セピア色だ。
勝鬨橋が開いている。万歳をしている。
停泊している船は、当時の水産大学の練習船、大中小、三隻あった、海鷹丸(大)、神鷹丸(中)、そして、はやぶさ丸(小)、これははやぶさ丸、そして、この船は、ビキニ環礁で放射能を浴びた第五福竜丸なのだ。残存放射能の実検のために練習船に使った? なんともなく、使命を終えて、また福竜丸にもどって、展示されている。
この写真、僕らが海洋調査の練習航海にでるとき、自分たちの乗った神鷹丸(中)から隣に停泊しているはやぶさ丸(小)を撮った。
1959ー3月
東京水産大学を卒業する。
スクーバダイビングと撮影を習い覚えた。スクーバダイビングについては、ダイビングでの生と死、そして、技術を学んだ。撮影は、宇野教室の別室に暗室を作って、占領していた。撮影とともにプリントも習い覚えて、調査報告に使うことができるようになった。調査報告とは、イコール撮影なのだと知った。
映画の撮影については、岩波映画と新東宝の水中撮影の助手をやった。岩波映画は、小湊の磯でのクサフグの産卵、新東宝は「人喰い海女」という恐ろしい題名の映画に水中撮影の助手に付き、白浜のロケをやり、驚異的に身体がよく動くととほめられた。そこで、撮影助手術を学んだ。
もう一つ、習ったこと、これこそが勉強だったのだが、サザエの棘について書いた論文は、宇野先生に徹底的に直された。自分の書いた部分は全部赤字で消されて戻ってきた。サザエの棘が、その磯の環境、内湾度の指標になると考えて、結論としたのだが、それは推論に過ぎないと削られた。事実だけを述べなければならない。予測に類することは、本文中に書いてはいけない。考察は、事実から考えられることだけにする。そして、相関関係と因果関係のちがい。表現も出来る限り簡潔に、出来れば箇条書きにする。イメージは、スチル写真とグラフで表現する。
このとき教えられたこれらが、調査とレポートについての考え方の基本になっている。
ようやく書き上げた論文は、先生も誉めてくれて、春の水産学会で発表するようにすすめてくれた。写真をスライドにして視覚的に発表した。グラフを書きなおし、水中写真も整理してスライドを作った。今では、科学研究の発表はすべて、スライド、パワーポイントだが、当時の学生の発表としては先進だった。
論文発表の準備が終わると、三月も終わりに近く、就職のチャンスは失われていた。気にしていないことは無く、公務員試験も受けては見たのだが、卒業論文と平行だったから、今一息?で落ちた。公務員試験に受かったところで就職があるわけではないと、自分で自分を慰めたが、慰めたところで、何にもならない。
水産学会の論文発表、これが学会で自分が発表する最初で最後になってしまったのだが、好評で、特に猪野竣先生(アワビの研究の大家)には、特別に褒められた。学業は中等だったが、研究は優等で卒業した。
宇野先生の指導は、今振り返って見ても、方法論の違いはそれぞれで、多々あるとして、優れていた。
そして、僕の冒険的性格と、ほんの数回潜水して、潜水をほとんど誰もやらなかった時代ではあったが、自分はできると思いあがった。もしも、命を落とせば、その可能性は十分にあったのだが、先生はどうなっただろう。後に名誉教授になられたが、すくなくとも、それは無かったとおもう。
海を研究のフィールドにし、テーマにして、大学で潜水をさせるということ、教師にとっても、大変な冒険なのだ。今、日本の多くの大学で、多くの研究室でダイビングは避けられている。火中の栗なのだ。宇野研究室はダイビングを駆使する研究室、先生は、その後も火中の栗を次々と拾って行かれた。
しかし、僕は、大学を卒業して、行くところがなかった。スクーバ・ダイビングができる。当時最先端のリサーチ・ダイビングの技術がある。それは、通常の就職の役には立たなかった。
今の学生、大学には、時代の変転で売り手市場、買い手市場の差はあっても、求人がある。東京水産大学増殖学科には、求人は無かった。教職課程を採った者には若干の求人があったが、教職課程を取らなかった。今振り返って、その後の自分の軌跡をみると、教職に向いていたかもしれない。が、教職課程を取るよりは、ダイビングがしたかった。ダイビングを教えるという考えは、まだない。
