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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1024 ダイビングの歴史 山田稔 年表

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ダイビングの歴史を企画した2017年 共著でやろうと声をかけていた、山田稔さん(ジャムステック)が、たたき台の年表を作ってくれた。いろいろ錯綜し、たたき台をたたかないうちに、山田さんは世を去ってしまった。 手をつけている、書き続けているダイビングの歴史では、年表もかなり変更しているが、この年表、これはこれでまとまっているので、ブログに上げておきたい。山田さん、独特の視点もあるので、おもしろい。
年表にすると、それぞれの出来事の相関が見えてくる。山田さんの年表は、現在からさかのぼって行く。僕は最初が紀元前でそこから下って行く年表をつくっているのだが、こうしてみると、山田年表の方が良いような気もしている。






      2017年2月27日   日本の潜水技術年表                   編纂 日本水中科学協会 年表部会 日本には、潜水に関して輝く歴史・文化がある。これら歴史に目を通すことで、先人達へのさらなる敬意、これからの潜水の未来が見えてくる。この年表は日本の潜水の発展を網羅したもので、現在から過去へさかのぼるように記載されているので当事者として歴史を実感していただきたい。潜水を長く経験された方から最近始められた方までがこの内容を確認することで、潜水に対する共通認識、新たな興味・好奇心が生まれると考えています。  2015年   スキンダイビングセーフティ出版される。須賀次郎2014年   ニッポン潜水グラフィティ出版。2014年   海上自衛隊・潜水医学実験隊の訓練水槽で2名の潜水死亡事故発生。2014年   素潜り記録は男子篠宮龍三の水深115m、女子岡本美鈴の水深90m2013年   海上自衛隊・潜水医学実験隊は田浦へ移転した。2012年   最新用語辞典の編纂 須賀次郎2010年   最新ダイビング用語辞典の編纂2010年   特定非営利活動法人日本水中科学協会JAUSを設立。2008年   海上自衛隊・潜水艦救難艦「ちはや」の潜水員は450m潜水に成功。2006年   アアク・ファイブ・テレビから中川隆が独立 河童隊設立2005年   多数の魚類図鑑を制作した益田一氏亡くなる。 伊豆海洋公園を企画した。2003年   高等学校学習指導要綱の科目「ダイビング」が設けられた。2002年   奄美大島沖の不審船捜索(水深95~100m)に飽和潜水作業。2002年   シチズンは飽和潜水に対応した1000mダイバーズを発売。2000年   海上自衛隊潜水艦救難艦「ちはや」「ふしみ」に深海潜水装置搭載。1999年   NASDASアメリカでSSIと合併1998年   海上自衛隊で女性二人(小原一葉、佐川京)の飽和潜水ダイバーが誕生した。1998年   海中開発技術協会が社団法人レジャースポーツダイビング産業協会に        名称を変更。1998年   造礁サンゴで白化現象が起こる。 映画「タイタニック」が上映される。1997年   海上自衛隊・潜水医学実験隊は400m、40日間の潜水を達成した。1996年   ジャック・マイヨールから続く素潜りで深く潜ることが競技になり、世界的な組織ができ、垂直、水平、息こらえの種目で、現在の日本記録は、男子篠宮龍三の115m、岡本美鈴の90mである。1996年   東京港水中生物研究会が発足。東邦大学風呂田教授1996年   須賀次郎60歳を記念しての100m混合ガス潜水を行う。1995年   セミクローズ・リブリーザー、フィーノが発売された。アメリカ、そして日本、時代が早かった。1994年   パラオ諸島で日本人ダイバー5名が行方不明となる。1994年   スリーアイ潜水団体発足 潜水指導と潜水活動を共に平行して行う。1994年   1976年のロレックス後援による海洋博スポーツダイビング競技会より移管し、全日本スポーツダイビング室内選手権大会として東京都辰巳1993年   JAMSTECで初の窒素酸素飽和潜水実験(水深20m)を行う。1993年   JIS規格に潜水用携帯時計が規格化された。