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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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06131.「海へ!⑤』  マイヨールは何故死んだ再び。2.水中結婚式。3.水中カラオケシステム

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「海へ!」⑤ 
 入院中でも、ブログを途切れないように、2005~6年のブログのリライト+α で始めたのだが、これはこれでしばらく続けたい。 


 2005年 7月22日


1.マイヨールは何故死んだ再び。2.水中結婚式。3.水中カラオケシステム


 茨城県立海洋高校で、水産高校と海洋高校の先生たちをスクーバダイビングの指導者にする講習の指導をしていた。2002年の8月中旬のことだ。


ひたちなか市、少し前までは那珂湊市にある茨城県立海洋高校には、「えーつ」と驚くほど立派なダイビング訓練用のプールがある。
 長い辺が25m、短水路の25mの競泳プールで、1.5m、3m、5m、10mの深さがある。このプールで、送気式でもスクーバ方式でもどんな潜水の訓練でもできる。
 午前中が学科の講義、午後が実技の講習で、一週間のプログラムである。
 講義講師の一人に、関邦博先生(理学博士)をお願いしている。関さんは、一晩泊まってくれたので、久しぶりで割合長い時間歓談することができた。
 関さんは神奈川大学を卒業して、フランスへと無銭的留学をした。マルセイユ大学で生理学だかなんだかの学位を取った。マルセイユは、地中海きってのフランスの港でスクーバダイビングの発祥の地だ。となりはニース、そしてモナコとコートダジュールだ。ここで、フランスのダイビング資格も取ったというけれど、関さんが潜ったのを見たことがない。
 関さんと私は、大崎映晋さんと言う先輩がやっていた日本水中連盟からCMASを引き離した。関さんが会長になり、私も何かに成って、フェジャスと言う組織を作ったが、それからは裏切りと欠席裁判の繰り返しになり、私はドロップアウトしてしまった。その時のことも、そのうちに書こう。
 なお、CMASのカードを持っている人、日本に多いとおもう。僕もインストラクターのカードを持っている。フランスで発行したフランス語のカードだ。読めないけど、インストラクターのはずだ。フランス語だから国際免許で、終身資格だ。外国にロケに行ったとき、カードの提示を求められた時、これを出せば、世界各国で通用した。
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 日本は日体協の発行した上級スポーツ指導者のカードを見せる。もうとっくに期限切れで、そして。この上級指導者と言う資格も無くなっているはずだが、であった、と言う証明にはなる。


 関さんは、「イルカと海に還る日」と言う本を作って、フランス人のマイヨールを日本でメジャーにした人でもある。この本、マイヨールが書き、関さんが訳したことになっているが、関さんの聞き書きだろう。
 私は「マイヨールは何故死んだ」という小文をホームページに載せていて、マイヨールの死に方は、とても寂しい死だととらえていたが、関さんは、「最後は一人切りで自殺して、隣のおばさんが発見し、誰も葬式に来ないなんて最高の死に方だ」と言う。そういう見方もあるのか。
 マイヨールの日本での親友であった成田君は、マイヨールの葬儀に日本から駆けつけた。友だちは日本にしかいなかった。ならば、日本語を習えば良いのに、最後まで、日本語をしゃべろうともしなかった。フランス人って、そういう奴なのだ。
 マイヨールの死の原因は、チャレンジャーではなくなったからだ、と関さんは言う。70歳で最後のチャレンジをするように進言して、アレンジもしてやろうとしたのだが、乗ってこなかったという。
 マイヨールのようなチャレンジャーは、チャレンジする気持ちを失ったら生きていられない。まだまだ、別のチャレンジがたくさんあったのにと言っても、マイヨールにはあのどうしようもない孤独な自殺が男の美学だったのかもしれない。
 チャレンジする気持ちを失ったら、私も自殺するかもしれない。チャレンジの種を探して、気持ちだけでも、死ぬまでチャレンジャーで居よう。


