1959年10月
上野から常磐線に乗り、日暮里、三河島、 南千住を過ぎて、電車の左側を見てゆくと、荒川の鉄橋に差し掛かるすぐ手前に、電車の窓から見下ろせるところに東亜潜水機がある。
今は水深10mの潜水訓練タワーがあるので、目立ってわかるが、1959年には、普通の、古い家屋だ。
普通の家の門のような通用門を入ると、す ぐ左に事務所がある。木造で玄関が少し傾いている。門も玄関も引き戸だ。
社長の三沢さんが会ってくれた。木造床の狭い事務所には、女性事務員が三人、男性が三人、その奥にこれも引き戸で重役室がある。重役室から社長の三沢さんが出てきて、小さい丸テーブルで話を聞いてくれた。応接室などは無い。周囲の事務員が耳をそばだてている。しかし、潜水の話をした。潜水の話ができたのだ。
「連絡します」と言われたが、二週間待っても返事がもらえない。また訪ねてお願いした。 海に少しでもにじりよる気持ちである。
「それでは、まあ、やって見ますか。」社長の三沢さんが言ってくれた。
月給は九千五百円、大学卒の給料の世間相場が一万五千円の時だ。それでも、とにかく潜水器のそばで働くことが出来る。
狭い事務室には、僕の机を置く場所がない。重役室に机をもらった。重役室には、社長の三沢さんと、専務の佐野さんがいる。私は、社長の机の前に向かい合わせて自分の席をもらった。机の置き場も無いということが、採用をためらった理由だろう。もちろん、期待される仕事も、具体的には無い。新しい潜水機、スクーバを誰か専任でやらせてみよう、と言う気持ちはあっただろう。それが、採用の理由だ。
部屋の横手の引き戸を開けると廊下があり、廊下を挟んで、二つの便所がある。汲み取り便所で、中には新聞紙の切ったのがおいてあった。これで拭くのだ。女の事務員は、小脇に自前の紙を抱えて入る。男はみんな新聞紙だ。この便所が、すべてを象徴している。
僕が入社する少し前までは、日曜が休みというわけではなく、お盆と正月、そして薮入りが休日で、ほかに休みは無かった。他に、お花見、海水浴、秋の社員旅行、忘年会が慰安としてある。そんな会社だったと先輩社員の永坂さんが教えてくれた。
永坂さんは、東亜潜水機の営業、出荷、そしてスクーバ関連も担当している。昔風に言えば小番頭さんだ。彼は近所に住んでいて。高校はここ東亜潜水機に勤めながら 夜学の商業に行った。だから、若いけれどもこの会社でのキャリアは古い。僕が入ることで自分の仕事が少なくなり、会社での優位性が侵害される。だから僕の入社に反対したらしい。新しく人を入れる必要など無い、自分だけで充分にやって行けるのだからと。しかし、永坂さんは、本当に親切に何でも教えてくれた。営業ということでは、僕の何倍も優れていた。ただ、ダイバーではなかった。そして、僕が入ったとき、ダイバーは、僕の他には居なかった。
ダイバーが必要だったときは、日暮里に住んでいた、舘石昭氏が手伝った。水中写真の舘石さんである。
僕が入れてもらった時、休日は第二と第四日曜だけ、第一と第三日曜は出勤、第二と第四日曜も交代で日直がある。日直は、若手の永坂さん、そして社長の息子で、明大卒の三沢一元さん、機械場の主任亀田さんに、僕が加わった。日直は事務所の二階で寝る。月に一度しか休みのない月が隔月でやってくる。休日の前日、土曜日の夜は明日が休みかと思うと本当に嬉しかった。
事務所の奥、便所の廊下の左手に倉庫がある。倉庫はかなり広く、木造、平屋で、ここも床が傾いている。発送を待つ出来たてのぴかぴかのヘルメットが床においてある。そして、これも出来立ての潜水服をおいてある棚があり、棚の裏側の壁際にも棚があり、ガラクタがたくさんあった。ガラクタの山の中に、大串式のマスク、山本式のマスク、閉鎖循環式の試作潜水器の部分、などなど、今考えれば宝物のような歴史的な潜水器が紛れ込んでいたのだが、その時は単なるガラクタに見えた。
