スクーバダイビングでの生と死、そして技術を学んだ。撮影は、調査報告とは、イコール撮影なのだと知った。
映画の撮影については、岩波映画と新東宝の水中撮影の助手をやった。岩波映画は、小湊の磯でのクサフグの産卵、新東宝は「人喰い海女」という恐ろしい題名の映画に水中撮影の助手に付き、白浜のロケをやり、驚異的に身体がよく動くととほめられた。
宇野教室で、サザエの棘について書いた論文は、サザエの棘が、その磯の環境、内湾度の指標になると考えて、結論としたのだが、それは推論に過ぎないとまとめは全部削られた。予測に類することは、本文中に書いてはいけない。考察は、事実から考えられることだけにする。そして、相関関係と因果関係のちがい。
これらが、後の調査とレポートについての考え方の基本になっている。
書き上げた論文は、先生も誉めてくれて、春の水産学会で発表するようにすすめてくれた。
論文発表の準備が終わると、三月も終わりに近く、就職のチャンスは失われていた。公務員試験も受けては見たのだが、卒業論文と平行だったから、今一息?で落ちた。公務員試験に受かったところで就職があるわけではないと、自分で自分を慰めたが、慰めたところで、何にもならない。
水産学会の論文発表、これが学会で自分が発表する最初で最後になってしまったのだが、好評で、特に猪野竣先生(アワビの研究の大家で、後に日本潜水科学協会の会長、海中公園センター)には、特別に褒められた。学業は中等だったが、研究は優等で卒業した。
海を研究のフィールドにし、テーマにして、大学で潜水をさせるということ、教師にとって大変な冒険、火中の栗なのだ。宇野研究室はダイビングを駆使する研究室、先生は、その後も火中の栗を次々と拾って行かれた。
しかし僕は、「大学をは出たけれど」その頃の流行語?映画にもなった、と同じ状況。当時最先端のリサーチ・ダイビングの技術がある。それは、通常の就職の役には立たなかった。
今の大学には、売り手市場、買い手市場の差はあっても求人がある。東京水産大学増殖学科には、その年度、求人は無かった。教職課程を採った者には若干の求人があったが、教職課程を取らなかった。その後の自分の軌跡をみると、教職に向いていたかもしれない。が、教職課程を取るよりは、ダイビングがしたかった。ダイビングを教えるという考えには至らなかった。
行き先が決まっているのは、東大の大学院に入学する桑原連(後に東大の助手になる)優等生の原武史(後に水産庁中央研究所の所長になる)鈴木稔(伊豆大島の水産高校)ぐらいだった。地方出身者は、コネを頼りにどこかにもぐりこもうと画策中だった。水産試験場には、縁故をたよって、用務員で入り、やがて、技師補になり、技師になる。ただ、同期がいないので、みんな後には場長にはなった。
母一人、子一人、東京を離れることができなかった。伝手をたどって、深川の古石場にある日本建設機械という会社に入った。名前は立派だったが、仕事は建設機械のスクラップ再生工場だった。進駐アメリカ軍が持ち込んだブルトーザやシャベルドーザのスクラップをただ同然で買ってくる。全部バラバラにして使える部分だけを使って、二台か三台を一台に組み立てるのだ。
機械のことは何も知らない,何も出来ない僕の仕事は、「泥おとし」だった。カンカン虫とも言う。金槌でカンカンたたいて、錆を落としたり,泥を落としたりするからだ。
スクラップの建設機械は、雨ざらしになっていて、泥にまみれている。この泥をこそぎ落として、スチームクリーナーで蒸気を吹き付けてきれいに洗う。「泥おとし」が終ったならば、ボルトナットで締め付けられて組み立てられている部分を全部取り外してバラバラに分解する。分解した部分は、ガソリンできれいに洗うと、磨耗している部分や、弱くなっている部分がわかる。悪い部品を良いものと取り替えて、再び組み立てると機械は生き返ってしまう。
