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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1009 ダイビングの歴史 下書き3

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1957年 日本潜水科学協会の一般講習
 
 ※ 前回、1954年事故の追悼記念碑の話を、下書きの(2)として、今回を(3)にした。


 潜水科学協会の発足は、1957年の1月28日で、その3月14日~17日、その第一回スキュバダイビング基礎講習会が行われた。日本で最初の一般向けのスクーバ(スキュバと呼んでいた)ダイビングの講習会である。
 行われた場所は、江東楽天地温泉プール、錦糸町の江東楽天地の何階だったか、とにかく、ビルの上の階にあったプールで、ある。
 講師は菅原久一(潜水研究所)、猪野峻(東海区水研)、梨本一郎(東京医科歯科大学)宇野寛(都合により不参加)助手は、吉牟田長生(東海区)三次信輔(東海区)後藤道夫、小山武夫、矢野和彦、であった。
 菅原久一さん、猪野峻先生、梨本一郎先生が、科学協会発足時のスクーバ、理論と技術の先達、指導者であった。それに、東京水産大学の宇野寛(僕の恩師)神田献二がを加えれば、潜水科学協会と東京水産大学、つまり、1957年の日本のスクーバ界のすべてであった。


 ここで後藤道夫が助手で出て来た。後藤道夫は、後に僕の無二の親友になるが、2014年に亡くなるまで、1967年の日本潜水会の結成から2010年の日本水中科学協会に至るまで、一緒にダイビングの事をやってきた。彼は一種の天才で、高校もたしか中退して、菅原久一さんのところに無給押しかけ社員になっていた。
 僕と最初に出会ったのは、僕が大学一年の時だから、1955年、秋だった。葉山の磯に、磯採集がてら遊びに行った時、磯根のかなり沖のあたりで、タンクを着けて潜水の準備をしていた。一緒に潜るのは弟の後藤勇毅君、後にユーゴ(真鶴のウエットスーツ専門店)と佐藤光三さんで、佐藤さんも後にこれもウエットスーツ屋のサンコーを作る。佐藤さんは潜水せず、岩の上で上回りをしていた。水に入る直前だったので、後藤さんとは言葉も交わさなかった。佐藤さんは、「命がけで潜るところだ」と言っていた。まだ、講習というものは、この江東楽天地が最初だから、それぞれ、手探りでの自習であり、気持ちとしては、命がけだったろう。
 東海区水産研究所は、猪野先生が居られたところで、その指導で、研究員の自習的講習を何回かおこなってきたのだろう。やはり、助手で参加している。
 受講者は、全員の名前は挙げないが、19名で、後に自分とかかわりの出来る人の名前を挙げると、
 竹内庸、当時は日大の学生で、後にNHKのカメラマンになり、1967年に日本潜水会を僕、後藤道夫らと一緒につくる。
 高橋昇、浅草の花川戸に居て、テキヤの高橋組親分の息子であるが、組を継がず、スイチューというマスクのメーカーになる。
 組にとっては、不肖の息子だった。奥さんが待合の女将で美人だった。
 井上正昭、神奈川県水産試験所の技師で、1958年の魚礁調査でお世話になる。
 佐藤賢俊、旭潜研の社長で協会の中心である。
 背の立つプールだから、潜らなかった。浅くて潜れなかった講習である。機材の体験講習に近いものだった。
 ボンベは、川崎航空機が2セット、潜水研究所(菅原久一)が4セット、東亜精機(東亜潜水ではない)が2セット、東海区水研が3セット、多分、これが東京にあり協会が使えるすべてだったのだろう。
 この講習については、どるふぃん1-2 1957may を資料とした。
 資料にしているどるふぃん1-2には、
 アメリカのスクリップス海洋研究所 Scripps Insutitution of OceannographyのSUUBA訓練課程 プログラムが掲載されている。これが、協会の講習の、そして水産大学の僕らがこの1957年夏に受けた講習の、そして、その後、ダイビング講習が、ビジネスになるまでの日本のダイビング講習の骨子になったと思う。
 