左側の引き戸を開けると、外に出られ、直径二メートル半、深さ二メートル半の円筒形の鉄の桶がある。一応これが、潜水テスト用のプールだった。天水桶のようなも ので、雨水が溜まっていた。ボウフラも泳いでいる。桶に接してトタン板の塀があり、その向こうは道路だ。
倉庫の奥、壁に向いて作りつけの工作台があり、万力が二つ、グラインダーが一つ、台に取り付けられている。工作台を前にして椅子に座ると、目の前の壁に映画「青い大陸」の宣伝スチル写真が何枚か貼り付けてあり、埃にまみれている。
この工作台は、菅原久一さんが東亜潜水機にいた時代に座っていた席だった。と、永坂さんが、教えてくれた。
菅原さんも穴倉のような倉庫の片隅に座り、映画のスチルを壁に貼って循環酸素式、リブリーザを試作したのだ。青い大陸の公開が1954年だから、その時、菅原久一さんは、東亜潜水機に居た。そして、机はそのままで、東亜潜水機を辞めていった。
僕は、当然のように菅原さんの席を占領した。居場所は社長室と倉庫と二つになった。
会社の敷地の中心に、車が回転できるほどの空き地がある。空き地の突き当たりに車庫があり、三輪車が置いてある。三輪車と言っても子供の乗り物ではない。エンジンがついていて、後ろが荷台になっている三輪トラックだ。子供の乗り物と 同じようなバーハンドルでジャイアントと言うメーカーの自動車だ。これを「ジャイ」と呼んでいた。このジャイで、つい先ごろに真鶴の後藤道夫のところにコンプレッサーを運んだのだと運転手の島田くんが話してくれた。高速道路も有料道路も無い。時速二十五キロで往復すると、朝早く出て、午後に真鶴に到着、夜中過ぎに東京にもどって来たという。
後藤道夫は、その年の重大出来事を一覧表、年表にしている。ダイビングの歴史の資料として後藤メモをコピーしてもらった。このメモにはずいぶん助けられている。
後藤メモ
1959年
4月 結婚(後藤道夫の結婚だ)
5月 鶴耀一郎アルバイトスタート
9月 ウエットスーツ時代来る
10月 須賀次郎東亜潜水機入社
12月 第一回水中クリスマスパーティ
僕が東亜潜水機に入社したことは、水中クリスマス並のニュースだったのだ。嬉しい。
空き地の左手には、食堂、機械工場がある。平屋で、トタン屋根、トタンの壁の傾きかかった工場だ。この会社では、玄関が傾いている。倉庫が傾いている。機械工場も傾いている。建物の傾きに反比例するように、経営は傾いていない堅実だったが。
機械工場には、旋盤が三台、フライスが一台置いてある。その奥にコンプレッサーを組み立てて、試運転する台がある。この工場の主任は亀田さん、彼もやさしくて何でも教えてくれる。専務の佐野さんの妹を奥さんにしている。
東亜潜水機には、この、コンプレッサーをつくる機械工場と、潜水服をつくる服工場、ヘルメットを作る向島の工場、の三つがある。
やがて、その翌年の1960年には、僕が、スクーバのセクションを作ることになるのだが、入社した1959年の時点では、一ヶ月間に売れるアクアラングの台数は、平均して二セットだった。注文があると、まず木箱を木工場に発注する。タンクとレギュレーター、ウエイトベルト、マスク、フィンの一式がきちんと入る格納用の木箱だ。ニスを塗ってきれいに仕上られた箱だ。アクアラングは飾り物のように、箱に収められて、潜水作業会社のどこかに鎮座しているらしい。飾り物だ。菅原さんの潜水研究所の消火器ボンベの方が売れている。
アクアラングは、高圧空気を充填しなければ使えない。コンプレッサーが、必須である。
