リザーブバルブ付き、ハーネスは、単純だ。
東亜潜水機には、ダイバー、ダイビング出来る人は僕の入社時点では誰も居なかった。まだ、スクーバは、ほとんど普及していなかったからである。
入社して、一週間もたたないある日、潜水する仕事が発生した。そのころ、海上自衛隊の水中処分隊がスクーバを使っていて、それはフランスのスピロテクニックからの輸入で、輸入商社はバルコム貿易で、発注は大同物産であった。大同物産の社長渋谷武之丞氏は、1953年(1950年という説もある)海上自衛隊の依頼を受けて、日本で初のアクアラング輸入をおこなった。渋谷氏は、帝国海軍のたしか大佐で退役した、方で、鎌倉に大邸宅を構える資産家であり、海軍の縁で、海上自衛隊へのスクーバ納入をその初期から担当していた。
大同物産というと大きな会社のように思える。事実大きい大同物産もあるらしいが、渋谷氏の大同物産は、有楽町の国鉄路線の下の一室で、海上自衛隊にアクアラングを納入することだけを主務とする会社、留守番の事務員さんが一人だけの会社であった。
フランスから輸入される、アルミ製タンクは、もちろん充填されない状態で届く、それを東亜潜水機で充填する。充填して、レギュレーターを取り付けて、自衛隊の検査官立ち会いで、それを使って潜って見せ、使えることを確認しなければ、納品できないのだ。自衛隊では、兵器の扱いである。
その潜る役の仕事であった。そして、僕が東亜潜水機に入社する前に、このダイバーの役をはたしていたのが、舘石昭氏である。水中造形センターの社長の舘石さんである。まだ、水中造形センターはできていなかったが。
フランスからのアクアラングのテストが、僕と舘石さんの出会いであり、それは、僕の東亜潜水機入社初仕事でもあった。
テストを行ったプールは、神田須田町のYMCAの温水プールだった。東京は神田のど真ん中にあるYMCAの建物の半地下にある。その後、YMCAは、各所に温水プールを持つようになるが、その始まりといえるだろう。
このプール、泳げるのは男性だけで、全員が全裸、フリチンで泳ぐ。なにか宗教上、キリスト教のために全裸かと思ったが、そうではなくて、水泳パンツがプールの水を汚すからだという。当時のプール浄化装置は現在のもののような能力は無く、水質を保つためだという。ならば、YWCAはどうなのだと素朴な疑問が湧いてきたが、その質問は、しなかった。
アクアラングを背負うということで、僕らは水泳パンツの着用を許されて、次々とテストするボンベを背負って、水深1.5mを潜った。そんなこと、馬鹿馬鹿しい、意味が無いと思うかもしれないが、意味はある、あったのだ。
時代は飛ぶけれど、ここでそれのことを説明しよう。東亜潜水機に入社した僕は、9年6ヶ月勤めて、退社した。その退社した直後、その時は、海上自衛隊へのボンベの納入は、大同物産ではなく、日本アクアラングであった。検査は、より簡略になっていて、とにかくタンクに空気を充填して、それを水槽に沈めてみて、空気の漏れを調べるというものだった。信じられないかもしれないが、鋼製のタンクから空気が漏ることがあるのだ。日本冶金製のステンレスタンクは、タンクそのものからの漏れがよくあった。高圧の空気を充填して、水に入れてよく見ると、ほんの小さい微少な気泡が、タンク表面に染み出てくることがある。じっくり見ないとわからないのだが、製造工程の耐圧検査では、これがわからないらしい。
そして、その検査の時、浅い水槽に沈めて、気泡が出ないか見ているときに、新品のタンクが破裂した。検査していた、日本アクアラングの若い社員、青柳君は、大腿部切断で即死した。
僕は東亜潜水機を辞めていたのでその現場にはたちあわなかったが、どうなるかと心配して、すぐに東亜潜水機に行ってみた。その処理に、東亜潜水機の三沢社長も、佐野専務も偉かった。一切、東亜潜水機に責任は無いのに、自分たちの責任だとして処理した。
僕は、もしもタンクが信頼できないならば、もうタンクを背負うのはやめようとさえ思ったが、すでに充填テストされているタンクは、定期の耐圧検査を受けていて、外観に錆など出ていなければ、大丈夫と信じて背負い続けることにした。ただ、タンクは爆発物であり、充填しているときは不安定であるから、充填所の壁は厚くして天井は吹き抜けるようにしておく、破裂したタンクが、上に飛ぶようにである。
とにかく、タンクの取り扱いには注意が必要である。破裂する可能性のあるものとして、僕はタンクを見ている。
ただ、現今のタンクは、空気を充填するときをのぞいて、普通に背負っていて、爆発することは、ほぼ、絶対にないだろうと信じて、スクーバダイビングをやっている。充填中、あるいは、車に乗せたりして、運送中は、注意が必須である。充填施設については、先に書いた。車に高圧ボンベを積んでいるというステッカーを貼ってあるのもそのためである。追突などされて、爆発すれば、騒ぎになる。
話を元にもどそう。このYNCAでの検査で、大同物産の渋谷武之丞氏の知己を得たぼくは、その後ずいぶんと、渋谷氏にお世話になり、良くしていただいた。舘石さんとも、瞬間的に仲良くなり、お宅に呼ばれた。
お宅と言っても、日暮里のアパートの傾いたような階段を上がった2階で、6畳一間、生まれて間もない逸見君を抱いた奥さんが居て、部屋の片隅には、大きな水中カメラハウジングが鎮座していた。
このハウジングが、狭い部屋を占領していた。
舘石さんは、千葉大学芸術学部の前身である千葉工芸専門学校(名称はうろ覚えで定かで無い)を卒業した画家で、抽象画を書いていて、たしか、新制作とかで賞をとって、将来を嘱望されてはいたが、若く、売れては居なかった。奥さんは学校の教室の事務員さんとか助手さんで、子供が出来、日暮里に来た。そこから登り詰めていくことは、一編のサクセスストーリーなのだが、そんな状態だった。
早速、一緒に潜りに行こうということになり、それでも舘石さんは車を持っていて、タンクとカメラを積んで、三浦三崎の方に行った。坂道を登り切らなかったり、道でエンジンが止まるとやばい。エンジンは押してかけないといけないかもしれない。押すのは僕だ。そんな車だった。その後、僕が3万5千円で買った、日産オースチンも、クランク始動するような車だったから、当時はそれがあたりまえ、それでも、ボンベを使うので車が必要だった。車が無いと、リュックにタンクを詰めて、外からはなんだかわからないようにして、改札を通過する。見つかったら、「空気だから大丈夫。」と言って、たいていは通り抜けられる。だめならば、その日は諦める。東亜潜水機のある南千住の駅は、2回ほど通り抜けた。が、あんまりこれはやりたくない。月給1万5千円では、3万5千円の車は買えないから、いろいろ苦労だった。その辺りの空中戦はここには書かないけど、でも、お金は必要なだけは、どこからか出てくる。