ブログを書き始めたのは、2005年で、その頃は楽天ブログを使っていた。楽天ブログだったのは、2008年までで、掲載できる写真が小さいのとか、いろいろあって今のブログに代わった。
しかし、自分として、この楽天時代の文章が好きだ。
今、文章を書いたり、調べものをするとき、自分のブログをチェックすることが多い、楽天ブログにインデックスがないので、不便なので、もう一度、読み返してインデックスを作っている。
そのうちの2007年の7月-10月のセクション。
リサーチ・ダイビング入門というシリーズを始めていて、このタイトルでは何を書いたのかわからないので、そのためにインデックスを作り始めたともいえる。いま読み返してみると、1980年代のスガ・マリン・メカニックへの挽歌である。1980年代のはじめ、スガ・マリン・メカニックは、サンダーバードのつもりだった。そして、1990年、一番若い社員脇水輝之が死んで暗転する。
その様子が、このセクションのブログであった。
危機一髪の連続である。その危ない場面は全部切り抜け、減圧停止中、海はべた凪という状態で、死が訪れる。
ブログ index 2007年 6月から10月
リサーチ・ダイビング入門
Jul 7, 2007
東海大学には、海洋探検部、通称「海探」という伝説的なダイビングクラブがあった。「海探」は、伊豆海洋公園で、ドラム缶を伏せたようなものを水中に沈めて、海中居住をやろうとして、2名が死亡しその幕を閉じた。※このことの記録がないか、探しているがない。当時のことをしっている伊豆海洋公園の益田さんも、友竹もこの世にいない。NHKのカメラマン河野さんだけが、このことを知っているはずだ。脇水輝之は、その後で東海大学に入ったから、「海探」ではない。サークル的なスキンダイビングクラブを作り、彼はそのクラブのキャプテンだった。
スガ・マリンメカニックには、海探の経験者がいる。中川隆は、僕の撮影助手をやり、その後、娘の須賀潮美がやっていたニュースステーションのカメラをやり、現在はフリーで、おそらくビデオ撮影では日本最強のカメラマンである。中川も、東海大学「海探」的、伝説の人である。カイタンはしごかれる2年次まで、しごく方にまわってからやめている。沖縄空手をやっていて、時々屋上でヌンチャクをふりまわしている。
彼の卒業論文は、西表島の東海大学の研究所でオニヒトデの産卵をテーマにしたものだった。他のダイバーたちは、卒業論文を見せてくれなかった。中川は見せてくれたから、立派だった。読ませてもらったが、オニヒトデの卵巣を食べたところだけが印象に残った。食用にはならないそうだ。
新婚旅行では、その西表島に行き、山越えのキャンプをやり、道に迷って帰ってこられなくなり、花嫁は白髪ができた。ニュースステーションのロケで、トカラ列島の悪石島にトビウオの産卵撮影に行った時のこと、宿のおばさんが、朝作って出したポテトサラダを夕食にも出した。暑いところだから少し匂いがした。中川は、マヨネーズをかければわからないと言って全部食べた。ロケの宴会で酔っぱらって、社長の僕にバックドロップを炸裂させた。受け身が取れなければ、大けがをするところだった。別に怒ってやったのではない。親愛の表現だったらしい。
おどろいたことに河合君は泳げない。せめて、25mは泳げるようにしようとプールに連れて行ったが、プールの端をつかんだまま離れない。それでも、いつの間にかチーフダイバー(まとめ役)になり、最も信頼できるダイバーになった。彼の実家は、鎌倉の市役所の近くでやっているラーメン屋で、それもなかなか評判が良いという。僕は社員の家を訪問したことなど無いのだが、ラーメンが食べたくて行った。彼のお母さんとおばさんが二人でやっているお店だったが、本当においしかった。そのおばさんが、僕のことをジーット見ている。
