ダイビングの歴史を企画した2017年 共著でやろうと声をかけていた、山田稔さん(ジャムステック)が、たたき台の年表を作ってくれた。いろいろ錯綜し、たたき台をたたかないうちに、山田さんは世を去ってしまった。 手をつけている、書き続けているダイビングの歴史では、年表もかなり変更しているが、この年表、これはこれでまとまっているので、ブログに上げておきたい。山田さん、独特の視点もあるので、おもしろい。
年表にすると、それぞれの出来事の相関が見えてくる。山田さんの年表は、現在からさかのぼって行く。僕は最初が紀元前でそこから下って行く年表をつくっているのだが、こうしてみると、山田年表の方が良いような気もしている。
2017年2月27日
日本の潜水技術年表
編纂 日本水中科学協会 年表部会
日本には、潜水に関して輝く歴史・文化がある。これら歴史に目を通すことで、先人達へのさらなる敬意、これからの潜水の未来が見えてくる。この年表は日本の潜水の発展を網羅したもので、現在から過去へさかのぼるように記載されているので当事者として歴史を実感していただきたい。潜水を長く経験された方から最近始められた方までがこの内容を確認することで、潜水に対する共通認識、新たな興味・好奇心が生まれると考えています。
2015年 スキンダイビングセーフティ出版される。須賀次郎
2014年 ニッポン潜水グラフィティ出版。
2014年 海上自衛隊・潜水医学実験隊の訓練水槽で2名の潜水死亡事故発生。
2014年 素潜り記録は男子篠宮龍三の水深115m、女子岡本美鈴の水深90m
2013年 海上自衛隊・潜水医学実験隊は田浦へ移転した。
2012年 最新用語辞典の編纂 須賀次郎
2010年 最新ダイビング用語辞典の編纂
2010年 特定非営利活動法人日本水中科学協会JAUSを設立。
2008年 海上自衛隊・潜水艦救難艦「ちはや」の潜水員は450m潜水に成功。
2006年 アアク・ファイブ・テレビから中川隆が独立 河童隊設立
2005年 多数の魚類図鑑を制作した益田一氏亡くなる。 伊豆海洋公園を企画
した。
2003年 高等学校学習指導要綱の科目「ダイビング」が設けられた。
2002年 奄美大島沖の不審船捜索(水深95~100m)に飽和潜水作業。
2002年 シチズンは飽和潜水に対応した1000mダイバーズを発売。
2000年 海上自衛隊潜水艦救難艦「ちはや」「ふしみ」に深海潜水装置搭載。
1999年 NASDASアメリカでSSIと合併
1998年 海上自衛隊で女性二人(小原一葉、佐川京)の飽和潜水ダイバーが
誕生した。
1998年 海中開発技術協会が社団法人レジャースポーツダイビング産業協会に
名称を変更。
1998年 造礁サンゴで白化現象が起こる。 映画「タイタニック」が上映される。
1997年 海上自衛隊・潜水医学実験隊は400m、40日間の潜水を達成した。
1996年 ジャック・マイヨールから続く素潜りで深く潜ることが競技になり、世界的
な組織ができ、垂直、水平、息こらえの種目で、現在の日本記録は、男
子篠宮龍三の115m、岡本美鈴の90mである。
1996年 東京港水中生物研究会が発足。東邦大学風呂田教授
1996年 須賀次郎60歳を記念しての100m混合ガス潜水を行う。
1995年 セミクローズ・リブリーザー、フィーノが発売された。アメリカ、そして日本、時代が早かった。
1994年 パラオ諸島で日本人ダイバー5名が行方不明となる。
1994年 スリーアイ潜水団体発足 潜水指導と潜水活動を共に平行して行う。
1994年 1976年のロレックス後援による海洋博スポーツダイビング競技会より移管し、全日本スポーツダイビング室内選手権大会として東京都辰巳
1993年 JAMSTECで初の窒素酸素飽和潜水実験(水深20m)を行う。
1993年 JIS規格に潜水用携帯時計が規格化された。
1992年 海上自衛隊は飽和潜水450mを達成した。
1992年 愛知県松山沖でタイラギ漁のヘルメットダイバーがサメに襲われ、行方不明となる。