1992年   海上自衛隊は飽和潜水450mを達成した。1992年   愛知県松山沖でタイラギ漁のヘルメットダイバーがサメに襲われ、行方不明となる。1991年   JAMSTECは組織替えで潜水技術部は無くなる。1991年    アイ・エス・シー設立。 日本体育協会の指導員であることを条件とした団体1991年    水産高校、海洋高校での潜水教育のための指導員(教員)の養成・研修1990年    ニューシートピア計画300m実海域実験成功、これをもってJAMSTECの研究主体は潜水船、無人探査機の実験と運用に移り、深海潜水については海上自衛隊潜水医学実験隊が潜水艦救難を目的とした飽和潜水の開発に移行する。1989年    海上自衛隊は潜水医官課程を新設1989年    NAUIジャパンは㈱NAUIエンタープライズに組織替えする。1988年    日本酸素は簡易半閉鎖式潜水器「オーバ」を販売する。1988年    JAMSTECは水深300mの飽和潜水実験を行う。1988年    マイヨールをモデルにした映画「グレート・ブルー」公開された。1987年    世界水中連盟は名古屋港の「ふじ丸」で総会を開催。1987年    第1回ダイビングフェスティバル開催1987年    熊本大学体育会ダイビング部を創設1987年    BSAC Japan1986年    海上自衛隊は飽和潜水課程を新設1986年    ダックスセントラルダイビング協会が発足1986年    テレ朝・ニュースステーション須賀潮美さんの水中レポートが人気になる。1984年    日本職業潜水教師協会が設立された。1984年    日本光学は水中カメラ「ニコノスーⅤ」を販売する。1983年    東海汽船主催のフリッパーレース「マリンピック」開催1982年    フランスの潜水マニュアルが「潜水学」として出版される。1982年    カナダ・オルカ社製減圧コンピューター「エッジ」の発売1982年    シチズンは耐圧1300mのダイバーズウオッチを開発する。1982年    日本潜水会は全日本潜水連盟関東支部となる。1982年    住友海洋開発は鳥取沖「第五白竜DDS-1」で296m作業行う。1982年    熊本県大矢野町沖で子どもがサメの襲われ死亡した。1982年    PADY JAPAN設立。 これまではPADY潜水指導協会が実施。1982年    世界開発技術センターはROVで「ナヒモフ」「テンオー」などの沈船調査を行う。1982年    ベーリング海での漁船遭難で「インマージョンスーツ」が検討される。1981年    横浜・山下公園で海底ゴミの清掃始まる。1981年    伊豆・雲見で潜水タンクの爆発事故発生。1981年    東京女子体育大学アクアダイビング部設立1981年    JAMSTECの300m潜水システムが完成する。1981年    本四架橋工事7A(50m)でヘリウム潜水による施工確認行う。1981年    真鶴半島潜水禁止が解除される。(後藤道夫対策委員長)1980年    真鶴半島で潜水禁止となる。1980年    釜石港湾防波堤工事(水深70m)でシステム潜水調査工事を実施。1980年    国際ダイビングスクール協会(ADS)が発足 1980年    日本海洋開発は対馬沖ナヒモフ号のインゴット引揚作業97mに飽和潜水方式で実施。1980年    住友海洋開発は宮古島沖「第五白竜DDS-1」で287m作業行う。1980年    月刊「ダイバー」創刊1979年    日本サルベージはイランの海抜1670mのダムで400回潜水作業行う。  高所潜水での減圧表が注目された。1979年    本四架橋工事で「シートピア」が水中検査工事に使われる。1978年    ダイバーズウオッチのクオーツ化が進み、自動巻きは生産を中止する。1978年    海上自衛隊は初の飽和潜水(60m相当圧)実験を行う。1978年    スクーバプロ社はスタビジャケット発売、BC普及の契機となる。1978年    須賀次郎「潜水と水中撮影入門」が発刊される。1978年    JAMSTECは「シードラゴン計画」で300m相当のシミュレーションに成功する。1978年    深田サルベージは志布志湾75mでSDCにより油抜き作業行う。1977年    海上自衛隊・潜水医学実験隊は久里浜で発足1977年    日本海洋産業は襟裳沖で204mのダイバー作業行う。1977年    日本海洋産業は274m相当圧の潜水実験行う。1977年    日本海洋産業は舞鶴沖140mの墜落ヘリを回収する。体長6mのオオダコに襲われる。1977年    深田サルベージは北海道留萌沖「泰東丸」水深62mで潜水作業。1977年    ダイビングシステム搭載のジャッキアップリグが徳島沖で座礁する。1976年    須賀次郎「スポーツダイビング入門」出版1976年    日本初水中テレビ番組「マチャアキ海を行く」がスタート。
