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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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ダイビングの歴史 42 1958年(2)サザエの棘

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  ザエには棘のあるサザエと棘のないサザエがある。波の静かな内湾のサザエは刺がない。瀬戸内海びサザエには棘がない。荒い波の打ち寄せる外海のサザエは刺がある。外房のサザエには棘がある。

 棘とは、国語辞典によれば、「植物の葉や茎、動物の体表などに生ずる小さな突起」とある。刺と書くと、刺すという表現もあるし、触ったら痛いものと受け取られるが、サザエの棘は、ただの突起のようなものであり、触れても痛くない。突起と呼ぶべきかもしれない。しかし、一般には棘、トゲと呼んでいるから、ここでも棘と呼ぶことにする。


 サザエの殻をルーペで良く見ると、ちりめん皺のような線がある。これが、日周の成長線で、この線の間隔だけ、一日に成長する。成長線を365本数えて印をつける。これが一年間にサザエが成長した分であり、そこに鉛筆で印をつければ、植物の年輪に相当する線になる。
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  サザエの日周成長線  皺のような線  
        
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 内湾と外海が連続してあるところで、サザエが数多く棲息している場所があれば、棘が出来る棲息場所と、棘が出てこない場所が接しているはずで、潜水して詳しく調べれば、棘ありと棘なしの境界線を引くことができるだろう。そして、その両方の環境を調べれば、サザエと環境の相関関係を調べることも出来るかもしれない。
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           波浮の港 黒い線が ライン 仮想


 伊豆大島の波浮の港は、巾着港と呼ばれる。巾着のような形で、巾着の口の部分で外海と繋がっている小さな内湾だ。もともとは噴火口であり、噴火口のカルデラに水が溜まった小さな内湾であり波の影響を受けない。そして、外は太平洋の波が打ち寄せる荒磯だ。港の中にも、巾着の首の部分にも、そして外海にもサザエが居ることがわかった。そして、外の荒磯にいるサザエは立派な棘があり、港の中のサザエには棘が無いこともわかった。巾着の首の部分に棘ができる境界線があるにちがいない。
 僕と原田は、宇野寛先生の下で、卒業論文のテーマとしてサザエの棘の研究を選んだ。
ダイビングを駆使してサンプルを採集して卒業論文を書くわけだから、潜れる。しかも、伊豆大島だ。
 小湊の潜水実習では、安全のためにラインを曳いて潜った。
 メナードと言う人が書いた、水中地質調査の論文がある。(Menard.HD.1964)この論文の研究方法のところに、ライン調査の方法が書いてあった。これを訳して、検討し、私たちの採集方法として採用した。現在では、ライン調査(ライントランセクト)は水中環境調査、水中生物調査の定番的な手法になっている。
波浮の港の内から外海に向かって目盛のついた長い測量用の巻尺をラインとして伸ばす。このラインの両側を1m巾で、つまり両側で2mの巾の間のサザエを大小を問わずすべて採集する。サザエを採ったならば、水中のその場でラインの目盛を確認して、殻の内側に鉛筆で目盛の数値を記す。ラインの始点と終点は、陸上の目標を六分儀で測定して位置をだす。(三点侠角法)これで、採集したサザエの一個一個について、採集場所を海図の上に位置づけられる。
 
 今でこそ、日本全国どこに行っても空気を充填したタンクを貸してくれるところがあり、中でも伊豆大島は人気のあるダイビングスポットだから、タンクに充填した空気に不自由はしない。しかし、1958年、昭和33年だから、伊豆大島はおろか、日本の地方ではどこにもタンクを充填するところはない。
 1959年に後藤道夫が真鶴にダイビングセンターを作ったのが、日本初である。真鶴以外の場所では、小さな高圧コンプレッサーを持参するか、それとも充填済みのタンクをたくさん持って行くしか方法はない。私たちは、親ボンベ(酸素溶接に使う、酸素親ビンの大きさの大ボンベに空気を充填したものを買うことができた)で空気を運び、背中に背負うタンクに高圧空気を移して使うことにした。持参した大ボンベは3本、出来るだけ空気を節約しなければならない。
 
 僕らには、とにかくお金がない。波浮の港から、築地にとれたての魚を運ぶ、熊栄丸という運搬船がある。これに親ボンベをのせてもらい、ついでに僕らも乗せてもらって、交通費を節約した。宇野先生は、さすがに東海汽船で来た、おいでになった。
 宿泊費がかからないように、水産試験場の網置き場に寝泊まりさせてもらった。水産試験場には倉田洋二先生が居られて、サザエの棘の情報も、倉田先生から、宇野先生にもたらされたものだった。これらのお世話をいただく代償に、僕が倉田先生に、潜水を伝授することになっていた。


