1957年は、自分がダイビングの講習を受けた、自分のダイビングライフ元年であるが、他にも重要なトピックスがあった。その一つは、日本ダイビング協会の発足であり、もう一つは、大学でダイビングクラブをつくったことである。これは、学生のダイビングクラブ第一号であった。
日本ダイビング協会の設立は、1月であり、順としては、これが最初になるのだが、1月28日、霞ヶ関の合同庁舎ホールで発会式が行われた。まさに官民一体となっての協会であった。僕はまだ、ダイビングの正式な講習は受けていなかったが、自分の生涯の仕事はダイビングだと決めていたから、直ちに、発会式に参加し、その当日に、入会を申し込んだ。会員番号130 学生会員第一号である。自分の今後の活動は、この協会を舞台にして展開していくだろう。そうしたい、と思った。望みどおりに、この「ダイビングの歴史」も、このダイビング協会を芯にして進行していく。
これまで、潜水を目的目標にした協会は、存在していたが、一般の学生が入会できるような協会はなかった。つまり、だれでも、ダイビングをしたいという考えがあれば、ダイビングができる時代の到来である。ただちに、機関誌「どるふぃん」が発刊される。
その「どふふぃん」の巻頭で、初代会長となる佐々木忠義(後に東京水産大学学長)が述べている。
「日本ダイビング協会は、潜水のアマチュアや専門家、海に関する研究者、アクアラングをはじめ各種の水中機器のメーカー並びにその研究者等々の広範に亘る人たちを包含した団体で、対外的にはフランスやアメリカその他の諸外国のこの種の機関ご親密な連絡をとり、情報の交換を行いつつある。つまり、国内的には、広義のダイビングに関する権威ある唯一の団体であり、国際的にはわが国を代表する正式機関である。そして、わが国の潜水人口を増やすことに協会は最善をつくしたい。」
この理想のようにことが進行しているならば、日本の潜水界は、自分の思う理想のようなものになっただろう。自分はその実現と維持に全力を尽くした。そのことをここから、書いていくが、ものごととは、その成った形、姿を否定しても、意味のないことであり、成った姿、形の上でできるだけのことをする他ない。
とにかく、理想の形でダイビング協会はスタートした。
発表された初代役員は、
会長 佐々木忠義 東京水産大学
副会長 永淵 正叙 太平洋炭鉱株式会社
猪野 竣 投下行く水産研究所
常務理事 曽根 徹 水産庁研究第一課
菅原久一 潜水研究所
※菅原久一氏については、後に述べる。僕らのダイビングについてのキーパーソンである。
監事 高山重嶺 東大区水産研究所
加藤裕也 西松建設株式会社
理事 川名 武 東大区水産研究所
須田院次 海上保安部水路部
梨本一郎 東京医科歯科大学
渋谷武之丞 大同物産
佐藤賢俊 旭潜水研究所
川本福三 川崎航空機株式会社
その時々の役員構成を見ていくとその組織の状況がわかる。
この協会の仕掛け人、計画者は、旭潜研(旭潜式マスク)の佐藤賢俊さん、医科歯科大学の梨本先生、それに猪野竣先生、菅原久一さんだったと思う。
※ 佐々木忠義
生年明治43(1910)年5月1日 没年昭和58(1983)年10月11日
出生地広島県
学歴〔年〕北大理学部物理学科〔昭和16年〕卒
主な受賞名〔年〕勲二等旭日重光章,レジオン・ドヌール勲章
経歴昭和27年(1952)東京水産大教授、48年(1968)から54年(1979)まで同大学長を務め、名誉教授。海洋物理学の権威で、集魚灯による漁法を開発、37年にはフランスの深海潜水艇で1万メートルの日本海溝を調査。日仏海洋学会会長、日中海洋・水産科学技術交流協会会長、海洋開発審議会委員
北大の理学部から、水産大学に来て、あれよという間に学長になってしまった。アクアラングの波に乗ったともいえる。
ご本人はダイビングはしなかった。
日仏海洋学会は、東京水産大学(海洋大学)とは縁が深く、後に恩師の宇野寛先生も会長になり、自分と共著で「水中写真の撮影」を書いた、小池康之先生も、叙勲を受けている。
☆★★
どるふぃん 1ー1の広告を見てみよう。広告はsの時代の業界を示す。
川崎航空機株式会社
ボンベとレギュレーター
ボンベはアルミタンクであり、オレンジ色に塗られていた。
科学研究所
科研海底写真機 水中カメラ
中にトプコンのモーター駆動、フィルム巻き上げのカメラが入っている。
丸文株式会社
測定器の類のメーカーである。
旭潜研
マスク式潜水器
東亜精機株式会社
東亜式SUUBA
東亜潜水機と紛らわしいが別の会社である。
東亜潜水機も別に広告をだしている。
伊藤精機株式会社
レギュレーターをつくり売り出している。
ここでスクーバのレギュレーターについて
川崎航空 東亜精機、伊藤精機、東亜潜水機、4社がほぼ同じ作動原理、同じ構造、同じような形のレギュレーターを出している。そして、広告こそ出さないが、菅原久一氏の潜水研究所も無印のレギュレーターを出していて、この年、僕らが潜水実習で使ったのは、スピロテクニークの純製が2台、残りは、菅原久一さんの無印レギュレーターだった。このあたりのことについては、また後で述べる。
これが、1957年のダイビング業界である。
どるふぃんの他の注目すべき記事をみると、
アラフラ海から帰って:猪野竣
ヨーロッパ視察談 : 佐々木忠義
協会便り を見ると発会式について
1957年1月26日?東京都千代田区、霞ヶ関の合同庁舎で日本ダイビング協会の創立総会が開かれた。これに先立ち,記念行事として,正午から科学技術庁前のプールで水中機材の展示会および潜水の実演が行われた。「水温5.5度、手の切れるような冷水中でドライスーツに身を固めたスキューバダイバーが軽快な妙技を見せれば、一方からは軽便潜水器が活動を始め、特に我がダイビングクラブの発足を祝して特別出場した厚木基地の米海兵隊潜水クラブの面々による強力な水中銃の発射や,アクアフォーンによる水中会話が目を引き,NHKの水中マイクに向かって,水底から習い覚えた日本の歌を放送して爆笑にうちに実演を終えた。
展示の参加メーカーは,科学研究所(カメラ)旭潜水研究所(軽便マスク式)東亜精機(レギュレーター)伊藤清器(レギュレーター)川崎航空機(アルミタンク、レギュレーター)東亜潜水機(ドライスーツ、ボンベ)大同物産(フランス製ボンベ、レギュレーター)
※ 科学技術庁前にプールがあったのだ。僕も見ていたが、とにかく寒い日だった。日本のこの協会の発足に、米海兵隊潜水クラブの面々が強力な水中銃の発射をして見せたりしている。当時のアクアラングの雰囲気である。