 1.12か月以内における身体検査合格の証明
 2.下記各項の実施 プールの部
  ①75フィート(23m)、フィンを用いずに水面下遊泳(プール)
  ②125フィート 4回以下の浮上呼吸で水面下遊泳
  ③1000フィート遊泳(プール)
  ④マスクあり、又はマスクなしで、スノーケルとフィンによる遊泳(プール)
  ⑤10フィート(3m)の水底より、10ポンド(4,5キロ)のウエイトを揚収
  ⑥フィンを使って、75フィート、10ポンドのウエイト運搬
  ⑦3m潜水して、潜水者の救助
  ⑧75フィートの溺水者曳航
  ⑨もがいている泳者救助
  ⑩人工呼吸
  ⑪フィンなしで、波が砕けている海岸への突入、離脱
  ⑫フィンなしで、波のある海で1000フィート遊泳
  ⑬18フィート:5m潜水 
  以上はスSCUBAなしで


  SCUBAを装着して
  プールで
  ①SCUBAを曳航して遊泳
  ②4~5フィート方向を定めて潜水 ヘッドファーストのこと?
  ③スクーバを用いてマスクなし潜水
  ④スクーバで水面下遊泳中のマスクの水排除
  ⑤呼吸管 ダブルホースなので蛇腹管のクリアー
   圧力差によるクリア ※マウスピースを口から外して、上に持ち上げると空気が出るので、水を排出できる。
   排気管を通して呼気によって排出※体を横に回転させながら強く吐き出す。
  ⑥水底でスクーバを脱いで浮上 エンボリズムに注意 水底に戻って、スクーバを着ける。 水中脱着
  ⑦入水方法 足から先 頭を先 背面より(バックエントリー)船からふっとファースト
  ⑧浮上用具の点検 使用 ※潜降索のことか
  ⑨マウスピースを第二者(バディのこと)との交換
  ⑩用意されたスクーバを水面下で交換


 かなり、厳しい内容であり、おなじことを、僕らがやっても難しい、かなりの苦労が必要だったろう。
 しかし、1954年の講習が、これを模倣したものであったならば、死亡事故は起こらなかったろう。


 1954年に事故が起こり、1955年は休止、1956年、自分の一期上の代から、水産大学3年次の潜水実習は再開される。その詳しいプログラムを知らないが、講習生一人一人に命綱を付けていたと聴く。命綱は、嫌だ。魚のように自由に泳ぎたい、と僕は願った。


 潜水科学協会の講習に話をもどして、その第2回は、兵庫県明石で、1957年5月24日~26日で行われた。
 関西での受講者は、組織、会社からの受講者がほとんどで、海上自衛隊術科学校から2名、海上保安庁水路部から4名 三重水産試験場、兵庫県水産試験場、京都大学、慶応大学、神戸YMCA,神戸新聞、宮地サルベージ 川崎航空 が受講している。
 講師陣は猪野峻、菅原久一 梨本一郎であった。
 第3回は、東京水産大学プールで、7月6日~8日
 講師は神田献二(東京水産大学)菅原久一 梨本一郎、そして助手に一学年上の1956年に実習を受けた竹下徹先輩、久高喜八郎先輩が加わっている。
 受講者は11名だが、その中に2名学生が居て、立花慶太郎は、僕の小学校、中学校の同級生だった。立花君はその後、後藤道夫のお客になって真鶴に通うのだが、そのことを僕は知らない。それを知るのは、月日が過ぎ、立花君も年老いて、ダイビングをしなくなってからだった。知っていれば、一緒に潜ったり、おそらく、日本潜水会の中心メンバーになってもらえたのに。また、立花君は。日立造船の創立者の子息だったと聞く。日立造船は、初期のROVを作った会社でもある。その意味でも、別の展開があったかもしれない。と、悔やんだ。
 
