ライン調査を1957年に行った実例
これが、文書(印刷物)で発表された、スクーバによるライン調査の記録として、一番最初であろう。
僕らの素潜り(スキンダイビング)によるライン調査は、ライン調査としての発表は、当時、していない。
また、日本にスクーバが入ってきて、実際の海底調査を行った最初である。
どるふぃん 1-2(1957) より
「太平洋炭鉱におけるアクアラングの利用状況」 永渕正叙 佐藤進
「昭和28年(1953)東京の新聞に須田・ディーツ両博士がアクアラングを天皇陛下にお目にかけている写真がのっていた。8月下旬両博士は、釧路鉱業 所(太平洋炭鉱の)を来訪し、Dietz博士が南カリホルニアで撮影 した天然色海中写真を2回も公開し、炭鉱人市民を魅了した。さらに10月にはスクリップス海洋研究所の海洋調船ベアード号が函 館に入港した際、佐藤は同船上でアクアラングを着装してみる機会に恵まれた。当時の大同物産・(渋谷さんが社長)へフランス製アクアラング及び付属品一式を注文し、11月ごろになって現品が到着した。何しろ釧路の海は波が荒く、透明度が低いから 果たしてアクアラングが役に立つかどうか疑わしかったので、さしあたり一組だけ注文したものだった。今にして思えばまことに冷や汗ものである。」
※ 日本に初めてアクアラングが入ってきた時の状況がよくわかる。須田博士とは、須田院次博士のことであろう。海上保安部水路部局長で、潜水科学協会の理事にもなっている。ディーツ博士は海底地質学の研究者であるから、これが海底地質学の分野から、アクアラングが日本に入ってきたルートである。
太平洋炭鉱の佐藤さんたちは、昭和31年(1956)、フランス製1組、日本の川崎 航空製2組を追加し、4組で練習を開始する。7月から8月にかけて、プール6日間、海で13日間の練習をして、水深14.5mまで潜水している。
9月まで、ライン調査を26日間行って、研究調査員自らが潜る利点を十分に感じた。そしてさらに調査員ダイバを6人に増やし、「絶対無事故を目標とし、かなり厳重な基礎訓練と安全作業基準を作ってみた。今後の経験により、完全なものに作り上げたいと思っている。」
ちなみに、太平洋炭鉱講習の講師は、僕の探検の師匠である白井祥平先輩がやったとあるが、当時はまだ専攻科の学生だったはず、よく、そんな大胆なことができたものだ(今でいうと大学院1年生)とおもう。白井先輩は1954の死亡事故の講習を受講しているのだが、あの講習は事故の体験だけである。だからこそ、貴重な体験をしたともいえるが、本当にフロンティアで、一日の長があれば、それを教えた時代である。
とにかくこれが、我が国における民間企業が企業としてアクアラング潜水を導入し、専門の潜水夫ではない研究員が調査を行い、成功を見た最初の例であろう。
太平洋炭礦は、釧路にある炭礦会社であり、2002年に閉山して、釧路コールマインという別組織が引き継いでいる。行ったこともなく、詳しいことはわからないが、海底まで、炭礦が伸びていて、海底の調査が必要だった。とにかく鉱業調査のために海底調査が必要であり、おそらく、日本で最初に組織的なライン調査が行われた。
※ 写真のドライスーツは、服内に空気を送り込むことができない、厚着をしてスクイーズに耐えるタイプである。
ドライスーツは、いわゆる潜水服であり、古い歴史があるのに、スクーバで使われにくかったのはこのスクイーズのためであり、この解決には、様々な工夫がなされる。次回に述べるコンスタントボリュームなどがそれである。