1991年 JAMSTECは組織替えで潜水技術部は無くなる。
1991年 アイ・エス・シー設立。 日本体育協会の指導員であることを条件とした団体
1991年 水産高校、海洋高校での潜水教育のための指導員(教員)の養成・研修
1990年 ニューシートピア計画300m実海域実験成功、これをもってJAMSTECの研究主体は潜水船、無人探査機の実験と運用に移り、深海潜水については海上自衛隊潜水医学実験隊が潜水艦救難を目的とした飽和潜水の開発に移行する。
1989年 海上自衛隊は潜水医官課程を新設
1989年 NAUIジャパンは㈱NAUIエンタープライズに組織替えする。
1988年 日本酸素は簡易半閉鎖式潜水器「オーバ」を販売する。
1988年 JAMSTECは水深300mの飽和潜水実験を行う。
1988年 マイヨールをモデルにした映画「グレート・ブルー」公開された。
1987年 世界水中連盟は名古屋港の「ふじ丸」で総会を開催。
1987年 第1回ダイビングフェスティバル開催
1987年 熊本大学体育会ダイビング部を創設
1987年 BSAC Japan
1986年 海上自衛隊は飽和潜水課程を新設
1986年 ダックスセントラルダイビング協会が発足
1986年 テレ朝・ニュースステーション須賀潮美さんの水中レポートが人気になる。
1984年 日本職業潜水教師協会が設立された。
1984年 日本光学は水中カメラ「ニコノスーⅤ」を販売する。
1983年 東海汽船主催のフリッパーレース「マリンピック」開催
1982年 フランスの潜水マニュアルが「潜水学」として出版される。
1982年 カナダ・オルカ社製減圧コンピューター「エッジ」の発売
1982年 シチズンは耐圧1300mのダイバーズウオッチを開発する。
1982年 日本潜水会は全日本潜水連盟関東支部となる。
1982年 住友海洋開発は鳥取沖「第五白竜DDS-1」で296m作業行う。
1982年 熊本県大矢野町沖で子どもがサメの襲われ死亡した。
1982年 PADY JAPAN設立。 これまではPADY潜水指導協会が実施。
1982年 世界開発技術センターはROVで「ナヒモフ」「テンオー」などの沈船調査を行う。
1982年 ベーリング海での漁船遭難で「インマージョンスーツ」が検討される。
1981年 横浜・山下公園で海底ゴミの清掃始まる。
1981年 伊豆・雲見で潜水タンクの爆発事故発生。
1981年 東京女子体育大学アクアダイビング部設立
1981年 JAMSTECの300m潜水システムが完成する。
1981年 本四架橋工事7A(50m)でヘリウム潜水による施工確認行う。
1981年 真鶴半島潜水禁止が解除される。(後藤道夫対策委員長)
1980年 真鶴半島で潜水禁止となる。
1980年 釜石港湾防波堤工事(水深70m)でシステム潜水調査工事を実施。
1980年 国際ダイビングスクール協会(ADS)が発足
1980年 日本海洋開発は対馬沖ナヒモフ号のインゴット引揚作業97mに飽和潜水方式で実施。
1980年 住友海洋開発は宮古島沖「第五白竜DDS-1」で287m作業行う。
1980年 月刊「ダイバー」創刊
1979年 日本サルベージはイランの海抜1670mのダムで400回潜水作業行う。 高所潜水での減圧表が注目された。
1979年 本四架橋工事で「シートピア」が水中検査工事に使われる。
1978年 ダイバーズウオッチのクオーツ化が進み、自動巻きは生産を中止する。
1978年 海上自衛隊は初の飽和潜水(60m相当圧)実験を行う。
1978年 スクーバプロ社はスタビジャケット発売、BC普及の契機となる。
1978年 須賀次郎「潜水と水中撮影入門」が発刊される。
1978年 JAMSTECは「シードラゴン計画」で300m相当のシミュレーションに成功する。
1978年 深田サルベージは志布志湾75mでSDCにより油抜き作業行う。
1977年 海上自衛隊・潜水医学実験隊は久里浜で発足1977年 日本海洋産業は襟裳沖で204mのダイバー作業行う。
