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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1023 下書き6 1958 サザエの棘

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 1958年・昭和33年 サザエの棘


昭和33年(1958)4年次になり、宇野先生の下で卒業論文のテーマでサザエの棘の研究を選び、夏には、伊豆大島の波浮港の近くで、材料のサザエを採集した。
 サザエには刺のあるサザエと刺のないサザエがある。波の静かな内湾のサザエは刺がない。荒い波の打ち寄せる外海のサザエは刺がある。
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 サザエの殻をルーペで見ると、ちりめん皺のような線がある。これが、日周の成長線で、この線の間隔だけづつ、一日に成長する。成長線を365本数えて印をつける。これが一年間にサザエが成長した分だ。植物の年輪に相当する。
 内湾と外海が連続してあるところで、サザエが数多く棲息している場所があれば、刺が出来る棲息場所と、刺が出てこないところが接しているはずで、潜水して詳しく調べれば、境界線を引くことができるだろう。そして、その両方の環境を調べれば、サザエの刺の出来方と環境の相関関係を調べることが出来るだろう。  
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波浮の港

 伊豆大島の波浮の港は、巾着港と呼ばれる。巾着の口の部分で外海と繋がっている小さな内湾だ。もともとは噴火口であり、噴火口のカルデラに水が溜まった小さな内湾であり波の影響を受けない。そして、外は波が打ち寄せる荒磯だ。港の中にも、巾着の首の部分にも、そして外海にもサザエが居ることがわかった。外海のサザエは立派なとげがあり、内湾のサザエにはとげが無いこともわかった。巾着の首の部分に境界線があるにちがいない。
 メナードと言う人が書いた、水中地質調査の論文がある。この論文の研究方法のところに、ライン調査の方法が書いてあった。これを訳して、検討し採用した。現在では、ライン調査(ライントランセクト)は水中環境調査、水中生物調査の定番的な手法になっている
 
波浮の港の内から外海に向かって目盛のついた長い測量用の巻尺をラインとして伸ばす。このラインの両側を1m巾で、つまり2mの巾の間のサザエを大小を問わずすべて採集する。サザエを採ったならば、水中その場でラインの目盛を確認して、殻の内側に鉛筆で目盛の数値を記す。ラインの始点と終点は、陸上の目標を六分儀で測定して位置をだしてあるから、採集したサザエの一個一個について、採集場所を海図の上に記録できる。
 
