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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0205   1957年 (4) 協会の一般講習

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 第一回スキュバダイビング基礎講習会
 日本で最初の一般向けの,と言っても会員対象であるが、スクーバ(スキュバと呼んでいた)ダイビングの講習会が開催された。日時は、昭和32年(1957)3月14日~17日 、1月28日の協会発足であるから、かなり前から準備を進めていたのだろうと思う。
 行われた場所は、江東楽天地温泉プール、錦糸町の江東楽天地の何階だったか、とにかく、ビルの上の階にあった。
 講師は菅原久一、猪野峻(東海区水研)、梨本一郎(東京医科歯科大学)宇野寛(都合により不参加)助手は、吉牟田長生(東海区)三次信輔(東海区)後藤道夫、小山武夫、矢野和彦、
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               後藤道夫


 ここで後藤道夫が出て来た。後藤道夫は、2014年に亡くなるまで、1967年の日本潜水会結成から日本水中科学協会に至るまで、一緒にダイビングの事をやってきた。彼は一種の天才で、高校もたしか中退して、菅原久一さんのところに無給押しかけ社員になっていた。
 僕と最初に出会ったのは、僕が大学一年の時だから、1955年、秋だった。葉山の磯に、磯採集がてら遊びに行った時、磯根のかなり沖のあたりで、タンクを着けて潜水の準備をしていた。一緒に潜るのは弟の後藤勇毅君、後にユーゴ(真鶴のウエットスーツ専門店で勇後の意味)と佐藤光三さんで、佐藤さんは後にこれもウエットスーツ屋のサンコーを作る。佐藤さんは潜水せず、岩の上で上回りをしていた。水に入る直前だったので、後藤さんとは言葉も交わさなかった。佐藤さんは、「命がけで潜るところだ」と言っていた。まだ、講習というものは、この江東楽天地が最初だから、それぞれ、手探りでの自習であり、気持ちとしては、命がけだったろう。
 東海区水産研究所は、猪野先生の指導で、研究員の自習的講習を何回かおこなってきたのだろう。
 受講者は、全員の名前は挙げないが、19名で、後に自分とかかわりの出来る人の名前を挙げると、


 竹内庸、当時は日大の学生で、後にHKのカメラマンになり、日本潜水会を一緒につくる。


 高橋昇、後にスイチューというマスクのメーカーになる。浅草の花川戸に居て、テキヤの高橋組親分の息子であるが、組を継がず、不肖の息子だった。奥さんが待合の女将で美人だった。


 井上正昭、神奈川県水産試験所の技師で、1958年の魚礁調査でお世話になる。


 佐藤賢俊、旭潜研の社長で協会の中心である。


 プールの講習でもあり、体験講習に近いものだったのだろう。背の立つプールだから、潜らなかった。浅くて潜れなかった講習である。
 ボンベは、川崎航空機が2セット、潜水研究所(菅原久一)が4セット、東亜精機(東亜潜水ではない)が2セット、東海区水研が3セット、多分、これが東京にあり使えるすべてだったのだろう。
 この講習については、どるふぃん1-2 1957may を資料とした。
 僕らの受けた小湊の講習はその夏7月だった。


 資料にしているどるふぃん1-2には、
 アメリカのスクリップス海洋研究所
 Scripps Insutitution of Oceannography
のSUUBA訓練課程 プログラムが掲載されている。これが、協会の講習の、そして水産大学の僕らが受けた講習の、そして、その後の日本のダイビング講習の骨子になったと思われる。
 
 1.12か月以内における身体検査合格の証明
 2.下記各項の実施 プールの部
  ①75フィート(23m)、フィンを用いずに水面下遊泳(プール)
  ②125フィート 4回以下の浮上呼吸で水面下遊泳
  ③1000フィート遊泳(プール)
  ④マスクあり、又はマスクなしで、スノーケルとフィンによる遊泳(プール)
  ⑤10フィート(3m)の水底より、10ポンド(4,5キロ)のウエイトを揚収
  ⑥フィンを使って、75フィート、10ポンドのウエイト運搬
  ⑦3m潜水して、潜水者の救助
  ⑧75フィートの溺水者曳航
  ⑨もがいている泳者救助
  ⑩人工呼吸
  ⑪フィンなしで、波が砕けている海岸への突入、離脱
  ⑫フィンなしで、波のある海で1000フィート遊泳
  ⑬18フィート:5m潜水 
  以上はスSCUBAなしで


