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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1113 ダイビングの歴史 12 1960年代③ 館山 水雷根

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今も昔も、スクーバは一人では潜れない。舘石さんにとって僕は都合の良いバディだった。東亜潜水機にいるから、空気の充填は大きなコンプレッサーで出来る。時には押し掛けをしなくてはならないが、舘石さんはダットサンを持っている。そして、舘石さんの実家は館山湾那古船形駅前の釣り宿である舘石館である。 釣り宿は、何人かの漁師を専属で抱えている。漁師は、小舟を持っている。艪漕ぎの小舟を少し大きくした小舟に焼き玉エンジンを付けた小舟で、この小舟で、普段は釣り漁をやっている。釣り宿は小舟を造るのにお金を貸してやったりして、専属にしている。釣り客は、予約をして、前日に国鉄でやってくる。
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 舘石館は、那古船形の駅の駅前広場に面している真ん前だ。
 今、館山の波左間に潜りに行くとき、館山道を降り、左折した一般道を右折して那古船形の駅前を通って海岸通りにでるのだが、舘石館跡の前を通る。跡は更地であった。駅前の本当の一等地なのだが、駅がもはや無人、一日に何本と数えるほどしか電車は止まらないのだろう。通るたびに懐かしく、ここに舘石さんの実家があったと同乗者に言うのだが、最近になって、ようやく何かお店が建った。何のお店か、記憶していない程度のお店だ。
 前日にやってきたお客は、ちょっとした宴会をやって、早朝、小舟で釣りにでる。漁師は釣り客のあるときには、釣り客を乗せ、普段は釣り漁をしている。
 僕らも、釣り客と同じように前日に、東京から船形へ走る。高速も館山道もないから、夕方に出れば、順調に行けば10時、22時ごろに着く。


 館山湾にいくつもある根を、根とよばれるもののすべてを潜ろうと、話し合った。結果として全部を潜ったが、1961年から、1967年まで、7年間かかったことになる。そのどれもが、記憶に残っているが、記憶に強く残っているのは、水雷根、棒受け根、バラ根、象瀬根、あと、大房の根も潜った。何回も潜ったのは、水雷根だ。残念なことに水中の写真が全くのこっていない。僕はカメラを持たないで、水中銃を持ち、舘石さんがカメラだった。舘石さんのところには残っているかもしれないが、見ることはできない。


 使った船頭は、「マサやん」政吉さんだ。けっこう人気のある船頭だった。GPSなんかもちろんないから、すべて山立てだ。GPSがある今でも、釣りの成果は船頭次第だから、山立ての頃はなおさらだ。山立てに生計、生活がかかっている。


 水雷根は、日本海軍の水雷艇を沈めた沈船魚礁だ。水雷艇は日露戦争で名を轟かしたから、そのころの水雷艇を沈めたかと思っていたが、意外に新しく、昭和10-15年頃に沈めた。全長で20mほどだろう。水深は30mぐらいだと思っていたが、実際には20-25mぐらいだろう。そのころの水深計は、プラスチック製の細い管に目盛りを付けたものだから、目安にしかならない。
 冬の透視度の良いときだと、飛び込んですぐに下を見ると、水雷艇の全部の船の形が見える。ウミトサカも生えていて美しい。水中銃では、イシダイがいくらでも突けた。獲りすぎてはいけないので、おかずにする分だけ、自分が1尾と舘石さんが1尾、マサやんに1尾、と3尾ぐらい突く。
 舘石さんは、16mmのシネカメラ、手製のようなハウジングだったが、もって入る。舘石さんは、カメラマンとしての垂直上昇のような成功をしていて、水中造形センターという会社を立ち上げていた。
 ある日、水雷根で、一本まとまったものを撮ろうということになった。慶応をでた永持君がいっしょだったから、多分、もう水中造形センターもできていた1962ねんだったと思う。このあたり、日記もつけていない時期にあたっていて、記憶が跳び跳びになっている。
 一本撮ろうと言っても、 16ミリシネは、フィルムが廻る時間は3分だ。小舟のうえでフィルムチェンジをしたとしても、6分だ。ビデオになり、さらに最近の自分は、24時間連続撮影のカメラをつかっている。
 とにかく、6分で一つのストーリーを完結させなくてはならない。
 水雷艇は、舷側にダイバーがタンクを脱いで入れる。タンクを付けていたらひっかかるほどの口が開いている。タンクを脱いで入ってみようということになった。水深30mと思っていたから、けっこうな冒険である。
 タンクを脱がなくても、すれすれで入れたのだが、演出的には、脱いだ方がいい。細い水雷艇だから、はばは7ー8mぐらい、船室の中は、径で40ー50cmぐらいの石が敷き占められている。石の重さで沈めて、直立安定させているのだ。
 驚いたことに、石の隙間は、伊勢エビで埋め尽くされている。船室の壁にも、イセエビがとまっている。エビは、鉄を好むのだとか。そのエビが一斉に警戒音、ギイギイという音を大合唱した。一応の撮影をしてから、舟にスカリを取りにあがった。そのころは、3分の安全停止なんてない。水深20mならば、ゆっくりあがり、3mでちょっと、1分ほど止まるだけだ。中にはいりエビをどんどん、スカリに、満員になるまで詰めた。水面に、舟に上がったら、6尾ぐらいしか残っていない。入れる先から、逃げ出していたのだが、逃げ出したイセエビを捕まえるよりも、新しい奴をつかんだ方が早いのだ。
 とにかく、船頭の政やんも含めて、全員
にイセエビが行き渡った。