1976年    三津浜の海底ハウスで2名の空気栓塞症が発生。1976年    我が国初の潜水技術シンポが開催される。1975年    シートピア計画で100mの海底の9回のPTC潜水を行う。1975年    雑誌「ダイビングワールド」創刊1975年    江ノ浦港をスクーバで港内クリーンアップ1975年    日本光学は水中カメラ「ニコノスーⅢ」発売1975年    沖縄返還を記念して、本部半島で沖縄海洋博が開催された。 スポーツダイビングフェスティバル(競技会と写真展)開催。1975年    セイコーは耐圧500mのダイバーズウオッチを商品化。1975年    アジア海洋作業は阿賀沖81mでパイプラインの作業行う。1974年    日本海洋産業は中国へADSシステム2基を輸出する。1974年    芙蓉海洋開発は潜水球「うずしお」で2名の死亡事故を起こす。1974年    日本海洋産業が常磐沖「第三白竜」で155mのダイバー作業を行う。1974年    潜水士が国家試験制度となり、女性の受験も認められた。1974年    船の科学館が開館された。 2011年無期限閉館となる。1974年    ドウ・スポーツプラザが新宿住友ビルにダイビング専用プールオープン。水深10m1974年    JAMSTECは混合ガス潜水技術コースを開設。1974年    明治大学スキンダイビングクラブ設立1974年    ダイブウエイズ設立1973年    有明海のタイラギ漁で船上減圧が盛んになる。1973年    海上保安庁に潜水員グループの設置決まる。1973年    JAMSTECに500m用潜水シミュレーターが完成する。1973年    三井海洋開発はGE社の閉鎖式スクーバを販売する。1973年    社団法人日本潜水協会発足  主として港湾土木1973年    シートピア海中居住実験、60mの海底で4人が3日間生活した。1972年    三井海洋開発はスラスター付きダイビングベル「タドポール」を完成。1972年    海上自衛隊第一術科学校に潜水艦脱出装置付訓練水槽が完成。1972年    沖縄 オニヒトデ大発生 駆除作業の開始1972年    須賀次郎「水中写真の撮影」出版1972年    全日本潜水連盟創立 日本潜水会、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟、PADI潜水指導協会が連携して結成。1972年    静岡県レジャーダイバーの潜水全面禁止1972年    PADI潜水指導協会発足 椎名勝美のスポーツマンギャラリー1972年    シートピア計画で30mの海底に4人が3日間生活した。1971年    日本海洋産業、初めての石油試掘支援潜水行う。1971年    芙蓉海洋開発は我が国初の水中カラ―テレビの撮影に成功する。1971年    シートピア計画、海中作業基地、支援ブイ完成する。1971年    科学技術庁と経団連は海洋科学技術センターJAMSTECを設立。1971年    田中和栄氏の個人的海底居住実験「歩み号一世」三津浜に移設。1971年    社団法人 水中技術振興協会は学識経験者も加わった講習会を発足させ、全国統一組織への途上にあるように見えたが、八丈島で行ったブルーオリンピックの最中の事故のため、撤退。1970年    深田サルベージは岩国沖43mの「陸奥」を引き揚げる。