 ※倉田洋二 ポイントになる人名は、※で説明しておく、出版でリライトするときにどのようにするかは、未定


 これがご縁となって、倉田先生とは、生涯のおつきあいをさせていただくことになるのだが、東京水産大学(現海洋大学)の前身である水産講習所は、東京の越中島に本校があり、下関、韓国の仁川、南洋のパラオに分校があった。倉田先生はパラオ分校の卒業生で、パラオ現地の人ではなく、日本人で、パラオで学徒動員で出征して、激戦のアンガウルで玉砕する。倉田分隊長は何とか生き延びて、密林に隠れる。米軍の残飯あさりで食いつないで生きる。やがて終戦になり、米軍は、隠れている日本軍人に投降を呼びかけるビラを撒くが、投降しないで潜みつづける。このまま行けば、
グアム島の横井庄一さんのようになってしまうのだが、残飯を漁っていて英字の新聞を見て、本当に日本は降伏していることを見る。英字新聞まで、嘘はかかないだろうと、投降する。戦後、東京都の水産試験場に職を得て、伊豆大島分場での技師になり、サザエの棘の情報も、倉田先生から、宇野先生に伝えられたものだ。
 その後、小笠原が返還されると、小笠原の東京都水産試験場、小笠原支所長になる。返還後しばらくは、小笠原に行っても、島で宿泊することができない。船で泊まって、そのままその船で帰ってくる。理由は、水洗など下水設備が整っていないので、民宿とかホテルが許可にならなかったからである。日本領であった終戦までは、水洗ではなく、汲み取りだったから、多くの人が住むことができた。
 そのころ小笠原に行った僕は、倉田先生の弟という触れ込みで、倉田先生の宿所に泊まって、小笠原で潜った。
先生は、波浮港から少し離れた、トウシキの浜という場所が気に入って、3日間続けて通った。このトウシキでの採集は、私たちの書く論文とはあまり関係がないように思えたが、とにかく先生がこの場所を気に入ってしまったのだ。それに私も、この場所が気に入った。
 その後、倉田先生は小笠原では、ウミガメの増殖を専門にされ、晩年は学生生活を送られた、パラオに還り、ワニの養殖をされた。そのようなことども、旧著「ニッポン潜水グラフィテイ」に書いたので、贈ろうとしたら、間に合わず訃報を受けた。


 さて、伊豆大島だが、波浮港で三点夾角で位置を決めながらラインを引く、同時に、波浮以外でも、潜水してサザエを探した。トウシキに行った。


 試験場から、リヤカー(人力で引っ張っる運搬のための車)にタンクと潜水道具、採集道具を積んで出発する。港を後ろに見て坂を登って行く。道の側には松の木の大木があり、松の木の間から海が見下ろせる。坂を登り切って、坂をくだりかけて、海の側に折れる小道を下って行く。下り終わると、溶岩のゴツゴツの磯が広がっている。その先に、試験場が魚を生かしておくプールを作った跡がある。海とつながっているので人工のタイドプールである。プールへ通じる細いコンクリートの道がある。こわれかけているのだが、半分ぐらいまではリヤカーを曳くことができる。残りの半分はタンクもウエイトも全てをかついで歩かなければならない。今のように自動車があるわけではないので、試験場から人工タイドプールまでの道のりの往復は、かなりの労苦である。
 人工タイドプールの外壁は、磯に面していて、高さは50センチぐらい、飛び込みの練習にも役立つ。上部は平坦でタンクや道具を置くこともできて便利である。
 その状態は、今、2020年代でもほとんど変わらない。トウシキの人工タイドプールは1958年から、今のようなのだ。
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             トウシキ


 外壁の15メートルほど先に、溶岩でできた岩礁が防壁になって波を防ぎ、天然のプールのような澪になっている。澪の両端は海に通じていて、潮は自由に右から左、左から右に通って行く。潮通しが良いから水もきれいだ。この天然の磯が作る防波堤は、二重になっていて、澪の向こうにももう一つの澪が作られている。澪の中の水深は外側の澪の一番深いところで7mぐらい、手前の澪は3m前後だ。ホンダワラの類とアラメの類が混ざって生えている。
 本当にきれいな天然のプールなのだ。この場所、トウシキは後に潜水の仕事をするようになってから私の仕事場の一つになった。講習もここで何度もやったし、映画の撮影も、テレビの撮影のスタジオにもなった。水中結婚式というのもテレビでやり、この場所が教会になった。
 ただしかし、このトウシキのプール、今は流れが速くなった。昔は流れも緩やかだったので、水中結婚式もできた。
 