1977年 日本海洋産業は274m相当圧の潜水実験行う。
1977年 日本海洋産業は舞鶴沖140mの墜落ヘリを回収する。体長6mのオオダコに襲われる。
1977年 深田サルベージは北海道留萌沖「泰東丸」水深62mで潜水作業。
1977年 ダイビングシステム搭載のジャッキアップリグが徳島沖で座礁する。
1976年 須賀次郎「スポーツダイビング入門」出版
1976年 日本初水中テレビ番組「マチャアキ海を行く」がスタート。
1976年 三津浜の海底ハウスで2名の空気栓塞症が発生。
1976年 我が国初の潜水技術シンポが開催される。
1975年 シートピア計画で100mの海底の9回のPTC潜水を行う。
1975年 雑誌「ダイビングワールド」創刊
1975年 江ノ浦港をスクーバで港内クリーンアップ
1975年 日本光学は水中カメラ「ニコノスーⅢ」発売
1975年 沖縄返還を記念して、本部半島で沖縄海洋博が開催された。 スポーツダイビングフェスティバル(競技会と写真展)開催。
1975年 セイコーは耐圧500mのダイバーズウオッチを商品化。
1975年 アジア海洋作業は阿賀沖81mでパイプラインの作業行う。
1974年 日本海洋産業は中国へADSシステム2基を輸出する。
1974年 芙蓉海洋開発は潜水球「うずしお」で2名の死亡事故を起こす。
1974年 日本海洋産業が常磐沖「第三白竜」で155mのダイバー作業を行う。
1974年 潜水士が国家試験制度となり、女性の受験も認められた。
1974年 船の科学館が開館された。 2011年無期限閉館となる。
1974年 ドウ・スポーツプラザが新宿住友ビルにダイビング専用プールオープン。水深10m
1974年 JAMSTECは混合ガス潜水技術コースを開設。
1974年 明治大学スキンダイビングクラブ設立
1974年 ダイブウエイズ設立
1973年 有明海のタイラギ漁で船上減圧が盛んになる。
1973年 海上保安庁に潜水員グループの設置決まる。
1973年 JAMSTECに500m用潜水シミュレーターが完成する。
1973年 三井海洋開発はGE社の閉鎖式スクーバを販売する。
1973年 社団法人日本潜水協会発足 主として港湾土木
1973年 シートピア海中居住実験、60mの海底で4人が3日間生活した。
1972年 三井海洋開発はスラスター付きダイビングベル「タドポール」を完成。
1972年 海上自衛隊第一術科学校に潜水艦脱出装置付訓練水槽が完成。
1972年 沖縄 オニヒトデ大発生 駆除作業の開始
1972年 須賀次郎「水中写真の撮影」出版
1972年 全日本潜水連盟創立 日本潜水会、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟、PADI潜水指導協会が連携して結成。
1972年 静岡県レジャーダイバーの潜水全面禁止
1972年 PADI潜水指導協会発足 椎名勝美のスポーツマンギャラリー
1972年 シートピア計画で30mの海底に4人が3日間生活した。
1971年 日本海洋産業、初めての石油試掘支援潜水行う。
1971年 芙蓉海洋開発は我が国初の水中カラ―テレビの撮影に成功する。
1971年 シートピア計画、海中作業基地、支援ブイ完成する。
1971年 科学技術庁と経団連は海洋科学技術センターJAMSTECを設立。
1971年 田中和栄氏の個人的海底居住実験「歩み号一世」三津浜に移設。
1971年 社団法人 水中技術振興協会は学識経験者も加わった講習会を発足させ、全国統一組織への途上にあるように見えたが、八丈島で行ったブルーオリンピックの最中の事故のため、撤退。
1970年 深田サルベージは岩国沖43mの「陸奥」を引き揚げる。
1970年 厚生省は第一次の海中公園を指定する。
1970年 シートピア計画で100m相当圧の飽和潜水実験行う。
1970年 シートピア計画のPTC/DDC完成する。
1970年 独立気泡スポンジのドライスーツ 完成?