  SCUBAを装着して
  プールで
  ①SCUBAを曳航して遊泳
  ②4~5フィート方向を定めて潜水 ヘッドファーストのこと?
  ③スクーバを用いてマスクなし潜水
  ④スクーバで水面下遊泳中のマスクの水排除
  ⑤呼吸管 ダブルホースなので蛇腹管のクリアー
   圧力差によるクリア ※マウスピースを口から外して、上に持ち上げると空気が出るので、水を排出できる。
   排気管を通して呼気によって排出※体を横に回転させながら強く吐き出す。
  ⑥水底でスクーバを脱いで浮上 エンボリズムに注意 水底に戻って、スクーバを着ける。 水中脱着
  ⑦入水方法 足から先 頭を先 背面より(バックエントリー)船からふっとファースト
  ⑧浮上用具の点検 使用 ※潜降索のことか
  ⑨マウスピースを第二者(バディのこと)との交換
  ⑩用意されたスクーバを水面下で交換


  海面で
 A 桟橋突堤で
  ※まだ用語が固まっていないので、表現を現代に替えて説明
 ①方向を定めての潜水、方向を2回変更 つまり往復することか?
 ②マスクなし水面下遊泳
 ③水底にマスクを置いてきて、潜って着けてくる。
 ④呼吸管のクリアー
 ⑤呼気で呼吸管をクリアー
 ⑥タンクを持っているバディとバディブリージング
 ⑦タンクナシのバディとバディブリージング
 ⑧水中脱着


 B 訓練潜水 4時間


 なお、どるふぃん1-2から、梨本一郎先生が「潜水の医学」連載を始めた。この記事が、1961年の潜水士のテキストにほとんどそのまま使われる。


 


 再び講習会にもどって
 
 なぜか、講習会のタイトルが変わって、「スキューバ・ダイビング初級講習会


 第2回は、兵庫県明石で、5月24日~26日で行われた。
 関西での受講者は、組織、会社からの受講者がほとんどで、海上自衛隊術科学校から2名、海上保安庁水路部から4名 三重水産試験場、兵庫県水産試験場、京都大学、慶応大学、神戸YMCA,神戸新聞、宮地サルベージ 川崎航空 が受講している。
 講師陣、は猪野峻、菅原久一 梨本一郎


 第3回は、東京水産大学プールで、7月6日~8日
 講師は神田献二(東京水産大学)菅原久一 梨本一郎、そして助手に竹下徹先輩、久高喜八郎先輩が加わっている。
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            神田先生


 受講者は11名だが、その中に2名学生が居て、立花慶太郎は、僕の小学校、中学校の同級生だった。立花君はその後、後藤道夫のお客になって真鶴に通うのだが、そのことを僕は知らない。それを知るのは、月日が過ぎ、立花君も年老いて、ダイビングをしなくなってからだった。知っていれば、一緒に潜ったり、おそらく、日本潜水会の中心メンバーになってもらえたのに。
 
 第4回が同じく東京水産大学のプールで、8月29日~31日
 この第3回と第4回の間で、僕らの小湊の潜水実習があった。
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水産大学プール マスクを着けているのが菅原さん



 講師は、神田献二(東京水産大学)菅原久一 梨本一郎、に加わって、宇野寛、服部仁(魚類学教室)竹下徹、橋本康生(宇野チームで、先輩)さらに吉牟田長生、三次信輔の東海区水産研究所のチームが加わった。
 受講者は、男性9名に加えて女性が7名、初めて女性がスクーバ講習に参加した。


