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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1003 1954年、潜水実習における事故 追悼記念碑

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 1954年、潜水実習における事故 追悼記念碑


 1954年の水産大学実習での事故は、僕のダイビングの原点であり、何度も書いている。その事故の追悼記念碑が、海洋大学品川キャンパスのマリンサイエンスミュージアムに展示されていて、9月27日、現役の潜水部の何人かといっしょにお詣り?に行った。そのことを潜水部顧問の荒川先生が、同窓会誌「楽水」の編集長をやっておられることから、投稿を依頼された。
字数が2500未満、このところ、ブログ、フェイスブックなど、字数に制限がなく、だらだら書いているので、苦労だった。しかし、その分、引き締まっている。
 ダイビングの歴史の冒頭も、こっちを使おう。


 ダイビングの歴史が、僕の病状でできなかったとしたら、これは、海洋大学潜水部への僕の遺言のつもりだ。
 ブログ(記録)に残しておく。
 ダイビングの歴史、下書きとして。


  1954年、潜水実習における事故 追悼記念碑                       東京水産大学、増殖科第7回 須賀次郎


 スクーバが、水中調査の道具として日本に紹介されたのは、ディーツ博士によって東京水産大学(現、海洋大学)の安房小湊実習場で、実習場前の磯に作られた、20mプールほどの大きさの観光生け簀に潜って見せた、1953年5月であった。
 ※ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、1914年9月14日 海洋底拡大説の提唱者の1人として知られる。天皇海山群の命名者としても有名である


 そして、その翌年、1954年、東京水産大学は、2台のアクアランクをフランスから輸入、購入し、潜水実習に使ってみる。その実習第一日目の午後、二人の学生が、事故、死亡してしまう。


 これが、日本のスクーバダイビングの幕開けであった。
 その事故の追悼記念碑が増殖4回のクラスメートの尽力で作られ1955年に小湊実習場に置かれたという。しかし、在学中、また、卒業以後も数えれば、小湊に100回近く行っているにもかかわらず、その記念碑を見たことが無い。
 この事故のことをブログに書いたことから、海洋大学館山センターの場長であった小池康之氏(自分とは共著「水中写真の撮影 1972」がある)から知らせを受けた。小湊実験場が、千葉大学に移管された時に、追悼記念碑は品川キャンパスのミュージアムに移され、エントランスホールに置かれていると。それは、行かなくてはと思いつつ時が流れてしまう。
 
 話を1954年にに戻そう。この事故の監督教官は宇野寛名誉教授、事故当時は助手、宇野先生は僕の恩師である。4年次には、論文の指導を受け、リサーチ・ダイビングの手法、そして、その後の海での生き方のすべてを教えられた。
 責任のある状態で生徒を亡くした先生の懊悩はどれほどだったろう。後に1990年、自分は自分の経営する調査会社で、若い、入社2年目の社員をダイビング事故で失う。自分の人生が一変する悲しみと衝撃だった。
 事故実習プログラムを組み立て、そのプログラムで、1957年、増殖学科3年次の自分たちは潜水を習う。このプログラムは、その後自分たちが、ダイビングを教えるプラグラムの原型になった。
 しかし、裁判で責任を追及されている状態で、追悼記念碑を前にして、僕らに事故のことを語る気持ちにはなれなかっただろう。潜水実習で、この記念碑が教材になることはなかった。
 その潜水実習を受けた1957年、せっかく講習を受けても、さらに潜る機会が無い。一年上級の竹下徹先輩、橋本康生先輩、同級生でバディの原田進らと語りあって、ダイビングクラブを作った。今の東京海洋大学潜水部である。その潜水部が、今、第67代だと聞いた。そして、僕が主催している東京辰巳国際水泳場のスキンダイビング練習会に彼らは練習にきている。一緒のプールで泳ぐけれど、直接指導することはない。自分たちですべて考えて、なかなか良いプログラムで練習している。追悼記念像は、彼らと一緒に行こう。部長の石井君(3年)にアレンジをたのんだ。こういうアレンジで、僕は、学生の能力を見るのだが、彼はパーフェクトにやってくれた。2022年9月27日、同行してくれたのは、3年 石井暁(部長)千葉真由子(副部長)2年 宝迫美央
1年 西澤遥紀 田中寛輝、それに特別参加で、61代の依田浩太郎君(東大博士コース)が来てくれた。
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 追悼記念碑は、写真で見て想像していたよりも、小さく、エントランスホールに、まるで、その場所に置くために作ったかのようにあった。
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 1954年、東京水産大学は、2セットのアクアラング(スクーバ)を購入した。それ以前の潜水実習は、小湊の磯に、空気を送る小さな手押しポンプを置く六畳ほどのコンクリート台地を作り、20mほどの長さの送気ホースでマスクに空気を送り、水深5mほどまで潜る。顔全部を覆う、マスクを着けて、磯根を這って行くだけ、説明も練習も不要、ある程度は泳ぐこともできる。その延長線上にスクーバが導入された。
 13人の講習生に2組のセット、組み分けをいろいろ工夫しても、ちょっと体験するだけの潜水しかできない。時間にして、5分程度だろう。ロープを手にして潜っていく。
 その日午前中、海底を這うのではなく、魚のように自由に泳ぐ体験はすばらしいものだったのだろう。午後のトップバッターの伊藤君 旭君は、ロープを手にしてはいたのだが、そのロープを手放して沖に泳ぎ出て還らぬ人になってしまう。なぜ、そんなことを、それは、彼らに答えてもらうほかわからない。
 記念碑を見てから、ダイビングについて、事故について、ちょっとしたレクチャーをした。
 ダイビングで大事なのは計画と段取りであること、すなわち、計画(目的;何をするのか 目標:どこまでやるか)と段取り(下調べ、打ち合わせ、役割分担、できれば、イメージトレーニング)だが、1954年にマスク式の体験とほぼ同様、同時に行われたスクーバ体験は、計画も段取りもなかった。その反省から先生達は1957年の講習プログラムをつくられたのだろう。教えられた僕のダイビングの基調になっている。しかし、ちょっとした隙に。自分が現場にいないときだったが、1990年に事故を起こしてしまう。
 2022年の僕らは、計画と段取りをきちんとやっているだろうか?
 先輩が、後輩に、記念碑を前にして、こんな話をする。それが、記念碑のつくられた目的だったとすれば、1955年から2022年、67年の時がすぎて、ようやく、それが実現したことになる。


  (2310字です)


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原稿を掲載させてもらうのは、東京水産大学、海洋大学の同窓会誌ナノで、僕のブログとは読者が違うので、こちらにも発表させてもらった。
心不全の自分は何時たおれるか、と言って寝たきりにはならない・ダイビングの歴史を書き上げる前にどこかの海で倒れるかもしれない。下書きをのこしておけば、潮美がリライトして本にしてくれるだろう。そのためにも、下書きをブログにのこしている。


なお、かわいい後輩たちに。この項は、遺言のようなつもりでもある。部が出来た由来、そして、計画と段取りがしっかりしていれば、事故は起こらない。
事故を振り返れば、必ず、計画と段取りに不備がある。もしくは、論点がある。





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