 今でこそ、日本全国どこに行っても空気を充填したタンクを貸してくれるところがあり、中でも伊豆大島は人気のあるダイビングスポットだから、空気には不自由しない。しかし、昭和33年の夏だから、伊豆大島はおろか、日本の地方ではどこにもタンクを充填するところはない。この年に後藤道夫が真鶴にダイビングセンターを作ったのが、日本初である。小さな高圧コンプレッサーを持参するか、それとも充填済みのタンクをたくさん持って行くしか方法はない。私たちは、大ボンベに空気を充填して運び、背中に背負うタンクに高圧空気を移して使うことにした。持参した大ボンベ、8立法メートルの容積のものを3本、これでは少ないとわかっていた。出来るだけ空気を節約しなければならない。
 波浮の港とトウシキの浜を調査地点とした。
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 宿泊費がかからないように、水産試験場の網置き場に寝泊まりさせてもらった。試験場から、リヤカーにタンクと潜水道具、採集道具を積んで出発する。港を後ろに見て坂を登って行く。道の側には松の木の大木があり、松の木の間から海が見下ろせる。坂を登り切って、坂をくだりかけて、海の側に折れる小道を下って行く。下り終わると、溶岩のゴツゴツの磯が広く広がっている。この磯に、試験場が魚を生かしておくプールを作った跡がある。溶岩が澪を三筋、三重につくっているのだが、その一番内側、大きなタイドプールになっているところをコンクリートで囲って、プールにしている。施設としては失敗だったのか、捨てられた状態で、海とつながっている人工のタイドプールになっている。プールへ通じる細いコンクリートの道がある。こわれかけているのだが、半分ぐらいまではリヤカーを曳くことができる。残りの半分はタンクもウエイトも全てをかついで歩かなければならない。試験場から人工タイドプールまでの道のりは、かなりの労苦である。
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 人工タイドプールの外壁は、磯に面して上部は平坦でタンクや道具を置くことができて便利である。
 荷物を降ろし、腰を降ろすとほっと一息つく。足もとの海は、巾5から8mほどの澪筋で、天然のプールである。この外側にもう一つ澪筋があり、人工プールも数えると三筋の、細い天然のプールになっている。人工プールは、潮が引くと干上がってしまう部分が多くなる浅さだが、外の二筋は3~7mの深さ、海藻も茂った水中庭園、外が荒れていても、嵐でも無い限り波が無い。
 フィンを履き、マスクを顔に着ける。スノーケルを使う習慣は未だ無い。重い器材の運搬で汗ばんだ身体を水に入れる。水の中を覗き込んだ。サンゴイソギンチャクがコンクリートの直下の岩に生えていて、オレンジ色の2本の太い横縞のあるハマクマノミが十数尾群れていた。水に入って、ほんの2m程先だ。
この場所、トウシキは卒業後に潜水の仕事をするようになってから仕事場の一つになった。講習もここで何回もやったし、そのころ一緒に仕事、潜水することが多かった舘石昭さんもここが気に入り映画の撮影スタジオになった。海が時化ていても、仕事ができるし、安全度が高い。後には、僕のテレビ撮影のスタジオにもなった。数年前、海豚倶楽部の遠足でここに行ったが、流れが変わったらしく、かなり流れていたし、海藻もなくなっていたが、昔は流れていなかった。
  宇野先生は、外側の澪筋で一つのくぼみから十数個のサザエを採集した。
  大ボンベに充填した空気が次第に少なくなって来た。水産試験場には、宇野先生と同年配でお仲間である倉田洋二先生が居て、その伝と情報でこの採集と私たちの卒業論文のテーマができたのであるが、その交換条件として、アクアラングを教えてあげることになっていた。倉田先生にアクアラングの手ほどきをしたら空気は、本当に残りわずかになった。倉田先生は、その後復帰した小笠原で水産センターの初代所長になられた。小笠原に行く度に目茶目茶にお世話になった。 倉田先生については、別に書く予定にしているが、長くご縁があり、その始まりだった。その時は、かなりのサザエを食べていただき、いろいろなこと、教えていただいた。ダイビングは、僕が教えた。ふりかえってみると、マスククリヤーだけだったか?、そんな時代であった。
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 3本の親ボンベの2本を消費して、先生は東京に戻ってしまった。それあらが、本格的な調査の始まりだ。タンクの空気は出来るだけ節約して、息を止めて潜る素潜りでほとんどの採集をして、どうしても素もぐりで潜れない深さだけにタンクを使うことにした。ラインを海底に引っ張り、最初は浅いところ、3メートルぐらいから始め、次第に深くへと進む。5m、8m、そして10mへ、とにかく潜る回数が多い。相棒の原田は、5メートルぐらいまでしか潜れない。8m以上では、彼は伝馬船をこぐ係り,私は潜る係りになった。身体は疲れ果て,次第に痩せてきてガリガリになり,目ばかりがギョロギョロするようになった。しかし、身体の動きは良くなった。やせ細っただけ水中での動作は機敏になった。潜水漁師の海士は、きっとこのようにして一人前になるのだろう。忍者は麻の実を地に蒔き、芽を出して,伸びる麻の苗を毎日飛び越す練習をする。最初は低い苗だが,次第に育ってくる。忍者が高く飛び上がれるのはこの訓練の成果だというのだが、私の方は、港の中から出口に向い,そして,港の外にラインが伸びるにしたがって水深が深くなる。忍者の訓練みたいなものだ。
 2022年の現在、最新水中撮影調査技法を書いているが、ライン調査がその芯になっていて、スキンダイビングによるライン調査の提案もするつもりだが、それが、1958年卒論フィールドワークの第一歩だった。
 どんなに疲れて戻ってきても,その夜のうちに,採集したサザエの処理をしなければならない。ほおって置くと腐ってしまう。一個一個重量を測ってから茹で上げて、身を抜いてしまう。必要なのは殻だけだが、抜いた身は捨てない。食べるのだが、ありとあらゆる食べ方をして見た。てんぷらもやったし、漬物も作って見た。なにしろ千個を越えるサザエだ。サザエには独特の匂いがある。その後20年間、サザエは食べたくなくなった。
 