 第4回が同じく東京水産大学のプールで、8月29日~31日に行われた。
講師は、神田献二(東京水産大学)菅原久一 梨本一郎、に加わって、宇野寛、服部仁(魚類学教室)、そして、助手に竹下徹、橋本康生(宇野教室で、先輩)さらに吉牟田長生、三次信輔の東海区水産研究所のチームが加わった。
 受講者は、男性9名に加えて女性が7名、初めて女性がスクーバ講習に参加した。
 男性は、三沢章二(東亜潜水機社長)大崎映晋(ダイビングの歴史 6 素潜り漁 海女の潜水の項で紹介)山田尚文(後に協会の支部を作り活動する)学生として、永持毅(慶応の学生で、後に、舘石昭の水中造形センターの第一号社員になる。僕の90m潜水にも参加、河田和光(水産大学の学生だが、潜水部には入らず、別の活動をしていた。親しくしていたが、その後、水産庁に入る秀才であった。その後のダイビングについての活洞状況は不明、調べたい。)
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 女性は、須沢淡路(どるふぃんに詩の寄稿をされている)乾康子(東大の造船工学教授夫人で、協会の役員になり翌、1958年の三越屋上でのアクアラング・実演にも参加する)伊東ヒデ子(協会の役員になる)宇野富美代(宇野先生の奥さん、画家である。)伊東栽子(スイミングスクールのコーチをされていて、協会の役員、タネコおばちゃんとして親しまれた)伊東淳子(タネコおばちゃんの娘、学習院の大学生で、翌、1958年の三越屋上でのアクアラング・実演に僕と一緒に出演する。その後、舘石昭のモデルもする)後に協会の活動を支える女性陣がここで生まれた。
 この第4回までの講習で、協会の活動の中心になる人がだいたい出そろった。
 第4回(8月29日~31日)の前になるが、7月29日ー31日 に、小湊実習場で、第一回の中級講習会が行われる。初級:プール、中級:海 で一応の講習修了という考え方だったのだろう。
 第一回中級の講師は、海老名謙一(東京水産大学 魚類学教授、スポーツマンであり、大学の一年次に館山で行われる水泳実習、主に遠泳とカッター漕ぎにも参加され、スクーバの実演を生徒の前でやって見せていた)宇野寛(東京水産大学講師)増田辰良(東京水産大学、宇野先生の後任の小湊実習場、場長でタフなスポーツマン、残念なことに早逝されてしまった。)服部仁(東京水産大学、魚類学講師、海老名教授の教室の後任である)菅原久一、吉牟田長生(東海区水研)三次信輔(東海区水研)


 中級の受講生は14名で、佐藤賢俊(旭潜水研究所)桜井祐(神奈川県水産指導所)岡茂雄(医師、岡先生は協会の役員)竹内庸(前述した日大学生、後にNHK)大野保彦(美津濃)本吉忠夫(川崎航空) 朝日ニュース 3名、水路部3名 河田和光(東京水産大学学生)他に、夷隅高校水産科の教員2名、大原漁協の職員1名が特別参加した。


 中級の プログラムは
 初日 7月28日 集合、移動、打ち合わせ 自己紹介
 二日目 7月29日 
  午前、100m、フィンマスクで泳ぐ、25m潜泳
     水中息こらえの時間測定
  午後 潜水台にて,スクーバ使用
     6mまで潜水、マスクなし潜水、マスクの着脱
 三日目 7月30日
10mまで潜水 
  バディブリージング
四日目 7月31日
  午前 水中脱着
     バディで自由潜水
  午後 座談 フリートーキング
  
  これを見ると、1957年の夏は、ほとんど連日スクーバの講習が行われていて、この年が日本の本当の意味でのスクーバダイビング元年といえる。
 そのスクーバダイビング元年に僕は、東京水産大学の潜水講習を受ける。



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