットのPHCも売り出しているが、これはもうかなり大型になっている。もちろん効率、性能も良くなっているが。 


 1959年、レギュレーターは、このPHCとのセットぐらいの数しか売れなかった。だから、月産で3台程度だったと思う。
 
 この項続く

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