泥にまみれた労働だったが、そこで、機械についての「いろは」を学んだ。機械のほとんどは、ボルト・ナットで締め付けられ組み立てられている。ボルトナットの取り外し、締め付けはボックスレンかそれとも眼鏡レンチと呼ぶ工具を使う。ボルトを見ただけで、適合するサイズのレンチを手にとらなければならない。それができないからと言って、年下の少年工員にいじめられる。大学を出ていなかったというだけで出世できない話は良く聞くが、大学を出ているというだけの理由でいじめられる世界もあることを知った。
普通、ボルト・ナットの締め付けは、モンキーレンチと呼ぶサイズフリーのレンチを使う。しかし、それではだめ、振動で緩んでしまう。飛行機でも、自動車でも、そしてブルドーザでも、ボルト・ナットの緩みが、事故の原因になる。修理、組立の途中で、どうせすぐ後で分解するのだからと、緩く仮締めする。これも厳禁、別の者が組み立てを受け継いで、そのまま組み立ててしまうかもしれない。
マニュアルというものも覚えた。工場でいうマニュアルは、ダイバーが使っている講習とか運用のマニュアルとは違う。器械の組み立て図をいう。バラバラにした器械は組み立て図、マニュアルを見て、組み立てる。この工場で扱っている土木機械は、インターナショナル・ハーベスターというアメリカの会社製のものであった。だから、マニュアルは全部英語だが、英語はわからなくても、図でわかる。
この工場のあった場所は、深川、今の僕の事務所からあるいて5分、古石場図書館の隣で、今、工場は跡形もないが、その近くに事務所を構えたのは、何か潜在意識が働いたのだろうか?
昼休みになると、重いものを吊り上げて移動させるガントリー・クレーンの上に登る。高く登ると、東京湾の海が見えるような気がした。深川からでは、海は見えないのだが、青黒く濁った運河が真下に見えて、その匂いが潮の匂いのようにも感じられた。海にもどらなければいけない。
人工魚礁への潜水でのエア切れも、振り返ってみればすばらしい体験だったように思えた。死にかけた体験は生かさなければいけない。
仕事も、慣れてみればおもしろくないことはなかった。いじめてくれた、少年工員も懐いてきた。海にもどらなければいけないという思いがなければ、この仕事を極めても良いとも思った。
が、夏の終わりに、この会社を辞めた。仕事とはどんなことなのか、就職するということ、本来の自分がやりたいこと、ずいぶんたくさんのことを学んだ。別に行く当ては無い。
品川の宇野教室に行って見ると、人工魚礁の卒業論文で手伝ってあげた上島さんは、やがて日本アクアラングという会社が発足するということで、その親会社になる帝国酸素に就職が決まっていた。上島さんともう一人、新卒ということでは、潜水部の一級下の浅見国治が決まっていた。
上島さんは教職課程をとって教師になると言って学校に残っていたのだから、僕が学校に残っていればとすこし恨めしかった。しかし、彼は後に日本アクアラングの優れた社長になった。僕だったら、彼ほどの経営者にはなれなかっただろう。経営者になるよりも、海に潜っていたかったのだから。
教室の宇野先生に相談したが、先生は海鷹丸の航海実習に研究員で乗り組んで、ガラパゴスに行くことになっていて、とりあえずは何もしてもらえない。
何もすることがないので、学校に来ていた求職口に応募して見た。極洋捕鯨と言う会社を受けた。「尊敬している人」という題で作文を書かされた。二宮尊徳は偉いというテーマで書いた。節約と勤労で農村を立て直した尊徳は、不況の時のテーマとしては悪くないと思った。小論文としてはうまく書けたのだが、大学は試験の成績で入れてくれるが、会社は試験の成績で人を採るのではない。
宇野先生がガラパゴスからもどり、
僕は東亜潜水機を紹介してもらう。後で聞けば、その年、旭式マスクの旭潜研からも話が来ていて、それは、一学年下、卒業が来春になる浅見と同級の遠藤徹が行くことになっていた。この年、宇野教室からは、日本アクアラングに2名、旭潜研に1名、そして僕が東亜潜水機と、潜水器メーカーに4人も就職することになる。
もうこのあたりのこと、前にブログに出しているので、検索すれば出てくるが、との核、リライトして通過しよう。今9だが、300ぐらいまで行くうちに年表、小史を書き直して、出版原稿にしたい。