1970年    厚生省は第一次の海中公園を指定する。1970年    シートピア計画で100m相当圧の飽和潜水実験行う。1970年    シートピア計画のPTC/DDC完成する。1970年    独立気泡スポンジのドライスーツ 完成?1970年    日本のNAUI 本格的に指導員講習を発足。1970年    慶応大学スキンダイビングクラブ設立1970年    ジャック・マイヨール伊豆海洋公園で76mの素潜り記録達成。1969年    JOC日本ディープダイビングスクール(猿渡肇氏が)創立。 勝鬨橋河畔に台船を浮かべて研修し、後に甑島に基地を移し、作業潜水への人材を供給したが、1972年に終了した。1969年    雑誌「マリンダイビング」発刊 ダイビング専門誌はこれが日本初。1969年    社団法人水中技術振興協会発足。スピアフィッシングの是非をめぐって三者提携 分裂。1969年    日本海洋産業が設立する。1969年    シートピア計画の基礎研究がスタートする。1969年    我が国初の海中展望塔が和歌山県白浜に完成。1969年    ロレックス杯水中スポーツ選手権大会 伊豆海洋公園にて1969年    東京大学海洋調査探検部 創設1969年    スガマリンメカニック設立1968年    三井海洋開発が設立する。1968年    海中開発技術協会は東京医科歯科大学で25m相当圧の飽和潜水実験を行う。1968年    関東学生潜水連盟(法政、独協、東京水産、東京商船、中央) 創立1968年    中央大学海洋研究部創設1968年    リブリーザー・エレクトロラングが作られる。純酸素ではなく混合ガス。1968年    雑誌「ブルーゾーン」発刊 編集発行人 野尻純康 3号で消え去る。1968年    田中和栄氏の個人的海底居住実験「歩号一世」行う。1967年    芝浦工大アクアラング部創設1967年    学習院大学ダイビング部設立1967年    (財)海中公園センター発足 2002年解散するまで63区の海中公園。1967年    日本潜水会創立 スピアフィッシングの禁止を可決。1967年    早稲田大学水中クラブ1965年    日本大学スキン&スキューバダイビング設立1966年    全日本水中スポーツ連盟(全日本潜水連盟ではない)八丈島でスピアフィッシングコンテスト1966年    「アクアラング潜水」出版 須賀1966年    セイコーは耐圧300mダイバーズウオッチを発売する。1966年    PADIアメリカ・シカゴで発足1966年    全日空羽田沖に墜落 須賀・館石は現場写真を撮影。NHKも報道。1966年    シートピア海底居住実験のための受け皿として、日本潜水科学協会は 社団法人海中開発技術協会となる。1965年    映画「007サンダーボール作戦」でスクーバの普及が加速された。1965年    国産初のダイバーズウオッチ、セイコー耐圧150mが発売された。1965年    加山雄三「海の若大将」水中撮影のため、35mmフィルムカメラのため、須賀は、島野製作所と協力して作る。1965年    水中射撃連盟、神津島でスピアフィッシングコンテストを行う。1965年    世界水中連盟のブルーオリンピックに出場、団長は大崎映晋氏         選手は鶴耀一郎、松岡俊輔、西堀富士夫で、鶴選手は6位に入賞して注目を浴びた。1965年   出版  日本潜水科学協会の「どるふぃん」終刊 水中写真特集1965年    クレッシイサブはオキシラングを販売、死亡事故が発生する。1964年   法政アクアクラブ創設 獨協大学体育会ダイビング部創設1963年   須賀次郎 館山で100m潜水実施1963年   日本光学は水中カメラ「ニコノス」を発売1963年     水中溶接が実用化する。1962年   読売ランドは水中バレーシアター竜宮城ができる。1962年   潜水士の試験、第一回目が小田原で開催される。1962年   スイス人ハンネス・ケラーは、SDC(エレベーター)で降下して水深300mに泳ぎ出る。記録は樹立したが、2名の事故死者を出す。1962年    真鶴で漁民とのトラブルが表面化1961年    日本アクアラング㈱ 設立 USダイバーズ社と同系列1961年    関西潜水連盟が発足1961年    労働省高気圧障害防止規則が施行される。1960年    NAUIアメリカで発足、1960年    ウエットスーツ完成 伊豆大島の海士が使用、国内初となる。1959年    ナショナル護謨㈱がクロロプレンを主材料にしてウエットスーツ生地1958年    東海サルベージは潜水装置「白鯨」を完成する。1958年    東京水産大学ダイビングクラブ設立1958年    ダイビングショップ太平潜水が水道橋に開店。