 港の外のサザエには刺がある。トウシキの磯で獲ったサザエにはすべて刺があった。港の中のサザエには刺がない。波浮の港は巾着の口のように回廊になって外海とつながっている。回廊の部分に刺のないサザエがいるのだが、回廊の出口に近い地点にでは、刺のあるサザエも居るし、刺の無いサザエもいる。境界とおぼしきあたりのサザエは、刺が短い。このあたりを徹底的に調べることにした。ラインも縦横に何本も引いた。
 最初のうち、小さい頃には刺が生えていたが、途中から無くなってしまったサザエ、最初は生えていなかったのだが途中から生えてきたもの、そして、最初は生えていて、次ぎに刺が無くなり、また生えてきているサザエも見つかった。これなどは、刺の生える海域と、生えない海域を往復したやつだろう。刺の生えない海域は、サザエにとって棲み心地の悪い場所というわけではないらしい。刺の生える所で生まれて、ある程度まで育ち、刺の生えない海域で生育する個体も少なくないからだ。サザエは、餌になる海藻があれば、どこでも、棘ができようが、できなかろうが、頓着しないのだろうか。
 境界域は、水深が5m程度で潜りやすい。が、もっと深いところも調べなければいけない。外海に出ると、流れが速い。波浮の湾口は難所である。櫓で漕ぐ小船では危ない。ロープラインは引けない。スポット的に潜ることにした。もはや、親ボンベの圧力は下がってしまっている。スクーバのタンクに移しても、50キロぐらいにしかならない。水深は、20mを越える。原田はスクーバで潜り、私は素潜りで行くことにした。
 1950年代、深くも潜る時には、息を八分目ぐらいにしておいた方が良い、などと馬鹿なことを言われたりした時代である。息こらえの素潜りは、出来るだけ沢山の酸素を体の中に貯めこんで、これをできるだけ使わないように長持ちさせて、潜る時間を長くする。八分目で潜っても苦しいだけだ。教えられなくても、肺一杯に吸い込むようになっていた。深呼吸を何回も繰り返すと長く潜れる。深呼吸を繰り返して深く潜ると苦しくないのだ。水深5mの境界域で潜っていた時よりも長く潜れる。私が長く潜るので、原田は驚嘆していた。


 しかし、実はとても危険な状態にあったのだ。
 
 深く潜ると苦しくなくなる。圧力で肺の中の酸素濃度が高くなるからだ。そのまま、長くもぐって浮上すると減圧で、酸素濃度が減って、水面直下で失神する。シャローウォーターブラックアウトだ。こんな呼吸のメカニズムや、ハイパーベンチレーションのことを知ったのは、後のことだ。なにしろ、肺八分目などと言われていたのだから。たしかに肺八分目ならば、ブラックアウトするまで潜れないだろうが。
 何も知らなくても、事故を起こさなかったのは運が良かったからだろう。知識が無い状態では、海での人の生き死には運なのだが、そのころは、運では無く、実力だと思って得意になっていた。

