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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0606 海へ! ④ 小笠原と牟田先生

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写真は小笠原ではありません。ミクロネシアのどこかです。ここ、入院先には、写真ファイルが来ていないので、適当です。






Oct 11, 2006


小笠原と牟田先生


中島敦の南洋通信を読むとも無く、読んでいた。好きなのだ。
 中島敦というと牟田清先生のことを思い出す。日本に返還直後の小笠原で体操の先生をやっていた。これで体操の先生なのか、というやせた身体だけど、アメリカ国籍が生徒の半分を占めていた小笠原高校で体操を教えていた。そのころの小笠原は、誰か宿泊の引き受け手が居ないと、乗ってきた船に乗って帰らなければならない。島に乗っかれる人数が決まっている。それは水が無いためだ。昔はたくさんの人が住んでいたのになぜだ。それはアメリカが占領して、全部が下水道完備、水洗トイレになったためだ。そんな事情だから、復帰直後の小笠原では民宿もペンションもなかった。通ってくる船もすごかった。東海汽船の一番小さい船、黒潮丸が通っていた。竹芝桟橋を出るとき、この船は明後日の昼頃に着く予定だとアナウンスがあった。後は波に翻弄されて、乗客は三日三晩打ち伏して過ごす。弁当を注文すると、伏している枕元に,おにぎりとか、いなり寿司がとどく。
小笠原は、インフラ的には絶海の孤島だった。島で仲良くなった英語の先生の若い奥さんは、島の生活をはかなんで、その後、自殺してしまったと聞いた。東京の人と話せる、と言うことで、僕が潜っている浜辺にわざわざ出ておいでになり、楽しくお話できたのだが。
小笠原ダイビングセンターの古賀さんは、復帰直後の小笠原にお巡りさんとして赴任し、島にほれこんで、お巡りさんを退職して、島でダイビングサービスをやろうという。僕のところにも相談に見えた。心から、「止めなさい。お巡りさんの方が良い。」と忠告したが、聞かず、現在の成功をおさめている。僕の忠告など聞かない方が良いのだ。
そんなことで、小笠原にダイビングサービスを開いた、古賀さんを訪ねたのだ。
しかし、泊まるところが無い。三日三晩ゆられて、その船で帰るのはあんまりだ。
 小笠原水産センター所長の倉田洋二先生が、僕の身元引受人になり、単身赴任の先生の官舎に泊めてくれた。倉田先生は、パラオの水産講習所で学び(今の海洋大学の前身のまた前身の水産講習所は、韓国にも、南洋のパラオにも分校があった)そのまま島で応召されて、アンガウルで玉砕、戦い生き残った人で、ワニの研究と養殖がライフワークだった。パラオにはワニがいたが、小笠原にはワニがいないので、ウミガメの養殖を研究テーマにしている。その後、東京都を退職された後、パラオにもどりワニの研究をしていると聞いた。その後、ご無沙汰をしてしまっている。どうされているだろうか。僕の学生時代から、倉田先生にはひとかたならないお世話をいただいているのに。
 ※倉田先生は亡くなられて、新聞で大きく報道された。ぼくは、倉田先生のことも書いたグラフィテイを送ろうと、たしか、娘さんが居られたと連絡したが、返事をいただけなかった。そのままうち過ぎている。


 その官舎に牟田先生も居た。ダイバーだということで、親しくなり、夕食に招待された。何もないところだから、奥さんの手料理である。天ぷらと刺身だが、刺身は芥子醤油で食べた。サンゴ礁の魚の臭みが抜ける。小笠原の島寿司もわさびではなく、イスズミを醤油づけにして、芥子で握る。僕は大好きだけど。
 天ぷらが驚いた。その辺に生えている木の芽、草の芽を揚げている。ハイビスカスの花びらの天ぷらには驚いた。美味しくはないけれど、まあ、まずくはない。食べられる。天ぷらにすればどんな植物でも、毒でない限り食べられるということを知った。
 その後、沖縄の東急ホテルで、天ぷら専門の店に入ったとき、ハイビスカスの花がカウンターに飾ってあったので、これを揚げて下さいと注文した。うまくやれば、店の呼び物になると思ったのだが、その後そんなうわさを聞かない。
 その牟田先生は、定年退職後、退職金を注ぎ込んで、春風というヨットで、南洋の島々を巡る。中島敦が大好きで、触発されてのことだ。その航海記をまとめて、「太平洋諸島ガイド・南の島の昔と今」という本を出された。中島敦の書簡や日記には及ばないが、資料としては役に立つしおもしろい。とても良い。愛読書の一冊になっている。この本に出てくる、パルミラ環礁と言うところに行きたくて、何度もテレビの企画書を書いた。残念ながら全て没、世の中は、没と失望で成り立っている。
 その後、誰かの企画で番組になり、見たけれど、全然つまらなかった。パルミラ、現地のことばでは、パーマヤというそうだが、無人島で、人に飼われていた犬が一頭住んでいる。映像にならない。文字の世界だ。
 牟田先生の本にはトラック(チューク)のことも紹介されていて、この22日から出掛けるツアーのお世話を頼んでいる末永さんも出てくる。
 牟田先生は、東京に戻っては、私の住所の近く、江東区大島に住んで、一度お訪ねした。近くだからまたおじゃましようと思っているうちに、成田のほうに引き込まれてしまった。その後は、中国の昆論山脈の方を旅行された年賀葉書を頂いた。これも、中島敦の「李綾」に影響された旅だったのだろうか。その後、一度、日本潜水会の忘年会においでいただいた。
 ※ お元気でおられるだろうか?

Oct 12, 2006


光と風と夢

 牟田先生のことを書いたので、
 中島敦の南洋通信(何度目か?)を読み、同じ中島敦の「光と風と夢」を読み始めている。これが面白い。
 「宝島」を書いた英国のロバート・l・スティーブンスが、病気になり、喀血したというから、多分結核だろうが、南の島に逃れてくる。この点では中島敦の喘息と共通項がある。スティブンスンは、サモワに移り住み、大きな農場兼住居を造る。土人(差別用語だが、仕方がない。そのように書いている)に慕われて、ツチタラ、物語を書く人 という称号をもらう。当時、1880年のサモワは、一応、王様というか大酋長がいて、自治のかたちをとっている。しかし、実際はドイツが巾を聞かせていて、王様の内乱で、英国、米国も乗り込んで混乱状態になっている。植民地時代だから、白人が土人を搾取している。ツチタラであるスティブンスンは、土人の味方で小さな革命が起こる。
 これで、この「光と風と夢」も、読むのは二度目なのだが、それでも面白い。


 ※ サモアにも行きたいと思っていたが、行かずに終わりそうだ。 明日6月7日退院の予定です。
 ※ 中島敦は、Kindleで無料。

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