 男性は
、三沢章二(東亜潜水機社長)
 大崎映晋(ダイビングの歴史 6 素潜り漁 1 海女の潜水の項で紹介)
 山田尚文(後に協会の支部を作り活動する)
 学生として、永持毅(慶応の学生で、後に、舘石昭の水中造形センターの第一号社員になる。僕の90m潜水にも参加、白井祥平のバルーナ探検隊に参加、その後、ヒューレット・パッカードに転じ、今でも年賀状のお付き合いが続いている。)
 河田和光(水産大学の学生だが、潜水部には入らず、別の活動をしていた。親しくしていたが、その後の状況は不明、調べたい。)
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 女性は、須沢淡路(どるふぃんに詩の寄稿をされている)乾康子(東大の造船工学教授夫人で、協会の役員になる)伊東ヒデ子(協会の役員)宇野富美代(宇野先生の奥さん、画家である。)伊東栽子(スイミングスクールのコーチをされていて、協会の役員、タネコおばちゃんとして親しまれた)伊東淳子(タネコおばちゃんの娘、学習院の大学生で、翌、1958年の三越屋上でのアクアラング・実演に僕と一緒にでる。その後、舘石昭のモデルもする)


 この第4回までの講習で、協会の活動の中心になる人がだいたい出そろった。


 第4回(8月29日~31日)の前になるが、7月29日ー31日 に、小湊実習場で、第一回の中級講習会が行われる。初級:プール、中級:海 で一応の講習修了という考え方だったのだろう。
 第一回中級の講師は、海老名謙一(東京水産大学 魚類学教授、スポーツマンであり、大学の一年次に館山で行われる水泳実習、主に遠泳とカッター漕ぎにも参加され、スクーバの実演を生徒の前でやって見せていた)宇野寛(東京水産大学講師)増田辰良(東京水産大学、宇野先生の後任の小湊実習場、場長でタフなスポーツマン、残念なことに早逝されてしまった。)服部仁(東京水産大学、魚類学講師、海老名教授の教室の後任である)菅原久一、吉牟田長生(東海区水研)三次信輔(東海区水研)


 受講生は14名で、佐藤賢俊(旭潜水研究所)桜井祐(神奈川県水産指導所)岡茂雄(医師、岡先生は協会の役員)竹内庸(日大学生、後にNHK)大野保彦(美津濃)本吉忠夫(川崎航空) 朝日ニュース 3名、水路部3名 河田和光(東京水産大学学生)他に、夷隅高校水産科の教員2名、大原漁協の職員1名が特別参加した。


 プログラムは
 初日 7月28日 集合、移動、打ち合わせ 自己紹介
 二日目 7月29日 
  午前、100m、フィンマスクで泳ぐ、25m潜泳
     水中息こらえの時間測定
  午後 潜水台にて,スクーバ使用
     6mまで潜水、マスクなし潜水、マスクの着脱
 三日目 7月30日
10mまで潜水 
  バディブリージング
四日目 7月31日
  午前 水中脱着
     バディで自由潜水
  午後 座談 フリートーキング


 
 1957年のまとめ
  1月に協会が発足し、3月からプール講習が9月までで4回、7月には海で中級講習、講師の中心になったのは、猪野峻(東海区)菅原久一、梨本一郎(医科歯科大学) 東京水産大学と東海区水産研究所が講師と助手を出し、スクリップスのプログラムを参考にしながら、日本における科学研究者、学生、一般スポーツダイバーの講習プログラムが出来上がり、協会の中心になる人たちも講習を受けて、協会の形もとととのってきた。
  東京水産大学の講習も平行して形ができ、それを須賀は受講した。
  名実ともに、日本のスクーバダイビング元年と言えるだろう。1953年に種子が播かれ、1957年に発芽したとも言える。
  自分については、潜水実習を受講し、ダイビングクラブを創った。


 実習のフィールドになったのは、東京水産大学小湊実習場で、前に説明したように非常に良い磯であり、また入り江は安全な限定水域であった。
 
  
     

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