追悼記念像 「波」 銘板に書かれている。
「1954年8月2日 千葉県小湊実験場でアクアラングによる潜水実習中に遭難死した増殖学科3年 旭莞爾、伊藤国彦 両君を追悼し、事故再発防止を祈願して製作した。1955年小湊実験場に設置したが、1985年千葉大学への移管により、同実験場より移設した。」
写真は小池康之先生撮影
この記念像について、
「水中写真の撮影 1973 」の共著者、小池先生からのメールで、教えてもらった。
「ご無沙汰しております。
最近須賀さんのブログを拝見し、少し気づいたことがありましたのでご連絡させていただきます。
*0920(9月20日)ダイビングの歴史
で、小湊の潜水事故の部分に関する記述です。
「ご遺族が名を刻んだ小さい石碑を建てた」「その碑を海洋大に運んだ」とお書きになっておられますが、小湊の主任教官を務めた私ですが、ご遺族が立てたという海岸の石碑は聞いたことも見たこともないのですが、どなたかの記載記述があるのでしょうか?
私が携わった限りでは、水族館の二階に上る螺旋階段の途中に裸婦のブロンズ彫刻が箱のような台座に乗って壁に取り付けられており、これが潜水事故の慰霊碑と聞いておりました。私は実験場主任を拝命していたので、職責上、千葉大に移管されるときにこれを外していったん坂田の実験場に移動して保管しました。その折、木製台座が箱になっておりその中にこれの来歴を書いた書面があったのを記憶しております。
その後、折を見て水産大学の水産資料館に移動して保管を依頼しました。
東京に移動した後は、水産資料館で立派な台座と追悼記念像「波」の銘板と由来(台座の箱の中に入っていた書面?)を付け、一階の入り口奥に展示されておりました。
その後、商船大との合併があり、資料館も建て替えられてマリン・サイエンス・ミュージアムとして更新されましたが、その折に収蔵庫に移動され、現在はそのままの状態で保管されております。
先日、海洋大に会議で行った折にミュージアムによって、収蔵庫に入れてもらって確認してきました(写真)。銘板の記載では犠牲者の同級生が製造したと記されております。添付写真があまり鮮明ではありませんが、銘板が読めると存じます。」
まちがいもあるし、かんちがいもある。本当は、実地に当たって確認しなければならないのだが、時間がない。ブログに出していると、このように知らせて、教えてくれる方がいる。それに甘えてはいけないのだが、おかげで、この像のことを知ることができた。
像は、水面にあれば、二人が死ななくて済んだ、櫓漕ぎの小舟を漕いでいる姿のようにも見える。意図したのだろうか、それとも偶発的にこうなったのだろうか。
この事故のこと、気にして、永いこと追っていたのに、
不思議なことは、この像、小湊でも、東京の品川ででも、何度も見ているはずなのに、見た記憶がなく、誰一人この碑の由来を僕に説明してくれる人が居なかったことだ。1955年に小湊に置かれたのであれば、1957年の潜水実習の前にでも、この像の前に立ち、安全を祈念して実習を開始しても良かったのではないか。
そういう石碑があったという風聞を聞いて、ブログに書いたことが、小池先生の間違いの訂正で教えられた。
大学にとっても、誰にとっても、この事故は忘れ去ろうとしていたことだったのだろうか。決して忘れてはいけないことなのに。忘れないために作られた像なのに。
「忘れない」、事故防止、については、いつも考え続けなければいけない。
もう一度考えよう。
以下は、ここで書く、載せるべき分ではなくて、今後書いて行くダイビングの歴史の事故小史の結論に近いものだが、その出発点が1957年に受講した実習、その時に考えた、1954年の事故だったので、備忘としてここに載せて置くことにする。
僕が1957年に受けた実習を、仮に1957年型と呼ぶことにしよう。
1954年の実習も、この僕らのやった1957年型の実習と同じような方法で行っていた、と想像した。自分としては、それ以外の方法は、想像できなかった。だから、サジッタが直上に居なかったことが事故原因だとかんがえたのだ。そして、宇野先生の、ほんのちょっと、この事故について、漏らした言葉も、使える小舟があるのに、それを水面に待機させておかなかったことが裁判で問題にされたということだった
本当に、舟が上にいれば、少なくとも一人は無事だったろうし、もう一人も助けられたはずだった。
この事故を考えたことで、以後の僕の潜水は、出来れば小舟を使う、さらに出来れば、ラインを使う潜水をするようになった。そして、このおかげで、いくつかの事故を防ぐことができた。