比較的廉価小型の「PHC」(ポータブル・ハイプレッシャー・コンプレッサーの略)佐野専務が設計した二段圧縮の国産で唯一の携帯可能、ガソリンエンジン付きで二人でようやく持ち上げられる携帯可能の高圧コンプレッサーだ。普通の高圧コンプレッサーは、三段圧縮(東亜潜水機も三段の据え付け型を作っていた)のところ、2段だから、100キロを越えるとガクンと充填速度が落ちる。なので、現場では、100気圧で充填を打ち切ってしまうことが多かった。
何から何までが面白くて、どこにでも首を突っ込んで、話を聞き、少し手伝って、飽きたらまた別の人のところに行く。自分勝手に研修をしているようなものだ。三沢社長は何も言わずにほっといてくれる。なんの期待もしていないのだ。大卒を採ったのは社長の息子を別にして、僕が最初なのだ。
傾いていない服工場には、社長の息子の三沢一元さんがいる。工場の人の間ではすこぶる評判が悪い。「せがれ、せがれ」と呼んで陰口をたたいている。色白で、眼鏡で、冷たい感じがする。むこうから挨拶してくることは殆ど無い。しかし、こちらから話し掛けると、にっこり笑って、何でも教えてくれる。私はこの人がとても好きだった。仕事も出来る。
社長の息子であることで、損をしている。ちなみに2022年現在、東亜潜水機の潜水服関係の工場の社長でがんばっている。
服工場は二階にあって、畳敷きの大広間だ。一階のゴム工場で、綾織の布地にゴムを引き、加熱して服地ができる。一階の作業台で裁断し、二階に上げて、糊で貼り合わせて潜水服ができる。ミシンで縫ったのでは、水が漏れてしまうので、あて貼りで貼り合わせるのだ。これを更に加熱室で熱加工して、接着を完全なものにして出来上がりになる。
エア切れで窒息ししそうになったあの人工魚礁調査で着ていたコンスタントヴォリュームのドライスーツは、この二階でつくられたものだった。ドライスーツは、ゴム引きの綾織布地ではなくて、薄いゴム地だから、熱加工はしない。
日本で独立気泡のネオプレーンゴムスポンジを材料にしたウエットスーツが出現したのは、私が東亜潜水機に入社したこの年だった。(後藤メモにもある)
前の年の秋にはドライスーツしかなかったから、あの人工魚礁の潜水で苦労したのだ。ブルトーザ工場のクレーンの上から海を望んでいた夏がすぎて、秋、十月に東亜潜水機に入ったら、そこではウエットスーツがつくり始められていた。1959年,昭和三十四年の夏にウエットスーツが作り始められたのだ。
僕もウエットスーツの貼り合わせを手伝った。ウエットスーツやドライスーツを貼っていたのは、近所の汐入というところから通ってくる山崎さんと言うおばさんと、その妹さんだった。妹さんはちょっときれいな人だったが、あれでは、男が出来ないと、他の女子工員から陰口をいわれるような潔癖症だった。この二人とも仲良くなった。建設機械のスクラップ再生工場でのいじめに近い扱いを経験してから人と対すると、誰とでも仲良くなれる。誰もを好きになれるようになっていた。
潜水服の貼り合わせ作業には、麻薬的なところがある。何も考えなくても良い。糊をつけて貼り付けてゆく。手を動かしながら周囲のおばさんやねえさんと馬鹿な話を交わす。時にはきわどい話もする。学生時代に鎌倉に下宿していたころの鎌倉夫人との情事(そんなものはなかったのだが)を作り話にして、人気を獲得した。真に受けられて評判になり少し困った。
貼り合せる糊の溶剤にシンナーを使っていたからであろうか、頭がボーッとして幸せに一日が終ってしまう。そんな幸せな日々の繰り返しで、一生が過ぎ去ってしまいそうな気がしてきた。これではいけないと、社長室にもどる。
社長室の観音開きの本棚には、1953年度版の米国海軍のダイビングマニュアルがある。毎日,午前中は、英文を訳してノートをとって過ごした。午後は工場に出向いて方々に首を突っ込んで勝手に研修をする。