 ここに一人のチャレンジャーがいる。上谷成樹、横浜国大を卒業して、紆余曲折の後、ラーメンの屋台を作る会社をやっていた。上谷さんとの出会いは、とあるダイビング用品展示会場で、彼の手作りの水中スピーカーを見た時であった。私のダイビングの大きなテーマの一つが水中で話をすることであり、それで、娘のニュースステーションが始まった。僕の、その水中レポートの通話装置は、有線で船の上と繋がっているのだが、上谷さんのスピーカーは、アンプもろとも水中に入って行く。フルフェースマスクでしゃべると、一緒に潜っている仲間たちに声が届く。水中でおしゃべりするから「シャベリーナ」と名づけられている。
 このシャベリーナを使って、日本テレビの水中探検シリーズの中で水中結婚式を撮った。この水中探検シリーズは、故人になってしまった「いかりや長介」が司会していたまじめな番組だ。
 長さんはダイビングが好きで、とある番組で、モルジブでシャークショーの取材をした。本来シャークショーは安全な鮫を相手にしているのだが、長さんの顔を見た鮫は突然狂いだした。その番組のビデオもみた。確かに、サメは捕食動作に入っている。長さんは以来ダイビングをやらなくなった。水中探検シリーズで水中に誘い出そうとしても乗ってこなかった。
★☆☆
 伊豆大島の秋の浜に行くと、色白、顎鬚の柔和な男が一人で潜っているのに出会うことが多いはずだ。(2005年当時)大沼久尚君だ。日大の水産卒、良いリサーチ・ダイバーで、スガ・マリン・メカニックに入れようと、口説いたが、勤めるというのが嫌いだ、と入社しなかった。まあ、どっちでもいい。こっちも、めんどうがない。スガ・マリンメカニックでリサーチダイバーをやってお金を稼ぎ、仕事がなくなると必ず毎日大島の秋の浜で潜っている。秋の浜のことなら何でも知っていて、秋の浜の仙人と呼ばれているが、ガイドはやらない。人の生命に責任を持たなくてはいけないなど、絶対に嫌だというのがその理由である。人は勝手に死ぬ、その責任を負うなんてできない。と彼はいう。責任にこだわる仙人なのだ。
 彼の風貌がまるで牧師なので、牧師に仕立てて水中探検シリーズで水中結婚式をやった。同じ伊豆大島の波浮の港に近く、トウシキの浜という波静かで水もきれいな澪がある。ここを水中教会に設定した。
 上谷成樹さんのシャベリーナを使わせてもらって、牧師の大沼君に司祭をやってもらった。結婚行進曲が流れ、突然司会者ががなりだした。上谷さんが司会者の役を買って出たのだ。頼んだ覚えは全くない。
 新郎新婦が結婚衣装を付けて、スクーバで潜ってくる。参列者も列を組んで泳いでくる。
 新郎新婦は、神父の前で、無事、水中キッスを済ませて浮上した。新郎新婦の両親は、岸辺でモニターを見て、私の撮影する結婚式を見ていたのだが、感動のあまり、涙が滂沱と流れている。私としては、洒落のつもりだったから、この感動の涙を喜んで良いのか、申し訳ないと思うべきか、とまどった。しかし、素直に喜ぶべきだろう。結婚式は水中でも感動ものなのだ。特にご両親にとっては大沼君の神父が感動の源らしい。本物の神父が潜水してくれたと信じ込んでいる。まじめな大沼君は、実は私は神父ではないと言いかけた。あわてて口を塞いだ。


 ※トウシキの澪は、今では流れが速くなり、結婚式などできない。昔は、ホンダワラが茂り、流れも無い、良いロケプールで、いくつかの番組をここで撮った。丹波哲郎をここで潜らせて、全然潜れない。顔を水に漬けただけで上がってきて「やーあ、水中ってすごい。ダイビングにやみつきになる。」といわれて、呆然とした。役者の想像力ってすごい。加山雄三の「海の若大将」も舘石さんが、ここで撮ったと記憶している。


 その後、大沼君は、秋の浜の水深60mで新種のハゼを発見し、それを採集しようとして、激烈な減圧症になり、半身不随になった。神を偽ったためのたたりかと、ちょっとだけ胸が痛んだが、彼はアメーバのような体質らしく、完全に治って、また60mを越えるダイビングをやっている。また大沼君には、沖ノ鳥島の造礁珊瑚の調査をたのんでいたが、当時、おそらく珊瑚のリサーチダイバーとしては、世界でも屈指だっただろう。



 2005年 7月25日

 上谷成樹のことを書いているうちに七月ももう少し、必殺のスケジュールで日々を送っている。もうあとわずかで、70歳の夏が行ってしまう。若い頃、18歳の夏が行く、などと感慨に浸ったことがあるが、18歳の夏なんて、何でもない。70歳の夏は、特にダイバーである僕にとって貴重な一瞬一瞬である。
 今日の朝日新聞に「高齢者って何歳から」という記事が載っていた。
 「内閣府が60歳以上の男女を調査したところ、70歳以上と答えた人が46.7% 75歳以上と答えた人も二割に達した」とある。
 断然、現状のままのダイバーで75歳までやり、なんとか80歳まで潜り続け、「高齢は80歳から」と言おう。