就職口がある、行き先が決まっているのは、東大の大学院に入学する桑原連(後に東大の助手になる)優等生の原武史(後に水産庁中央研究所の所長になる)鈴木稔(大島の水産高校)ぐらいだった。地方出身者は、コネを頼りにどこかにもぐりこもうと画策中だった。何人か、バディの原田進らは、真珠の養殖場にいくことになった。水産試験場には、縁故をたよって、用務員で入り、やがて、技師補になり、技師になる。ただ、同期がいないので、みんな後には場長にはなった。
母一人、子一人、東京を離れることができなかった。伝手をたどって、深川の古石場にある日本建設機械という会社に入った。名前は立派だったが、仕事は建設機械のスクラップ再生工場だった。進駐アメリカ軍が持ち込んだブルトーザやシャベルドーザのスクラップをただ同然で買ってくる。全部バラバラにして使える部分だけを使って、二台か三台を一台に組み立てるのだ。
機械のことは何も知らない,何も出来ない僕の仕事は、「泥おとし」だった。カンカン虫とも言う。金槌でカンカンたたいて、錆を落としたり,泥を落としたりするからだ。
スクラップの建設機械は、雨ざらしになっていて、泥にまみれている。この泥をこそぎ落として、スチームクリーナーで蒸気を吹き付けてきれいに洗う。「泥おとし」が終ったならば、ボルトナットで締め付けられて組み立てられている部分を全部取り外してバラバラに分解する。分解した部分は、ガソリンで洗い、付着しているグリースオイルをぬぐい去る。きれいに洗うと、磨耗している部分や、弱くなっている部分がわかる。悪い部品を良いものと取り替えて、再び組み立てると機械は生き返ってしまうのだ。
泥にまみれた労働だったが、そこで、機械についてのいろはを学んだ。機械のほとんどは、ボルト・ナットで締め付けられ組み立てられている。ボルトナットの取り外し、締め付けはボックスレンチ、かそれとも眼鏡レンチと呼ぶ工具を使う。ボルトを見ただけで、適合するサイズのレンチを手にとらなければならない。それができないからと言って、年下の少年工員にいじめられる。大学を出ていなかったというだけで出世できない話は良く聞くが、大学を出ているというだけの理由でいじめられる世界があることを知った。しかし、おかげでそれができるようになった。
普通、ボルト・ナットの締め付けは、モンキーレンチと呼ぶサイズフリーのレンチを使う。しかし、それではだめなのだ。締め付けが緩いのだ。振動で緩んでしまう。飛行機でも、自動車でも、そしてブルドーザでも、ボルト・ナットの緩みが、事故の原因になる。修理、組立の途中で、分解と組立を繰り返すことが多く、どうせすぐ後で分解するのだからと、緩く仮締めする。これも厳禁、別の者が組み立てを受け継いで、一応ナットが締めてあれば、締め付けの度合いを調べないで、そのまま組み立ててしまうかもしれない。
マニュアルというものも覚えた。工場でいうマニュアルは、ダイバーが使っている講習とか運用のマニュアルとは違う。器械の組み立て図をいう。バラバラにした器械は組み立て図、マニュアルを見て、組み立てる。この工場で扱っている土木機械はIH、アイエイチ、インターナショナル・ハーベスターというアメリカの会社製のものであった。だから、マニュアルは全部英語だが、英語はわからなくても、図でわかる。わかるようにならなければ、いけなかった。
この工場のあった場所は、深川、今の僕の事務所からあるいて5分、古石場図書館の隣で、今、工場は跡形もなく、駐車場になっている。近くに事務所を構えたのは、何か潜在意識が働いたのだろうか?
昼休みになると、重いものを吊り上げて移動させるガントリー・クレーンの上に登る。高く登ると、東京湾の海が見えるような気がした。深川からでは、海は見えないのだが、見えるようでもあった。青黒く濁った運河が真下に見えて、その匂いが潮の匂いのようにも感じられた。海にもどらなければいけない。
あの人工魚礁への潜水でのエア切れも、振り返ってみればすばらしい体験だったように思えた。あの体験も生かさなければいけない。
仕事も慣れてみればおもしろくないことはなかった。いじめてくれた、少年工員も懐いてきた。工場長に「良く我慢している」と誉められた。三日で止めると思っていたという。海にもどらなければいけないという思いがなければ、もう少しこの仕事を極めても良いとも思った。
が、夏の終わりに、この会社を辞めた。仕事とはどんなことなのか、就職するということ、本来の自分がやりたいこと、ずいぶんたくさんのことを学んだ。別に行く当ては無い。