 この話には、サイド・ストーリーがある。一緒に潜水部を作った、大学の一級先輩の竹下さんが海上自衛隊の幹部学校に入ったことは、すでに述べたが、卒業、任官して、横須賀の水中処分帯の掃海艇「のぎく」の艇長になった。掃海艇は、磁気を嫌うので、木造船で、米国の掃海艇を貸与されたもので、日本名をのぎくとした、本当に日本の誇る掃海群の草分けだ。
 処分隊、隊長は飯田三佐で、この人が、日本の海上自衛隊のスクーバを始めた。


 その水中処分隊を訪ねたとき、この水雷根とイセエビの話をしてしまった。
 次に舘石さんと、この水雷根に行ったとき、イセエビを期待して行ったのだが、あれほどいた、イセエビが全くいない。処分隊に処分されてしまったのだ。海上、横須賀と館山は目と鼻の先、掃海艇も館山を停泊地にしていたのだ。隊員は大喜びしただろう。


 その後、イセエビ礁、イセエビの魚礁も数多設計枕設されたが、水雷艇の船室に石を敷き詰めた水雷根に及ぶものはなかった。イセエビ礁を作るとすれば、鉄製の箱を作り、直径30ー50センチの石を二段重ねくらいに敷き詰めれば良い。


 ところで、今、館山湾の水雷根はどうなっているだろう。水雷根という表示は海図にはある。しかし、魚探航走では、はっきりとした姿がでない。砂地の上に鎮座していたのだから、はっきりと船の姿が出るはずなのに。水産工学研究所の高木さんと調査を一緒にしていたので、お願いして、研究所が館山に置いている研究船たか丸を出してもらって潜ってみた。
 いくら探しても、かなり大きな水雷艇がみつからない。あるのは、1.5m角の人工魚礁が広がっている。何度も行ったり来たりしてさがした。人工魚礁のブロックの脇に、船の舷窓のような丸窓の破片があった。これが水雷艇の名残だ。と思う。他に何もないのだ。 水雷艇の上にブロックを投入し、爆撃のように船体を壊してしまったのか、あるいは、船体が崩れて魚礁の役割を果たさなくなったので、ブロックを入れたのか?水雷艇は元あった姿では見られなくなった。今、館山、沖ノ島にダイビングサービスができ、そのダイビングポイントとして、沈船という名称のところがある。それが、人工魚礁を意味するのだろうか、それとも?しかし、あの水雷艇が残っていれば、ダイビングサービスのホームページなり、カタログに載っているはずだが。スノーケリングとダイビングライセンス取得の広告がでているだけだ。 


 舘石さんがカメラ、僕が水中銃で、アシスタントという編成を心から悔やんでいる。探検、リサーチの属することは、そして、水中、水雷艇のように失われてしまう可能性のあるものについては、写真、映像のないものは、話でしかないと、今撮影の大事さ、重要であることを海洋大学潜水部、東大探検部に教えている。そして、さらに、人工魚礁ブロックの下に落ちている弦窓の写真、このことをちょっとブログに書いた時に使ったのだが、それも整理が悪くて見つけられない。水雷艇の由来を調べてもらった文書も消えている。整理が悪いのと、病気のために、整理をお願いした、転居で見えなくなっている。まあ、これは、そのうちに見つけられるだろう。

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