1970年 日本のNAUI 本格的に指導員講習を発足。
1970年 慶応大学スキンダイビングクラブ設立
1970年 ジャック・マイヨール伊豆海洋公園で76mの素潜り記録達成。
1969年 JOC日本ディープダイビングスクール(猿渡肇氏が)創立。 勝鬨橋河畔に台船を浮かべて研修し、後に甑島に基地を移し、作業潜水への人材を供給したが、1972年に終了した。
1969年 雑誌「マリンダイビング」発刊 ダイビング専門誌はこれが日本初。
1969年 社団法人水中技術振興協会発足。スピアフィッシングの是非をめぐって三者提携 分裂。
1969年 日本海洋産業が設立する。
1969年 シートピア計画の基礎研究がスタートする。
1969年 我が国初の海中展望塔が和歌山県白浜に完成。
1969年 ロレックス杯水中スポーツ選手権大会 伊豆海洋公園にて
1969年 東京大学海洋調査探検部 創設
1969年 スガマリンメカニック設立
1968年 三井海洋開発が設立する。
1968年 海中開発技術協会は東京医科歯科大学で25m相当圧の飽和潜水実験を行う。
1968年 関東学生潜水連盟(法政、独協、東京水産、東京商船、中央) 創立
1968年 中央大学海洋研究部創設
1968年 リブリーザー・エレクトロラングが作られる。純酸素ではなく混合ガス。
1968年 雑誌「ブルーゾーン」発刊 編集発行人 野尻純康 3号で消え去る。
1968年 田中和栄氏の個人的海底居住実験「歩号一世」行う。1967年 芝浦工大アクアラング部創設
1967年 学習院大学ダイビング部設立
1967年 (財)海中公園センター発足 2002年解散するまで63区の海中公園。
1967年 日本潜水会創立 スピアフィッシングの禁止を可決。
1967年 早稲田大学水中クラブ
1965年 日本大学スキン&スキューバダイビング設立
1966年 全日本水中スポーツ連盟(全日本潜水連盟ではない)八丈島でスピアフィッシングコンテスト
1966年 「アクアラング潜水」出版 須賀
1966年 セイコーは耐圧300mダイバーズウオッチを発売する。
1966年 PADIアメリカ・シカゴで発足
1966年 全日空羽田沖に墜落 須賀・館石は現場写真を撮影。NHKも報道。
1966年 シートピア海底居住実験のための受け皿として、日本潜水科学協会は 社団法人海中開発技術協会となる。1965年 映画「007サンダーボール作戦」でスクーバの普及が加速された。
1965年 国産初のダイバーズウオッチ、セイコー耐圧150mが発売された。
1965年 加山雄三「海の若大将」水中撮影のため、35mmフィルムカメラのため、須賀は、島野製作所と協力して作る。
1965年 水中射撃連盟、神津島でスピアフィッシングコンテストを行う。
1965年 世界水中連盟のブルーオリンピックに出場、団長は大崎映晋氏
選手は鶴耀一郎、松岡俊輔、西堀富士夫で、鶴選手は6位に入賞して注目を浴びた。
1965年 出版 日本潜水科学協会の「どるふぃん」終刊 水中写真特集
1965年 クレッシイサブはオキシラングを販売、死亡事故が発生する。
1964年 法政アクアクラブ創設 獨協大学体育会ダイビング部創設
1963年 須賀次郎 館山で100m潜水実施
1963年 日本光学は水中カメラ「ニコノス」を発売
1963年 水中溶接が実用化する。
1962年 読売ランドは水中バレーシアター竜宮城ができる。
1962年 潜水士の試験、第一回目が小田原で開催される。
1962年 スイス人ハンネス・ケラーは、SDC(エレベーター)で降下して水深300mに泳ぎ出る。記録は樹立したが、2名の事故死者を出す。
1962年 真鶴で漁民とのトラブルが表面化
1961年 日本アクアラング㈱ 設立 USダイバーズ社と同系列
1961年 関西潜水連盟が発足
1961年 労働省高気圧障害防止規則が施行される。
1960年 NAUIアメリカで発足、
1960年 ウエットスーツ完成 伊豆大島の海士が使用、国内初となる。
1959年 ナショナル護謨㈱がクロロプレンを主材料にしてウエットスーツ生地
1958年 東海サルベージは潜水装置「白鯨」を完成する。