 ※2022/05/25  87歳までダイバーをやり、心筋梗塞でたおれた。水中で倒れたのではない。念のため。耐圧水深30mのペースメーカーを入れた。今後は25mまでしか潜れないが、92歳までなんとか潜る予定。明日死ぬかもしれないが、予定では95歳で死ぬ。


Jul 26, 2005


上谷成樹の水中カラオケシステム


 上谷成樹さんから1本のビデオテープがとどいた。
 まず、ダビングの繰り返しで色がおかしくなった水中が現れた。
 この水中を背景にテロップが流れる。
「須賀次郎様、および須賀家の皆様、ご健勝のことお慶び申し上げます。
 私、上谷成樹、齢を重ねてまいりましたが、青雲の志未だ消えず、この度、水中カラオケシステムを考え出し、世界各国に広めようと立ち上がりました。」
 水中カラオケシステムとは何だ?
 背景の画像では、上谷さんがシャベリーナを抱えて、水中で唄をうたっている。音質が悪いので、何をうたっているのかわからない。雑音に近い。
 上谷氏の経験では、水中で大声で唄うことは身体に良い。
 水中でシャベリーナを抱えて、ある日大声で唄をうたった。上がってきたらすごく体調がよくなっていることに驚いた。風呂の中で唄うと気分が良い、ここまでは経験のある人も多いだろう。水中で、風呂で唄うことは、さらに大きな癒しになることは間違いない。


 次に底に大きな水中スピーカーがはめ込んであるバスタブが写った。マイクを取って唄うと、大きなスピーカーが振動し、水面に波紋ができる。
 次は、裸の男性がベッドに横たわり、若いフィリピン女性が背中をマッサージしている。坊主頭だから、上谷氏であることがわかる。壁には、フィリピンの景色だか、日本の景色なのかよくわからない、銭湯の絵のような垂れ幕がかかっていて、異様な雰囲気である。
 ここまで、見た人は、腹を抱えて笑いこける。このビデオを貸してくれと言う人が多く、貸し出しているうちに紛失してしまった。今は、ただ、残念である。
 場面は変わって、フィリピンの田舎の街角である。ラーメンの屋台のような車に、(上谷さんは、屋台の製造を商売にしていた)テレビモニターを積んだ車をフィリピンの17歳ぐらいの女の子数人が囲んでいる。上谷さんのマッサージパーラーの街頭宣伝車である
 上谷さんは、フィリピンの空軍基地の街に水中スピーカーの付いたマッサージパーラーを開店したのだった。
 果たして世界的な、チェーン展開が実現するだろうか。


 次の年、年賀状が来 た。結婚して女の子が生まれ、遅い子持ちでかわいくてしょうがない、サクラと名前を付けて、連れて旅をしていると書いてあった。
 彼は結婚していなかったのだろうか。そんなはずはないのだが、まあいいや。


「鮫に浪曲を聴かせる」番組企画が持ち上がり、実現することになった。これはもうシャベリーナしかない。シャベリーナを鮫の前に押しだし、有線で船の上と結び、船の上で浪曲を詠ってもらい、鮫に無理矢理浪曲を聴かせるのだ。
 水面から吊しただけの水中スピーカーでは、鮫に聞かせているというイメージにはならない。ダイバーが、スピーカーを持って鮫に接近しなくてはならない。
 上谷さんは快く貸してくれることになりシャベリーナを借りに行った。彼の仕事場に行くと、作りかけの水中カラオケシステムのスピーカーが数台並んでいる。なんとか商売になっているみたいな雰囲気だ。日本は温泉ブーム、ジャグジー、ヘルスセンターブームだ。
 レジャー施設として最高なのは温泉だ。これはもしかしたらビンゴ!かもしれない。
 そこに置いてあった論文をみせてくれた。関邦博教授の論文だった。他にどの科学者が水中カラオケシステムなんていう怪しげなものを真摯に研究するだろうか
 研究の成果は、アルファー波が出て、水中カラオケ、バスタブの中の大音響スピーカーは、効果のある人には効果があり、効果の無い人には効果がない。至極当たり前の結論だった。しかし、効果がある人には、効果があるのだ。もしかしたら、世界のあらゆる国のヘルスセンターに、片隅かもしれないけれど、水中スピーカー付きのバスタブが置かれるかも知れない。大江戸温泉に置いてあったら、きっと水中カラオケバスにはいるに違いない


