潜水講習は終了したけれど、アクアラング・スクーバで潜るチャンスがない。何とかして潜りたい。ダイビングクラブを作り、宇野先生を顧問にすれば、できるのではないか。前年、56年に奄美に同行した一学年上の橋本先輩、そのバディの竹下先輩、この二人は宇野先生のところで、小湊の磯で、サザエをテーマにした卒業論文を書くための潜水調査をしている。それに自分のバディの原田進を加えて、先生のところに相談に行った。なお、宇野教官は、前年度まで小湊の場長であったが、品川校舎で、鹹水増殖学教室を堀先生より引き継いでいた。なお、先生はまだDr.ではなく、そのためか講師であった。先生の時代、学徒動員で出征する世代であり、モーターボートのような特攻挺・震洋の訓練を受けていたので、博士取得のための研究をする時間がなかったのだろう。結果として、竹下先輩等のフィールド調査と、僕らの調査の結果をまとめた研究で博士になられた。
できあがったばかりの宇野教室の売り物はアクアラングだったろう。まだ、全国の大学で、アクアラングを使っているところは無く、この後に行われるダイビング協会の講習に若い先生が参加するなどして、拡大していく。そんなことで、ダイバーとして、研究スタッフとしての労働力確保が必要であったので、クラブの結成は賛成、支援してくれることになった。
一年下の二年生にも声をかけたところ、何人か集まったので、プールでボンベを使う練習を実施した。時はもう秋、プールの水は冷たく、5分で震え上がったが、とにかく体験はできた。
そして、大学祭、東京水産大学では海鷹祭にクラブで展示をした。竹下さんがつくった二眼レフ、白井さんから、何台かのハウジングを借りてきて、ボンベとレギュレーター、そして、水中写真を展示した。
当時のの水産大学 キャンパス?? 遠くに工事中の東京タワーが見える
現在 ほぼ同じ場所
このクラブが日本の学生ダイビングクラブのはじまりだが、何も考えず、ただ自分たちだけでスクーバを使って潜りたいというだけだった。クラブの規約を真剣に考えたこともないし、その名称も水産大学ダイビングクラブだったのか潜水部だったのか、定かな記憶がない。記録がないので確たることが言えない。
そんな風にスタートしたのだが、ダイビング界に排出した人材は多い。
これは、その時の記念写真だったと思う。
左から、 原田進 生田国雄、浅見国治、岩橋義人、橋本康生、座っている須賀次郎、右端が竹下徹
礼をとって先輩から記述する。
竹下徹先輩とは、本当に長いつきあいで、つい先頃亡くなるまで、陰に陽にお世話になった。このダイビングの歴史で、1950年代の部分、学生時代について使った写真の多くが竹下さんが撮影したものだ。
自分が撮影した写真も本当に数多かったのだが、引っ越しの際に紛失してしまった。返す返すも残念だが仕方がない。今のように、二重三重に保管している状況ではなく、茶箱一つが紛失してしまえば終わりだった。
竹下先輩は大学卒業後、海上自衛隊の幹部候補生となり、江田島を卒業した後、横須賀の水中処分隊の副隊長(掃海艇の艇長)呉の処分隊の初代隊長になる。詳細は、その都度、その項で書くことにするが、海上自衛隊の潜水に大きな足跡を残している。
橋本康生先輩は、1956年の奄美大島探検でお世話になっていて、一番仲の良い、優しい先輩だった。卒業後真珠会社に就職し、1987年に、ニュース・ステーションで牛深にロケに行った折りに、自分の泊まった宿まで挨拶にきてくれた。それが先輩と会った最後だった。その後、何かがあり、行方が知れない。同級生の竹下先輩に訊いても言葉を濁すだけだった。
原田進は、真珠会社に就職し、生涯親友で、年に一度は会っていたが、大酒のみであったために、癌が膵臓にでき、6?歳で亡くなった。
1学年下 二年生は
生田国雄 は、大分大学の教授になり、重金属による海洋汚染の研究に際して、博多湾での調査を手伝った。
浅見国治も、生涯の友で、日本アクアランクに入社、共著で「アクアラング潜水」を書き、1967年には、日本潜水会を後藤道夫と僕と、三人で立ち上げる。
岩橋義人 は、後に静岡県水産試験場の場長になる。
ここには出て来ていないが、
二年生 遠藤徹 後に旭潜研、独立して福岡潜水、ウエットスーツの販売で成功した。
一年生は、笹原捷夫 木曜島で南洋真珠の養殖に従事して、木曜島の潜水ことを書いた「ワンガイ・ナッツ」を出版、帰国後ブリジストンに入社し、後に土肥の101の所長になる。同じく一年の蜂屋禮も、南洋の真珠に就職した。
※ この1957年に大学3年、1958年の大学4年までを自分的に、スクーバダイビング黎明期と考える。そして1959年東亜潜水機入社から1965年の日本ダイビング協会、1958年に日本潜水科学協会と改名した協会が海中開発技術協会に変わるところまでを一区切りとしたい。
二部構成にすると、していたが、三部構成になるかもしれない。とにかく書いてみて、それから削ろう。
※備忘
海洋大学70周年の記念誌には、部員のその後について、今、自分が上に書いたようなその後をできるだけ書いて それぞれが、知る限りを書いて、まとめるように提案しよう。