 荷物を肩から降ろし、腰を降ろすとほっと一息つく。足もとの海はすきとおっていて、波がまったく無い。

 フィンを履き、マスクを顔に着ける。スノーケルを使う習慣は未だ無い。重い器材の運搬で汗ばんだ身体を水に入れる。水の中を覗き込んだ。サンゴイソギンチャクがコンクリートの直下の岩に生えていて、オレンジ色の太い横縞のあるクマノミが十数尾群れていた。水に入って、ほんの2m程先だ。
  宇野先生は、沖の澪筋で一つのくぼみから十数個のサザエを採集した。これにいたく感動したらしく、後日先生の書いた博士論文でもこのサザエのことが記載されていた。
 このトウシキで、私はカツオノエボシに刺された。カツオノエボシは毒性の強いクラゲで、クラゲの身体は水面から見たら、浮いている泡のように見え、刺胞のある足は長く、水中では見分けがつきにくい。
 手首の辺りが刺胞のある足に触れた。ビクット痛みを感じた。次の瞬間、脇の下のリンパ腺が猛烈に痛くなり、痛みで身動きできなくなった。岸に這い上がり、倒れ込んだ。およそ、10分ほどで、痛みは小さくなり、動けるようになった。やがて、リンパ腺の痛みは無くなり、刺されたところにミミズ腫れが残った。トウシキの澪で、岸にすぐに這い上がれたから良かったが、沖でのことだったら、そして、身動きできない状態の時に、次々に刺胞に指されたら生命の危険がある。夏の伊豆七島では、黒潮に乗ってくるカツオノエボシが恐い。


  大ボンベに充填した空気が次第に少なくなって来た。倉田先生にアクアラングの水中脱着の手ほどきをしたら、3本持って来た親ボンベは残り1本になった。
 宇野先生が東京に戻ってしまってからが、本格的な調査の始まりだが、タンクは一本だけだ。タンクの空気は出来るだけ節約して、息を止めて潜る素潜りでほとんどの採集をしなければならない。どうしても素もぐりで潜れない深さだけにタンクを使うことにした。ラインを海底に引っ張り、最初は浅いところ、3メートルぐらいから始め、次第に深く、5m、8m、そして10mへ、相棒の原田は、5メートルぐらいまでしか潜れない。8m以上では、彼は舟をこぐ係り,水産試験場にも櫓漕ぎの小舟があったので、それを使わせてもらった。私は潜る係りになった。毎日潜り続けるので、身体は疲れ果て,次第に痩せてきてガリガリになり,目ばかりがギョロギョロするようになった。しかし、身体の動きは良くなった。やせ細っただけ水中での動作は機敏になった。潜水漁師の海士は、きっとこのようにして一人前になるのだろう。忍者は麻の実を地に蒔き、芽を出して,伸びる麻の苗を毎日飛び越す練習をする。忍者が高く飛び上がれるのはこの訓練の成果だというのだが、ライン調査で、次第に深みに向かって素もぐりを重ねれば、期せずして素もぐりのトレーニングを重ねることになった。
 港の中から出口に向い、そして,港の外にラインが伸びるにしたがって水深が深くなる。私は着実に上達し、水深20Mまでは潜れるようになった。これは当時の日本人としては自慢できることだった。今でも、水深20mに連続、繰り返して潜れるダイバーはそんなにいないだろう。
 どんなに疲れて戻ってきても,その夜のうちに,採集したサザエの処理をしなければならない。そのままにして置くと腐ってしまう。一個一個重量を測ってから茹で上げて、身を抜いてしまう。抜いた身は食べるのだが、ありとあらゆる食べ方をして見た。刺し身、壷焼き、天ぷらもやったし、漬物も作って見た。なにしろ千個を越えるサザエだ。サザエには独特の匂いがある。その後20年間、サザエは食べたくなくなった。
 