1958年 東京水産大学ダイビングクラブ設立
1958年 ダイビングショップ太平潜水が水道橋に開店。店主は池田和一郎氏
1958年 日本潜水科学協会が日本橋三越屋上でアクアラング実技公開
1958年 後藤道夫 真鶴にダイビングセンターを作る。
1957年 NHKフィルムハウジング製作
1957年 江東楽天地プールで日本ダイビング協会第一回講習会。
1957年 テレビ番組「シーハント」 ロイド・ブリッジェス主演 61年まで続く。
1957年 日本潜水科学協会設立される。
1956年 潜水研究所は雑誌「潜水技術」を発行する。
1956年 映画「沈黙の世界」日本で公開される。
1955年 クストーが主催で、世界水中連盟ができた。スキンダイビングによるスピアフィッシング大会が行われ、ブルーオリンピックと名乗った。
1955年 雑誌「海の世界」創刊 海事広報協会、海のすべてを扱う雑誌で、当初はダイビングの占める紙面は少なかったが1970年ごろから次第にダイビング記事が拡大した。
1954年 米国のロサンゼルス・カウンティのブルーカード(C-カードの第一号か?)を発行した。
1954年 映画「青い大陸」が公開された。使用している潜水機の主体は純酸素リブリザーである。
1954年 南伊豆の漁港に2室型再圧治療タンクが設置される。
1954年 東水大佐々木忠義教授 水中テレビによる海中調査行う。
1954年 東京水産大学の潜水実習で2名の死亡事故が発生する。日本でのアクアラング事故のはじまりである。
1954年 海上自衛隊に水中処分隊が発足する。
1954年 「洞爺丸」遭難で全国から延べ400名のダイバーが参加した。
1954年 洞爺丸海難事故に際して、当時、東亜潜水機に勤務していた菅原久一氏がスクーバで捜索に参加、菅原氏が試作したリブリザーブを持参したと言われているが、これを使用したという写真がない。アクアラングを使用した。
1954年 我が国に駐留していた米海軍のUDTがアクアラングを持ち込む。
1953年 ロバート・ディーツ博士が東京水産大学小湊実習場において、アクアラングを海洋研究に使用するための運用を紹介した。新聞の記録が残っている。5月25日付朝日新聞 6月10日読売新聞は鯛の浦潜水を掲載。1951年 北海道大学井上直一、潜水球「くろしお」で206m潜水する。
1950年 マスク式潜水器が漁民に広がりをみせる。
1952年 種市高校海洋開発科 日本で唯一ヘルメット式潜水機の訓練を含めた潜水士の養成を行っている。1952年に久慈高校種市分校に「潜水科」として創設された。
1952年 過酸化水素によって酸素を発生させる潜水機、ニッセン式神田のYMCAプールで実験された。 実用には至らなかった。
1951年 米国でダイビング雑誌「スキンダイバー」が発行される。
1950年 大同物産渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB)が掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと考えられるが未確認。
1945年 幸いにして終戦を迎えたために、伏竜は出撃せずに解散したが、マッキン・タラワなどの波打ち際で大きな犠牲を出した米軍は、波打ち際の障害物を爆破したりするUDTを創設 ダイビング兵士であった。戦後、退役後、スクーバ潜水の教師になるものも少なくなかったという。 1945年 運輸省 三浦市諸磯に潜水員養成所を開設する。
1945年 水中切断技術が実用化する。
1945年 千葉労働病院に再圧治療タンク設置される。
1944年 スクリップス海洋研究所での最初の潜水調査は、中国からの生物学者 Ck.Tsengが日本のヘルメット潜水で海藻を調査したことである。
1943年 日本海軍の清水登らは、小型ヘルメット式潜水器をベースにして、リブリザーを開発し、本土に上陸してくる米軍を水中から迎え撃つ伏竜特攻隊が編成された。
1939年 釧路沖でヘルメット潜水による岩盤調査行われる。
1939年 マスク式潜水機で水深95mに潜水する。
1937年 アラフラ海で日本人ダイバー約3000人に達する。