機械工場の亀田さんのところでは、アクアラングに空気を充填する小型コンプレッサーの組み立てを手伝った。これも面白かった。この時の経験で、私はコンプレッサーを極めた。と思っている。
米国の雑誌スキンダイバーの記事を参考にして、ウエットスーツ裁断の型紙を私なりに工夫してつくってみた。私の型紙は、格好は良かったけれど、生地の無駄が多かった。真鶴に行った後藤道夫の型紙は圧倒的に優れていた。格好も良く、生地に無駄も無い。彼はものを作る天才だ。
フィンは、あの、模写したフィンのメーカーの名前をそのまま名前にパクってしまっていたフィン、女性も男性も足のサイズに係わらずに右も左もなく、一つの大きさで全部すませる超汎用のチャンピオンを作っていたのは東亜潜水機だった。なぜかこのフィンだけは、ゴムの配合を社長自らがやる。他の工員にはやらせない。社長は、基本素養がゴム屋さんであり、ゴムについては特別の思いがあるのだろう。このフィンが黒一色だけなのは、カーボンを天然の良質なゴムに入れているからで、カーボンを入れると、老化が妨げられて、長持ちする。ゴムの型枠は一つしかない。社長が配合し、練り上げたゴムは、板状になっている。適当な大きさに切り刻んで、型枠に挟んで圧しながらスチームで加熱する。鯛焼きを作るようなやり方だ。型枠が一つだけだから、左も右も同じ形である。10分ぐらい加熱してから冷やして型から抜くから、30分に一足の半分、片足しか出来上がらない。鯛焼きと同じように、型枠からはみ出したゴムがバリになっている。それを鋏で切り取る、このバリ切りが入社したばかりの私の仕事の一つだ。バリを切ったあと、グラインダーでこすって切り跡を平らにする。僕は、グラインダーでこする工程を省略してしまった。足に履いて水中に入ってしまえば、切り跡が平でなくても差し支えない。永坂君は、グラインダーでこすらなければみっともないと言うが、包装も何も無く、天井から吊るして売られているような商品だから、見かけなどは関係ないと思った。潜水服を作るためのゴム工場だから、フィンは片手間のまた片手間だ。要求してもなかなか作ってくれない。チャンピオンの月産は20足ぐらいだから、こすってもこすらなくても全部売り切れた。
マスクは、フランス製のスコールが顔に対するフィットではとても優れていたが、なぜかあまりにもゴムが粗悪で、すぐに老化してしまう。老化したマスクを顔につけると、マスクと顔が接していたところに青いゴムのあとがくっきりとついてしまう。
浅草、花川戸に近い普通の家の日本水中工業株式会社がマスクを作って販売している。社長一人ですべて、社長が社員兼用だから全部で一人、社長の高橋さんがマスクを販売している。高橋さんは、香具師の高橋組の御曹司だと聞いたのだが、とてもそんな人には見えない。いつもニコニコしている。美人の奥さんが料亭をやっていて、高橋さんはそれほど働かなくても良いのだとも聞いた。高橋さんが留守のときにマスクを受け取りに行くと、出てくる奥さんは素顔だが、すごい色っぽい。その奥さんの料亭で、潜水器業界の集まりがあり、出席させてもらった。うらやましい人だ高橋さんは。集まりは当然酒宴になり、高橋さんが余興をやった。座布団を二つに折り、それを女性性器に見立てて、なぜさすりながら解説の歌を芸者の三味線に合わせて歌い踊るのだ。年季が入ったすごい芸だと思った。
高橋さんの「スイチュー」のマスクは、ゴムの質は良いのだが、どこか気に入らないところがある。やがて、マスクを作る会社が次々と出て、スイチューのマスクは消えてしまったが、ずいぶん後まで奮戦していた。東亜潜水機ではマスクは作らなかった。マスクは東亜潜水機の守備範囲ではない。高橋さんに義理が立たないと社長が決めていたのだ。僕としては不満だった。