1957年、7月
大学三年次、希望者対象で潜水実習が行われ、もちろん参加した。先だって、健康診断が行われたが、息こらえ1分30秒が参加資格だった。
実習期間は一週間、まず潜水医学の講義があり、講師は、医科歯科大学の梨本一郎先生で、わざわざ、小湊までおいでになった。
そして、まず、マスク式の体験、潜水台に手押しポンプを置き、旭式マスクで潜る。全面マスクは耳抜きで鼻をつまむことができないが、3mぐらいまで這うように歩いて潜る。
実習場には、櫓漕ぎ、木製の小舟「サジッタ」がある。サジッタとは、大型プランクトンであるヤムシのことである。ヤムシは、矢のような形で2cmほどあり、矢のように泳ぐ。大学の臨海実験場の櫓漕ぎの小舟は、サジッタと名付けるのが普通らしく、一年生の時に遊びに行った下田の教育大学実験場でもサジッタだった。いま、海洋大学の館山ステーションのサジッタは、櫓漕ぎではなく、船外機だが、サジッタである。
木製、櫓こぎ、5人ほど乗れる、定員は3名?のサジッタは、学生のペットで、一年次の実習の時から、櫓こぎの遊び練習をする。小湊の実習場は、ぼくらの海の家のようなもので、ウニの発生実験、ヒラメの発生実験、などなど、次々と実験がある。
小湊実験場の小さい入り江は、禁漁区になっている。実験場の建物から、海に降りる階段を降りると小さな突堤のような船着き場がある。海に向かって右手の磯には、コンクリートの通路があり、通路を歩いて、左側には観光生け簀、そして潜水台がある。左手の磯は、何もない磯で、磯の先端にはコンクリートの棒杭が立っていて、この杭と右手の磯の先端を結んだ線の内側が禁漁区になっている。
禁漁区は50mプール七つか八つ分ほどの広さがある、とても良い岩礁、藻場で、天然の水中庭園のようだ。今、実験場は千葉大学に移管され、水産大学(海洋大学)の実験場(センター)は、館山に移った。館山の方が東京からの交通の便は良いが、海は、小湊を100点として、館山は60点、辛うじて合格点だ。とにかく、小湊は豊かですばらしい磯で、このごろの潜水用語で言えば、限定水域、コンファインド・ウォーターでもある。
実を言うと二年次の実習、何かの実習で夏に来たときには、潜って禁猟区で、魚を突いていた。禁猟区だから魚を突いてはいけないのだけれど、禁猟区の外で、魚を突いてきた、と、言い訳していた。本当は禁漁区の中で魚をついて、禁漁区の外に浮いて出た。魚は賢くて、禁漁区の内で群れている。
サジッタは、そんな僕らのペットで、櫓こぎは立って漕ぐので、ダイバー^を見張るのに良い。今の学生は、シーカヤックだが、やはり櫓漕ぎの方がいい。
さて、潜水実習だが、マスク式を終えると、潜水台から、岸の小さな舟着き場突堤の間、100mほどだろうか、海底にラインを敷いた。ラインは、測量用の検縄(ケンナワ)を使った。ライン敷きにも、ラインの撤収にも、潜水監視にもサジッタが活躍した。
プログラムは、以下のようなものだった。
①水面をフィン・マスクで泳ぐ。
舟着き場と潜水台の間を往復。なぜか、スノーケルは使わなかった。
フィンはチャンピオン(フィンの項参照)を使った。チャンピオンは、ワンサイズで左・右の区別もない。ワンサイズだから、足の小さい者は、靴下を重ねて履くか、運動靴を履く。足の大きな者は、痛みに泣くしかない。幸いにも、そんなに大きな人はあまりいない。
②水平素潜り、少なくとも、10mは潜ること。僕は楽に30mぐらい潜って顔をだした。
③タンクを背負って、水面を泳ぐ、スノーケルなし。
④水中を潜って、ラインをたどって、潜水台と船着き場を往復。
タンクは、小湊実習場に4セット、館山に4セット(実習の時は、両方使うので8セット)
ただし、コンプレッサーの能力が低かったので、午前に使うと午後までに2-3セットしか充填できない。空気はゼロまで吸った。
⑤マスククリアー練習
⑥タンクを背負って、マスクなしで潜り、水平潜水で、潜水台までラインに沿って潜る。いわゆるマスクなし潜水だ。
⑦仕上げで、舟着き場突堤下で、水中脱着
これを4日間かけて行う。常にサジッタは、みんなで交代で漕いで、水面で気泡を追っている。
講師は、海老名謙一(魚類学教室の教授)宇野寛(小湊実習場場長)服部仁(魚類学教室の助手)実習場の技官 古川さんだった。
受講生は、写真の右から、上島:後に日本アクアラング社、社長、
帽子に眼鏡が原田進、親友で僕のバディ、真珠会社で成功したが亡くなってしまい、この写真は彼のアルバムから使っている。なので、「俺」=原田となっている。
次が須賀。
松原:カナダでマグロの定置網畜養で成功。
鈴木:貝類のコレクターであり、大島の水産高校の教諭になったが、若くして逝ってしまった。
伊藤:大阪で事業家として成功。
清水:南米でウナギの養殖をしようとしたが、ウナギが飛行機の中で死んでしまい、苦闘して船具屋として成功、成功談を先日、母校の海洋大学で講演した。
立川:北陸の水産試験場の場長になり鱒の養殖の権威になったが、亡くなってしまった。
原:全国水産技術協会の統括理事で、現在、僕の日本水中科学協会に仕事を出してくれている。
プログラムは、難なくこなすことができると思ったが、最後の水中脱着は、海底が石で平たんではなく、ウニが多く居て刺さると大変、ウツボが繁殖期?で集まっていて、ウツボの上に手を付いたりしたら噛みつかれるので苦労、プールでやるのとは大違いで、苦闘した。
さて、実は、1954年の項で、事故には少ししか触れていない。1957年の実習で、小湊の海が限定水域のような安全な海であること、そして、自分たちの講習のプログラムを述べたのは、1954年の、日本最初の悲劇の死亡事故のことを考えるに先立って、海の状況を説明したかったからなのだ。こんなに安全な海で、容易、安全なプログラムでどうして二人が同時に死ぬような事故が起こったのだろう?