この二人に何が起こったのか、どうしたのか、本当のことは、本人にしかわからない。20mを目指したからだとも書いたが、水深計もないのに、これもおかしい。ブログに書き、フェイスブックに出したら、充填された空気に問題があったのでは?という指摘をうけた。それもあったかもしれない。この時代、充填された空気の質は悪かった。しかし、死亡事故である。空気の質、タンクの空気残は、まず調べただろう。訴訟の決着が突いたのは、5年後である。その5年の間調べて、わからなかった。「疑わしきは、罰せずだよ」と宇野先生は言っていた。なぜだかわからないことは、罰せないということだろう。
はっきりと言えることは一つ、この事故はスクーバだから起こった。
しかし、どうしてもスクーバで潜りたいのだ。とすれば、
ここから先は、もっと先に行ってから書く予定なので、ここでは、仮、だが、
真実は、亡くなった二人が話してくれる他は無いのだから、類推である。二人のうち一人に、陸上での生活ならば、その場に倒れるような事態が起こった。多分、それは循環器障害、腎臓の障害、過労、突然死の原因と同じようなものだろう。
それ以後の、自分の潜水、それは。ここから先の事故小史で書くのだが、自分の会社、スガマリンメカニックで、脇水輝之君は、原因不明で亡くなり、その事故がこの事故小史のラストにするつもりだが、その事故の後、横沢君が、東北の海で、潜水の直前に激烈な腹痛が起こってその潜水には参加せず、その腹痛を医者が調べたところ、小腸からの出血で、大変なことになった。それは、リンパ癌から来た障害で、潜水士の六ヶ月検診では、何の障害もなく、急性のものだった。これが、潜水してからの腹痛だったら、原因不明の急死の可能性があった。
※横沢君は不屈の男で、悪性のリンパ腫にもめげず、その後東邦大学大学院に入って海藻の研究をし、結婚した、一児を得て、その子が5歳になるまで生きた。
一例は潜水の寸前に痛みが起こったから助かり、一例は原因不明でなくなった。僕の60年のダイビングライフでの2例である。
このような事例を助けるにはバディ、そして、ロープ、直上の舟が必要である。1954の事故では、バディは組んでいた。だから、一人が浮上して助けを呼んだ。水泳が得意、元気者であるとは言っても、実習の第一日目である。ラフジャケットも、もちろんBC.など無い時代である。引き上げて、曳いて戻るだけの能力はなかった。やはり直上に小舟が必要だった。
1957年型で行うべきだった、とは、後の祭りである。1954年の反省の下で1957年型が生まれたのだから。そして、以後は、水産大学系列の実習は1957年型であり、僕も以後この型で、講習を行うし、リサーチダイビングを続けている。
たとえば、2008年から続けてきた早稲田大学の生物化学の標本採集のための潜水、これは、広島大学の練習船豊潮丸での航海だが、未知の場所での潜水は、ゴムボートを浮かべ、ゴムボートから降ろしたアンカーから。50mの巻き尺ラインを引く、このラインをランドマークにして潜る。
たとえば50mのラインの基点がゴムボートの下、水深5mであったとして、基点から海底の斜面に沿って、水深20mまでラインを引く、ラインの右側から左に潮が流れていれば、潮に向かうように右手にむかって採集調査をする。残圧、決めておいたターンプレッシャーがたとえば70になったら潮に乗ってラインに戻る。ラインを回収しながら、ゴムボートに戻る。ゴムボートの下で、残圧を使って、安全停止を兼ねた採集をする。これは、浅い水深からの出発だが、深い水深では、やや大型のボートで、潜降索を考えに入れる。
海底地形や、流れ、状況は千変万化だから、その都度約束事は変わるけれど、ラインを芯にしての約束をする。なお、あまり複雑な約束は事故のもとになるので注意する。
流れが強くて苦労したこともあるが、遭難一歩手前になった、というようなこともなく、安全に10年続けられた。少し、油断が出てきたのではないかと思うほど、安全に過ごしてきて。
ラインを張ったら安全だ、などと考えることは、油断であり、危ない。
ボートまで戻れない突然死に近い場合もあるだろう。それはもう、寿命だとあきらめる他ないが、自分の泳力、レスキュー能力と海の状態を照らし合わせて、チームを編成し、潜水方法を決める。
このことは、事故小史の最後にまた違った形で書くことになる。
最後に、1954年の事故、ケアレスだとか、無謀だとか言うことはできる。多分、指導教官の宇野先生、スクーバの経験本数は一桁だったと思う。にもかかわらず、果敢にチャレンジした。そして、事故が起こり、訴えられ、木更津裁判所で業務上過失致死の有罪判決を受ける。それを不服として上告している状況で、1956年に講習を再開し、自分たちの1957年の講習ができる。海はフロンティアなのだ。スクーバダイビングは、当時、黎明期と呼ぼう。無知、経験もない先生と僕らの命がけのチャレンジだったのだ。そのことを思うと、今でも少し涙がでる。
そして、旭莞爾、伊藤国彦 君は命をおとした。この記念像、今は飾られていない。せめて、ここに、そして出版ができれば、なるべく大きく取り上げたい。