  沢山の成果、サザエの殻を持って東京にもどった。
 さて次は殻につけられている日周成長線を数えなければならない。まず、殻についた付着生物や汚れを、苛性ソーダでブラッシングして、きれいに落とす。ルーペで拡大して細かい線をかぞえる。365本数えて、鉛筆でしるしを付ける。このしるし線のところが、一年前のサザエの姿だ。さらに365本数えると2年前の姿となる。大きいサザエでは、6年から7年ものだ。大体が、4年か5年だ。この作業を二千個以上やらなくてはならない。気が遠くなった。しかし、やらねばならない。
 100個ほど処理したところで、原田が悪魔のささやきをする。
 『須賀ちゃん、365本数えなくても,ぱっと見れば、一年分がわかるだろう。そこで鉛筆で線を引く,後から数えて誤差を見ると、プラスマイナス10ぐらいだ。この誤差は許容範囲だから、数えるのはやめにして,ぱっと見て線を引こうよ。』
 「そんなことをしたら科学ではなくなるよ。」
 『いや、統計学を駆使して考えたのだから科学だよ。』
 私たちが、すべてのサザエに日周成長線を正確にかぞえたか、それとも目分量で決めたか、話すわけには行かない。
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 採集したすべてのサザエの内側には、引いたラインの目盛、もよりの目盛の番号が鉛筆書きしてある。殻の内側の真珠色に光った部分には、鉛筆書きが簡単に出来て、消えない。地図の上にラインの位置を書き込んで、書きこんだサザエの鉛筆書きの位置を書きこむ。これで、一個一個のサザエの棲んでいたところ番地が判明する。
 採集直後に測定した肉も含めた重量、殻だけの重量、成長率、刺の出かた、それぞれの相関関係を検定し、さらに位置関係との相関を調べる。コンピュータがないのはもちろんだが、電卓さえも無い時代だ。タイガー計算機と言う歯車で数値を計算する器械で計算する。右へまわすと掛け算、左へハンドルを回すと割り算ができる。カチャかチャうるさい器械だ。後に電卓が出来たときは,涙が出るくらいうれしかった。今のパーソナルコンピュータなどは、夢のまた夢だ。現在使っているコンピュータならば、数分で出来る計算に3ヶ月はかかっている。
 気の遠くなるような時間だった。


 書いた論文は、徹底的に直された。サザエの刺が、その磯の環境、内湾度の指標になると私は考えたのだが、それは推論に過ぎないと削られた。事実だけを述べなければならない。予測に類することは、本文中に書いてはいけない。考察も、事実から考えられることだけにさせられた。表現も出来る限り簡潔に、出来れば箇条書きにする。イメージは、スチル写真とグラフで表現する。
 このとき教えられたことが、以後の調査レポートについての考え方の基本になっている。
 ようやく書き上げた論文は、先生も誉めてくれて、春の水産学会で発表するようにすすめてくれた。写真をスライドにして視覚的に発表しようと考えた。グラフを書きなおし、水中写真も整理してスライドを作った。初めてのことだし、失敗も多く、学校の暗室を占拠した。
 論文発表の準備が終わると、三月も終わりに近く、就職のチャンスは失われていた。気にしていないことは無く、公務員試験も受けては見たのだが、卒業論文と平行だったから、今一息?で落ちた。公務員試験に受かったところで就職があるわけではないと、自分で自分を慰めた。
 街はなべ底景気、『大学は出たけれど』という映画が上映されていた。フランキー堺の主演で、大学を出た主人公が行商人になる筋書きだった。


 ※後日、その苦労した論文、大事にしていたのだが、転居とか、仕事に忙しく、見ないでいるうちに紛失してしまう。今ならばコピーをいくつも残すのだが、手書きの時代である。悪筆の僕には書けず、バディの原田進が書いた。
 現在、伊豆大島、波浮やトウシキにサザエはいない。1990年代だったか、時の東京都水産試験場、大島分場の場帳であったの高橋晄之介先輩から昔サザエが居たという資料として、貴重だから送ってくれといわれ、探したのだがない。謝るのに恥ずかしかった。



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