 港の外のサザエには棘がある。波が打ち寄せるトウシキの磯で獲ったサザエにはすべて棘があった。港の中のサザエには棘がない。波浮の港は、巾着の口のように長い回廊になって外海とつながっている。回廊の出口に近い地点には、棘のあるサザエも居るし、棘の無いサザエもいる。境界とおぼしきあたりのサザエは、棘が短い。このあたりを徹底的に調べることにした。ラインも縦横に何本も引いた。
 個体が小さい頃には刺が生えていたが、途中から無くなってしまったサザエ、最初は生えていなかったのだが途中から生えてきたもの、そして、最初は生えていて、次ぎに刺が無くなり、また棘が出てくるサザエも見つかった。これは、棘の生える海域と、生えない海域を往来したサザエだろう。
 サザエが体調も良く、のびのびと育っている海域では棘が出て、なんとか最低限度の生育をしているところでは刺を出す余裕が無いのではないか、人間的な考え方だが、そうでもないらしい。サザエは、かなりの移動をするから、育ちやすいところと育ちにくいところが隣り合っていれば、良い方に皆移動してしまうだろう。刺の生えない海域は、サザエにとって棲み心地の悪い場所というわけではないらしい。刺の生える所で生まれて、ある程度まで育ち、刺の生えない海域にやってきて生育する個体も少なくない。
 外海に出ると、流れが速い。波浮の湾口は船の難所である。櫓で漕ぐ小船では危なくて、ロープラインは引けない。スポット的に潜ることにした。もはや、親ボンベの圧力は下がってしまっている。スクーバのタンクに移しても、50キロぐらいにしかならない。水深は、20mを越える。原田はスクーバで潜り、私は素潜りで行くことにした。持っている空気は少ないから、今思うと、スクーバで、素潜りのような潜水を20mの深さでやる、ヨーヨー潜水の典型だ。よくも減圧症にならなかったものだ。


 何も知らなくても、減圧症にもならず、事故を起こさなかったのは、ただ運が良かったからだろうか、それもと人間とはタフで、なかなか死なない生き物だからだろうか。
  沢山の成果、サザエの殻を持って東京にもどった。


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三越屋上の円筒アクリル製プール      
 三越屋上の水中脱着

 「三越本店屋上大水槽に於いてアクアラング実験公開・昭和33年8月5日~31日」 日本潜水科学協会機関紙・どるふぃん より。

 直径3m深さ3mのアクリル製円筒形のプールが日本橋三越本店屋上に運び上げられた。水を入れたならば、屋上の底が抜けて、三越本店が水浸しになるのではないかと心配された。
 この実験というか、ショウに間に合うように、伊豆大島の卒業論文から戻ってきた。
 実験公開と言ってもただ潜って見せるだけだ。アクアラングが見世物になるくらい珍しかったと言える。金魚鉢の中の金魚になるわけだ。
 私は若く、体型は十分に美しい若者で通った。二人一組になって潜ってくれる女性ダイバーは、8月2日、3日に真鶴海岸で行われた日本潜水科学協会の第三回スキューバダイビング中級講習会を修了したばかりの、伊東淳子さん、乾康子さん、たちだった。伊東淳子さんは、学習院に通っている可愛い女子大生、乾康子さんは素晴らしい美人だけれど、東大教授の奥様だった。他にも見世物になりたい男性はたくさん居たのだが、何とかしてたくさん出られるようにがんばった。
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     三越屋上に遊びに来た原田(左)と上島(右、後に日本アクアラング社長))
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 出し物?は、二人で一つのレギュレーターから交互に呼吸するバディブリージングと水底にタンクセットすべてを脱ぎ捨ててきて、再び潜って着けて来る水中脱着だった。バディブリージングは誰にでも出来るが、水中脱着は少し難しい。水産大学の潜水実習でも、協会の中級講習会でも、水中脱着の練習はプログラムに入っているが、スムースにできるほどの回数は練習していない。僕は上手だった。
 さらに、一日に4回やるから、毎日必ず2回は出るようにすることが出来た。これで水中脱着に習熟した。習熟とは、眼を閉じていても手探りで楽にできるほどまでに熟達することである。他の人に何回か譲ったが、習熟していないから、時間がかかる。失敗して、恥をかくこともある。自然、僕がほとんどやるようになった。
 水中脱着に習熟したことが、僕のスクーバダイビング技術の基本になった。
 水中脱着は、当時は未だ、もしも水中で何かに拘束された時、または空気がこなくなった時の脱出手段として位置づけられていいた。しかし、その後にわかることだったが、空気が無くなって脱出するときには、器材を脱ぎ捨てている時間があるならば、その分だけ早く水面に向かった方が助かる率が高い。脱出方法としては、水中脱着はあまり役に立たない。脱出には役に立たないが、この水中脱着の習熟には、スクーバダイビングの基本技術の全てが含まれている。器材の水中での取り扱い、息をこらえての器材操作、ウエイトの調整、水中での姿勢制御、そして水に慣れることによる自信の獲得、考えられる基本技術の全てがある。
 三越の屋上で練習を重ねた水中脱着の技術が僕の潜水技術の基となった。



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