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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0924 ダイビングの歴史 下書き(1)

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ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、
ダイビングの歴史 下書き (1) 


 ブログがどうしようも無く、停滞している。心筋梗塞で入院中は、それでも、「海へ」というタイトルで、前に書いたブログのリライト出していた。退院したら、ダイビングの歴史と、最新水中撮影調査技法の執筆にとりかかろうと思っていた。もう、僕に残された時間は少ない。頑張ろうと思っていた。
 しかし、日本水中科学協会にかかわる仕事と、そして、高齢化による記憶力減退、パラレルに仕事ができない、一度に一つずつしか、仕事ができない効率の悪さ、そして、やはり、体調に波があるなどの条件がかさなって、二冊の本の原稿が全く書けない。そして、現在進行中の「リサーチ・ダイビング」仕事の映像編集も重なった。これは、収入に直結するから、第一にしなければならない。
 言いわけ文章は書くな、というのが、自分に決めたルールだが、これだけ滞ると、言いわけも記録だから、書いておく。
 やはり、重ね書きになるけれど、ダイビングの歴史と最新水中撮影調査技法の原稿下書きをブログに載せておくのが良いだろうと考えるようになった。もしものことがあった場合、下書きが公開されていれば、潮美がまとめてくれかもしれない。
 そして、同じことは、何回書いても良いのだ。少しずつちがっていれば、最新のものが、正だ。


 下書きをブログに置いておく、のだから、当然、下書きだ。




日本国産潜水指導盛衰記
 ※多分、没にするタイトル。
 ダイビングの歴史の最終章には、これからのダイビング、これからのダイビング業界について書くが、2022年の現状では、レクリェーショナルダイビングといえば、PADIがシェアの実質60%を占めているように思う。正確な統計は出さない、作らないのが、ダイビング業界の慣習だから、憶測にすぎないが、NAUIが20%SNSIとか、僕のダイビングの歴史に全く出てこない、外国勢が10%。日本国産潜水指導団体は、JPと全日本潜水連盟をあわせても10%に達しないだろう。なぜ、そうなったのか?
 そんなことを書こうとしている。
 
 全日本潜水連盟を一緒にはじめた京都の玉置敏夫先生の訃報をきいた。僕は危機一髪で命をとりあえず取り留めた。中部、名古屋の佐藤さんは、僕と同じ心不全、同じく、ステントを入れ、ペースメーカーを入れたけれど、亡くなった。いそがなくては、と僕が思う所以である。


 concept 概念 考え方
 これは、あくまでも、僕の、須賀次郎の視座、視点から見た成り行き、流れである。別の視座、別の視点からの物語があること、当然である。それも、できれば、その視座にある人が書いてもらいたい。唐沢さんが生きていれば、と思うけれど、亡くなってしまった。 歴史に真実というものはない。それぞれの視座、視点からの物語があるだけである。


 自分の視座、自分の視点と言っても、思い違い、記憶ちがいがある。できうる限り、印刷された資料にたより、裏付けにして、それをカバーするべく、発行された印刷物、雑誌を参考に、芯にして物語を展開させていく。
 雑誌の類は、まずは、日本潜水科学協会の機関誌であった「どるふぃん」をそして、「海の世界」から「オーシャンライフ」このあたりまでは全部持っているし、自分も書いているので、この時代の
芯になる。それを引き継ぐ形として、マリンダイビング、ダイビングワールド、月刊ダイバーなどをつかっている。


 なお、下書きなので、写真などは、適当に、あまり探さないで手元にあったものを貼り付けている。


★★★★★


 はじまり
 
 1953年

 日本にアクアラング(正しくはスクーバだが、この時代にはアクアラングと呼ぶことが普通だった。アクアラング、略してラングと呼んだりもした)が紹介された経路は、①機雷処理などの軍事目的、②駐留していた米軍関係者が日本人に面白がって教えたルートなども考えられ、実際にあったが、自分たちのダイビング、「リサーチ・ダイビング」については、1953年 5月 千葉県安房郡、東京水産大学小湊実習場に 米国の海洋学者ロバート・ディーツが、来て、自身が潜って見せて、紹介した。これは、新聞社なども招いていて、      付けの新聞に載っている、また、天皇陛下にも、機材を見ていただいて説明もされている。
 昭和天皇は、海洋生物の研究に熱意尾もっておられ、山下弥総左衛門氏らが、おそらくはマスク式潜水で、御前で潜水して、生物の採集などをしている。アクアラングに興味を示されて当然だろう。 
 ディーツ博士が、実習場の大型生け簀に潜って見せたその時に、参加した水産大学漁業科の神田献二先生が撮影した写真が手元にある。その時、自分の恩師である宇野寛先生も参加されているが、宇野先生は、写真に写っているが、写真は撮っていない。
 この時、若手研究者であった宇野先生、神田先生が、ディーツ博士から実技指導をうけたかどうか、定かではないが言葉による、ちょっとした説明だけだっと想像している。
 その時、ディーツ博士は、小湊の鯛の浦に潜って水中撮影もしている。
 小湊は、日蓮聖人誕生の地で、その誕生を祝って、鯛が浮いてきて舞い踊ったと言う故事が有り、観光客が舟をだして、舟が、鯛の出てくる位置に来て、船縁をトントンと叩くと、鯛の群れが浮き上がってくる。日蓮上人が誕生した時に、その誕生を祝って、鯛が浮き上がり、舞い踊ったという縁起だが、ただの音響馴致である。つまり、小湊誕生寺は、古くからの日蓮宗信者をあてこんだ観光地である。その鯛ノ浦にディーツ博士は潜ってみた。
 そのときの、ディーツ博士の準備しているカメラを見ると、後の1970年代の僕らが作ったような、カメラハウジングをてにしている。1953年、ディーツ博士は、アメリカ本国でも、有数の研究者ダイバーだったのだろう。
 僕は、その鯛ノ浦の水中撮影が、新聞に大きく、ほぼ、1ページ大に載っていたのを、見た記憶がある。そして、この潜水のために、鯛が集まらなくなって、地元では問題視しているという記事もおぼえている。スクーバダイバーと、潜った地元とのトラブルが、スクーバの第一歩から始まっていた。
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  1853年5月 小湊実習場の生け簀に潜灯と会談をおりるディーツ博士


※ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、1914年9月14日 - 1995年5月19日)はアメリカ合衆国の地球物理学者、海洋学者。ハリー・ハモンド・ヘスとともに、海洋底拡大説の提唱者の1人として知られる。天皇海山群の命名者としても有名である。
1941年にイリノイ大学で学位を取得し、海洋地質学者 フランシス・パーカー・シェパード に師事した。1953年、フルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部においても研究を行った。このときに天皇海山群の海山に歴代天皇の名をつける。
   https://ja.wikipedia.org/wiki/ ウィキペディアより。


 その翌、1954年、東京水産大学は、アクアラング2セットと、高圧コンプレッサーを購入する。神田先生、宇野先生ら、お二人ともまだ助手だっったと思うが、お二人の働きで購入がきまったのだろう。それとも、自然の流れで購入したのかもしれない。自分は、1955年の水産大学入学だから、それ以前のことは知るよしもないのだが、東京水産大学は、アクアラング導入以前から、マスク式潜水の実習を行っていたものと思われる。その証拠の一つが、小湊実習場にある潜水台である。
 小湊実習場は、学生の実験室が二階にあり、一階は水族館になっている円形の建物である。地元の観光への協力が、実習場建立の条件になっていたらしく、こじんまりとしたとても良い水族館で、地元で採れる、魚類を飼育展示している。水族館などの建物は、台地のように一段高く、そこから快打なんで礒に降りる。降りたところが、小さな突堤桟橋になっていて、小湊湾、対岸の誕生時からの遊船の小舟が着く。観光客は、この遊船を通船にして、水族館と、誕生寺、鯛が出てくる鯛ノ浦を観ることができる。
 遊船の着く突堤のある小さな入り江は、禁漁区になっていて、入り江の右手の礒には、小さなコンクリートの柱が立っている。その柱の内側が、学生の実習用の水面で禁漁区、土地の漁業者も漁をすることができない。僕ら学生が泳ぐことができるだけである。
 実習場、水族館から礒に階段で降りると、右手は広い礒である。礒の岩の凹凸は歩きにくいので、巾1mほどのコンクリートの通路が、まっすぐに礒の先端に向かっている。聞けば、このコンクリート通路の右手は、昔、火葬場だったらしい。この火葬場跡に小さな水族館を作ったのだが、台風で飛ばされ、流されてしまった。何かの祟りだと言われたりした。
 コンクリート通路の、左側に18mx8mほどのプールのような生け簀がある。この生け簀にも鯛が飼われていて、観光客が餌をやることができる。ミニ鯛ノ浦、ここでも魚に餌をやって遊ぶことができる。
 この生け簀で、1953年、ディーツ博士がアクアラングで、潜って見せた。ディーツ博士が生け簀の水面に降りる階段の途中で、写真に写っている、見物人は、生け簀の中の鯛と一緒に潜って見せる、ディーツ博士の姿を、鯛をみるように、手すりにつかまって見下ろしたのだ。
 その生け簀からちょっと先でコンクリートの通路は、左に枝分かれしている。枝分かれした左に行くと、畳八畳敷きほどのコンクリートの台がある。潜水台である。この上に手押しポンプをおいて、ホースで、潜水マスクに空気を送って潜水する。マスクは呼吸袋のついた旭潜研式マスクをつかっていた。このマスクは、小型漁船のスクリューにロープが絡んだ様な場合の解きほぐしに、また浅海のテングサ採取などによく使われたので、この礒での実習が行われた。この潜水実習の延長線上にアクアラングの実習が行われたのだろう。このマスク式潜水の潜水実習がどのように行われたのか、知らない。自分は1955年の大学入学なので、それ以前のことはわからない。発表されていなければ、知るよしもないのだが、この潜水台がある以上は、マスク式の実習がどのような形なのかはわからないが、毎夏行われていたのだろう。
 その潜水実習に1954年からアクアラングが加わった。
 そして事故が起きる。我が国、最初のスクーバダイビング事故である。二人の学生がロープを持って潜水し、なぜかロープを手放して、戻ってこないで、亡くなった。
 

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