次の日、河合君が来て、おばさんは霊感の強い人で、僕の後ろに悪い霊が付いている、お払いをしないといけないとも言っている。僕は、お払いに行くのは嫌だから、代参が可能かどうか、どこに行けばよいのか教えてもらうように頼んだ。代参は可能で、それは、河合君ともう一人同期の人で河合君と火と水の関係の人が居るので、二人で行くようにと指示があった。同期のダイバーは、鶴町君と言い、中央大学のダイビングクラブ出身で、NAUIのインストラクターである。人柄としては誠実で絶対に信頼がおける。二人はおばさんに紹介され、三浦岬の方のお寺に行った。
二人は本堂に座らせられ、その周囲を坊さんが奇声を上げてインデアンのように飛び回り、二人は笑いをこらえるのに死ぬような思いをして、お札を頂いてきた。お札は大事にしていたのだが、そのうちにどこかに飛んで行ってしまったが、僕の背中にいた悪い霊は、払われたらしく、今まで生きている。
その頃、後に、この会社を引き継ぐ、田沼健二が入社してきた。彼については後で触れるが、絶対に船酔いしない調査のエキスパートである。船酔いをする学者は船上では役に立たない。船上の指揮官であり、潜水は一番下手で、海底に足を着けて、皆の顰蹙を買っていた、当時はBC.は無かったが、それでも、フィンで海底を掃くと馬鹿にされた。
新井拓というダイバーがいる。河合、鶴町、田沼が入る前、僕一人では仕事にならないので、専属フリー、客分のような形で一緒に潜っていた。仕事のあるときだけ来る。そのころ後輩の奥さんを事務員アルバイトに頼んでいたので、仕事の無い時にも、人妻の顔を見に来る。
鶴町の実家は水戸の在の常井村で、おじいさんが村長をやっていた。新井拓は、この村に疎開していて、鶴町村長にずいぶんお世話になったのだそうだ。その時に、茨城・福島弁を覚え、だから自然に口から出るのだ。
片岡義男という人の小説がある。主人公の男は、サーフィンをやり、オートバイのライダーで、自由気ままに生きている。女性はみんな自立していて、男を自由に選んでいる、というけっこうな世界を描いている。本当にそんな男がいたら、どうなる?というのが新井拓だった。大きな単車を乗り回し、コルトレーンのサックスについて語り、サルトルとカミュウについて、語りながら女の子を口説く、本人が何を言っているのかわからないから、女性は混乱する。奥さんは美人で、館山の資産家の娘、拓ちゃんを放し飼いにしていた。幸いにして、アルバイト事務員の人妻は、彼のことを相手にしなかった。
僕は彼と一緒に潜って、一度も不愉快な思いをしたことが無かった。いつでも楽しかった。ダイバーとしては、超が付く一流で、僕のところに来る前は、海洋技術センター(今のJAMSTEC)で海底居住計画の器材係をしていた。僕とは撮影のスタイルが違うが、カメラマンとしても一流で、その後は、主に日本テレビの水中撮影をやるようになった。今は、(2007年当時)館山の海岸通りにジャズとコーヒーそしてライダーの店を開いていて、時にはスガ・マリンメカニックのダイバーをやっている。
米田茂は、日大のスキン・スクーバダイビングクラブの出身で、職人ダイバーであり、職人カメラマンでもある。職人の常として絶対的に誠実だが、偏屈であり、お母さんの煮る正月の黒豆が世界で一番美味しいと思っている。渋みのある良い男だけれど、当然、嫁に来る女はいない。
井上孝一も東海大学海洋学部の卒業で、バイオテレメトリー(魚に発信機をつけて追跡調査する)を卒論のテーマにしていた。電子機器のエキスパートである。彼の特色は、全てにネガティブな判断をすることだった。だいたい、ダイバーはネガティブな判断をする人が多い。でなければ生き残れない世界ではある。何でもポジティブでは、命がいくつあっても足りない。が、それにしても、井上君に、何かを相談して、すぐに賛成してくれたという記憶が無い。
僕の理想とする仕事のスタイルはサンダーバードだった。
※2007年のブログであり、現在2022に書いたものではない。