店主は池田和一郎氏1958年    日本潜水科学協会が日本橋三越屋上でアクアラング実技公開1958年    後藤道夫 真鶴にダイビングセンターを作る。1957年    NHKフィルムハウジング製作 1957年    江東楽天地プールで日本ダイビング協会第一回講習会。1957年    テレビ番組「シーハント」 ロイド・ブリッジェス主演 61年まで続く。1957年    日本潜水科学協会設立される。1956年    潜水研究所は雑誌「潜水技術」を発行する。1956年    映画「沈黙の世界」日本で公開される。1955年    クストーが主催で、世界水中連盟ができた。スキンダイビングによるスピアフィッシング大会が行われ、ブルーオリンピックと名乗った。1955年    雑誌「海の世界」創刊 海事広報協会、海のすべてを扱う雑誌で、当初はダイビングの占める紙面は少なかったが1970年ごろから次第にダイビング記事が拡大した。1954年    米国のロサンゼルス・カウンティのブルーカード(C-カードの第一号か?)を発行した。1954年    映画「青い大陸」が公開された。使用している潜水機の主体は純酸素リブリザーである。1954年    南伊豆の漁港に2室型再圧治療タンクが設置される。1954年    東水大佐々木忠義教授 水中テレビによる海中調査行う。1954年    東京水産大学の潜水実習で2名の死亡事故が発生する。日本でのアクアラング事故のはじまりである。1954年    海上自衛隊に水中処分隊が発足する。1954年    「洞爺丸」遭難で全国から延べ400名のダイバーが参加した。1954年    洞爺丸海難事故に際して、当時、東亜潜水機に勤務していた菅原久一氏がスクーバで捜索に参加、菅原氏が試作したリブリザーブを持参したと言われているが、これを使用したという写真がない。アクアラングを使用した。1954年    我が国に駐留していた米海軍のUDTがアクアラングを持ち込む。1953年    ロバート・ディーツ博士が東京水産大学小湊実習場において、アクアラングを海洋研究に使用するための運用を紹介した。新聞の記録が残っている。5月25日付朝日新聞 6月10日読売新聞は鯛の浦潜水を掲載。1951年    北海道大学井上直一、潜水球「くろしお」で206m潜水する。1950年    マスク式潜水器が漁民に広がりをみせる。 1952年    種市高校海洋開発科 日本で唯一ヘルメット式潜水機の訓練を含めた潜水士の養成を行っている。1952年に久慈高校種市分校に「潜水科」として創設された。1952年    過酸化水素によって酸素を発生させる潜水機、ニッセン式神田のYMCAプールで実験された。 実用には至らなかった。1951年    米国でダイビング雑誌「スキンダイバー」が発行される。1950年    大同物産渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB)が掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと考えられるが未確認。1945年    幸いにして終戦を迎えたために、伏竜は出撃せずに解散したが、マッキン・タラワなどの波打ち際で大きな犠牲を出した米軍は、波打ち際の障害物を爆破したりするUDTを創設 ダイビング兵士であった。戦後、退役後、スクーバ潜水の教師になるものも少なくなかったという。 1945年    運輸省 三浦市諸磯に潜水員養成所を開設する。1945年    水中切断技術が実用化する。1945年    千葉労働病院に再圧治療タンク設置される。   1944年    スクリップス海洋研究所での最初の潜水調査は、中国からの生物学者 Ck.Tsengが日本のヘルメット潜水で海藻を調査したことである。1943年    日本海軍の清水登らは、小型ヘルメット式潜水器をベースにして、リブリザーを開発し、本土に上陸してくる米軍を水中から迎え撃つ伏竜特攻隊が編成された。1939年    釧路沖でヘルメット潜水による岩盤調査行われる。1939年    マスク式潜水機で水深95mに潜水する。1937年    アラフラ海で日本人ダイバー約3000人に達する。1934年    山口市十郎 三菱造船所で潜水ロボット「開洋」を建造する。1934年    日本サルベージ設立する。