1934年 山口市十郎 三菱造船所で潜水ロボット「開洋」を建造する。
1934年 日本サルベージ設立する。
1933年 三浦定之助、水深45mの水中撮影に成功。
1933年 浅利式マスク潜水器が開発される。
1933年 鈴木章之、「ナヒモフ号」の引揚げで、97~107mの減圧表を作成。
1932年 「西村式豆潜水艇2号」が完成する。
1931年 倉敷労働科学研究所、国際産業医学会で海女の研究を発表。
1931年 アラフラ海で「裸式潜水法」が始められた。
1930年 三浦定之助、定置網調査に潜水器による調査を取り入れる。
1929年 陸軍科学研究所、水中写真機を開発す。
1929年 「西村式豆潜水艇1号」が完成する。
1926年 片岡弓八は、大串式マスクを使用して、地中海ナイル河河口沖水深80m(正確にはわからない。)の八坂丸から金塊を引き上げた。
1925年 片岡弓八、地中海70mから「八坂丸」の金塊を引き揚げる。沈んだから10年後の快挙に欧米にショック。
1924年 永代橋工事で続出した減圧症患者の治療が行われた。
1920年 帝国海軍が英国海軍の減圧表を採用した。
1918年 大串式は150キロ充填圧のタンクを背中に背負ったスクーバとして英国に国際特許を申請している。
1915年 山本虎多は、大串式の改良ともいえる山本式マスクを完成させる。後に定置網漁業などに多用されるのはこのタイプである。
1914年 有明海で朝鮮ダイバーによるタイラギ漁が行われる。
1913年 渡辺理一(水産講習所卒、長崎県大村湾で真珠養殖を営む)は、簡易な潜水器が必要と大串岩雄に相談、腰バルブ式のマスク式潜水器を作る。後に片岡弓八と相談してレバーを歯で咬むデマンドバルブ付の大串式マスクを開発する。
1910年 深田サルベージの前身である深田海事工作所が発足した。
1906年 日露戦争のため、旅順港で軍の潜水活動が行われる。
1893年 我が国初のサルベージ業(三菱造船海難救助部)が発足する。
1891年 外国人の指導によりサルベージ作業を行う。
1890年 潜水眼鏡が全国に普及する。
1887年 房州大原沖でヘルメット200台によるアワビ漁始まる。
アワビの乱獲が表面化する。1886年 沖縄糸満で潜水眼鏡(両眼式)が使用される。
1886年 日本で最初のサルベージ業(外国人による)が行われる。
1886年 ヘルメット潜水の潜水服、潜水ホース、送気ポンプが国産化する。
1884年 増田万吉、房州小湊で漁業者を対象にヘルメット潜水講習会を開催。
1883年 アラフラ海へ日本人ダイバーが短期契約移民として移住する。
1883年 ハコメガネ(覗水器)が考案された。
1882年 数百台ものヘルメット潜水器が輸入され、1880年 沖縄及び各地で素潜り用眼鏡が使用されるようになる。水中メガネ、マスクについては、日本全国各地、海女漁の行われる地域でそれぞれ、工夫製作されているので、初出の正確な年月はわからない。
1878年 千葉県白浜にシーベゴーマンの送気ポンプ輸入される。
1877年 増田万吉、房州でヘルメットでアワビ操業行う。
1875年 増田万吉、浦賀でヘルメットのよるアワビの試験操業行う。
1873年 松本島吉(横浜)「メリケン号」(横浜沖)をサルベージする。
1872年 増田万吉、横浜で潜水業を開始。
1872年 海軍工作局でヘルメット潜水器の国産化が始まる。
1870年 ヘルメット潜水器が輸入される。
1867年 増田万吉ヘルメット潜水器により「ハラシイ号」の船底修理を行う。
1866年 横浜港で英国艦のヘルメット潜水器による船底修理が行われる。
1863年 五稜郭工事で潜水ヘルメットが使用される。
1859年 潜水ヘルメット、ドレスが輸入される。
1790年 オランダから泳気釣鐘が輸入され、飽の浦撃船所築造に使用する。
1001年 枕草子に海女に関する記載がある。
750年 万葉集に海女に関する歌が記載されている。
紀元200年 魏志倭人伝に海士が記載されている。
紀元前3000 千葉周辺でアワビが採取されていた。
参考: 我が国における潜水技術の発展 JAMSTEC 山田 稔 以 上