 それから少し、時間が流れ、ある日ファックスが入った。上谷成樹の死亡通知だった。


Jul 30, 2005


北国の春
 
 お世話になった上谷さんだから、とにかく顔を出さなければいけない。
 横浜の公団住宅を住居兼工場にしていたから、斎場も横浜だ。
 50人ばかりの参列者が集まっていて、読経が始まっていた。席の最後列に関邦博教授の顔が見えたから、隣に座る。
 関さんは、読経に合わせるようにして、ささやくように様々な情報を提供してくれる。
 昨夜の夕方から0時頃までは元気で、食事をした後で就寝したが、2時頃から苦しみだして、病院に搬送したが、明け方に息を引き取った。奥さんはフィリピン女性の23歳、腹上死のようなものだと関さんは言う。「ならばうらやましいね」と僕は言う。「彼は、肝臓が悪くて、あと一年の命と言われていたのが、7年持ちこたえたのだからもう良いだろう。」とも関さんは言う。
「フィリピンでは、若い女の子を17人使っていて、毎朝、その子たちのお乳を、突いてやると、喜ぶんだと彼は言ってたよ。」
「一度、ひどく血を吐いて苦しんだことがあり、その時に女の子たちの一人が献身的に看病してくれた、それが今の奥さんで、その時17歳だった。」
 「ずいぶん、関さんはくわしいですね。」
 「うん、フィリピンまで行ったからね。」
 でも、肝臓が悪くて、一年の命が持ちこたえての死だったら、腹上死とは少し違うのではないかと思う。それでもまあ、若い奥さんに抱かれて死んだのだから、うらやましい死ではある。
 読経が終わり、お清めの席になる。
 僕の価値判断では、お清めが楽しい席であれば、そのお通夜は大成功である。
 とてもとても、若い人や、子供の葬儀では、悲しすぎて楽しいなどいうことはあり得ないが、歳をとり、なすべきことを成した人のお通夜は楽しくあったほうが良い。(宗教上の理由、あるいは土地の習慣で、お清めをしないところもあるが。つまらない葬式だ。)
 楽しいと言うと、不謹慎だと言う人も居るだろうが、そんな人が集まるお通夜や葬儀には、出来れば行きたくない。
 楽しいと言う表現が良くないかも知れない。良いお通夜、良いお清めの条件とは、まず参列する人が、故人に対して温かい気持ちを持っていることである。次が家族の人たちのホスピタリティというかお客を歓待する心である。悲しみは悲しみとして、せっかく来てくれた人は、故人の客であるから歓待しなければいけない。
 23歳になっている上谷さんの奥さんは、ちょっと言葉が引っかかるが、それでも明瞭な日本語で、お客の一人一人に挨拶をしてまわってくれた。私のところにも来て、床につくまでは元気だったのですが、夜半過ぎてから急に具合が悪くなったことなどをしっかり話してくれた。すてきな奥さんだった。
 関教授によれば、マッサージパーラーは、フィリピンの奥さんのファミリーが経営を見ているから、奥さんも家族も生計に支障がないように手配されているとのことだ。娘のさくらちゃんは、日本でもフィリピンでも可愛がられて成長するだろう。
 集まったダイバー数名と、もちろん関先生も交えて、上谷さんとともに経験したいくつかの潜水、いくつかの抱腹絶倒の出来事を語り合った。
 
 上谷さんが生きていた時に、フィリピンの水中カラオケパーラーに行かなかったことを、後悔した。上谷さんが居なくなってしまえば、日本で水中カラオケシステムが伸びるとは思えない。
 ところで、僕は水中カラオケで何を歌うだろう。
 千昌夫の「北国の春」が良いな。この曲は、20年以上昔、スガ・マリンメカニックの僕のダイビングチームを率いて、岩手県釜石で連日、水深70mの潜水をしていたとき、宿の前の銭湯に行くと、土地の年寄りが気持ちよさそうに唄っていて、私たちも一緒に唄ったものだった。
 帰りの車を運転しながら、「あの故郷にかえろかな、帰ろうかな。」小声で口ずさんだ。
 少し目の奥が熱くなった。
 とても良いお通夜だった。



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