1933年    三浦定之助、水深45mの水中撮影に成功。1933年    浅利式マスク潜水器が開発される。1933年    鈴木章之、「ナヒモフ号」の引揚げで、97~107mの減圧表を作成。1932年    「西村式豆潜水艇2号」が完成する。1931年    倉敷労働科学研究所、国際産業医学会で海女の研究を発表。1931年    アラフラ海で「裸式潜水法」が始められた。1930年    三浦定之助、定置網調査に潜水器による調査を取り入れる。1929年    陸軍科学研究所、水中写真機を開発す。1929年    「西村式豆潜水艇1号」が完成する。1926年    片岡弓八は、大串式マスクを使用して、地中海ナイル河河口沖水深80m(正確にはわからない。)の八坂丸から金塊を引き上げた。1925年    片岡弓八、地中海70mから「八坂丸」の金塊を引き揚げる。沈んだから10年後の快挙に欧米にショック。1924年    永代橋工事で続出した減圧症患者の治療が行われた。1920年    帝国海軍が英国海軍の減圧表を採用した。1918年    大串式は150キロ充填圧のタンクを背中に背負ったスクーバとして英国に国際特許を申請している。1915年    山本虎多は、大串式の改良ともいえる山本式マスクを完成させる。後に定置網漁業などに多用されるのはこのタイプである。1914年    有明海で朝鮮ダイバーによるタイラギ漁が行われる。1913年    渡辺理一(水産講習所卒、長崎県大村湾で真珠養殖を営む)は、簡易な潜水器が必要と大串岩雄に相談、腰バルブ式のマスク式潜水器を作る。後に片岡弓八と相談してレバーを歯で咬むデマンドバルブ付の大串式マスクを開発する。1910年    深田サルベージの前身である深田海事工作所が発足した。
1906年    日露戦争のため、旅順港で軍の潜水活動が行われる。1893年    我が国初のサルベージ業(三菱造船海難救助部)が発足する。1891年    外国人の指導によりサルベージ作業を行う。1890年    潜水眼鏡が全国に普及する。1887年    房州大原沖でヘルメット200台によるアワビ漁始まる。アワビの乱獲が表面化する。1886年    沖縄糸満で潜水眼鏡(両眼式)が使用される。1886年    日本で最初のサルベージ業(外国人による)が行われる。1886年    ヘルメット潜水の潜水服、潜水ホース、送気ポンプが国産化する。1884年    増田万吉、房州小湊で漁業者を対象にヘルメット潜水講習会を開催。1883年    アラフラ海へ日本人ダイバーが短期契約移民として移住する。1883年    ハコメガネ(覗水器)が考案された。1882年    数百台ものヘルメット潜水器が輸入され、1880年    沖縄及び各地で素潜り用眼鏡が使用されるようになる。水中メガネ、マスクについては、日本全国各地、海女漁の行われる地域でそれぞれ、工夫製作されているので、初出の正確な年月はわからない。1878年    千葉県白浜にシーベゴーマンの送気ポンプ輸入される。1877年    増田万吉、房州でヘルメットでアワビ操業行う。1875年    増田万吉、浦賀でヘルメットのよるアワビの試験操業行う。1873年    松本島吉(横浜)「メリケン号」(横浜沖)をサルベージする。1872年    増田万吉、横浜で潜水業を開始。1872年    海軍工作局でヘルメット潜水器の国産化が始まる。1870年    ヘルメット潜水器が輸入される。1867年    増田万吉ヘルメット潜水器により「ハラシイ号」の船底修理を行う。1866年    横浜港で英国艦のヘルメット潜水器による船底修理が行われる。1863年    五稜郭工事で潜水ヘルメットが使用される。1859年    潜水ヘルメット、ドレスが輸入される。1790年    オランダから泳気釣鐘が輸入され、飽の浦撃船所築造に使用する。1001年   枕草子に海女に関する記載がある。750年    万葉集に海女に関する歌が記載されている。紀元200年 魏志倭人伝に海士が記載されている。紀元前3000  千葉周辺でアワビが採取されていた。 参考:     我が国における潜水技術の発展   JAMSTEC 山田 稔                                     以   上

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