1954年
中国から日本にかけて張り出す大陸棚が石油の宝庫であると、最初に唱えたのは、新野弘先生だったはずだ。新野先生は、当時、東京水産大学の教授で海底地質学の権威である。
新野先生は調子の良い先生で、学生、僕らに人気があった。地質学の実習で那須塩原の方に行く、あのあたりは、化石がたくさん出て、しかも温泉がある。たくさん歩くが、温泉での夜の宴会が楽しみだった。先生は学生が飲みつぶれるまで飲んで、踊りを踊る。間男が夜這いをかける踊りの名手?だった。そのように、調子の良い先生だから、東シナ海の大陸棚の石油の話など大法螺だという人も居た。日本海油田のこと、中国も知らなかったというより、中国にはまだそれだけの余裕がなかった。現在、東シナ海大陸棚の石油について、日本は中国に完敗である。新野先生は、あの世で悔しがっているだろうか、それとも笑いとばしているだろうか。
新野先生は、僕の兄貴分の白井祥平の親分であり、白井さんのインドネシア探検隊も、新野先生が隊長として、表に立ってもらっている。新野先生が、東京水産大学で、最初にアクアラングを学術調査に使う話と資料を持ってきた。ロバート・ディーツは、海底地質学者である。ディーツ博士は、日本に来て、海山の名前に日本の歴代天皇の名前をつけて、天皇海山とした海底地質学者だ。これで話が結びつく。
僕の恩師の宇野寛先生、当時は助手だったが、水産大学学長の松生先生にアクアラングを買うことを進言して、買ってもらえたのも、ロバート・ディーツが小湊で潜って見せたからだろう。
そして、1954年、2台のアクアラングセットが学生の潜水実習に加わる。その時までの、水産大学で潜水実習は、マスク式、旭式マスクの実習だった。
その潜水台で学生の潜水実習が行われ、1954年、我が国、最初のアクアラング潜水講習で潜っていた学生2名が死亡する。我が国最初のアクアラング潜水事故死である。
講習生二名がアクアラングを着けて泳ぎ出て、やがて、一人が浮いて助けを求めるように手を振るが、助ける暇もなく沈んで行き、捜索し、引き上げたが二人とも死んでしまった。
東京水産大学は、1953年当時、漁業科、増殖科、製造科の3学部があり、漁業科は、魚(水産物)を穫ること、増殖科は、魚を増やすこと、製造科は、魚を加工する事を研究し学んでいた。現在(2022)東京水産大学は、東京商船大学と合併して、東京海洋大学になり、学部も覚えきれない。
※海洋生命科学部 海洋資源環境学部、海洋工学部があり、海洋工学部は、旧東京商船大学である。海洋生命科学部は、海洋生物資源学科、食品生産科学科、海洋政策文化学科、海洋資源環境学部は、海洋環境科学科と海洋資源エネルギー学科である。それぞれが、何をするのか?海洋生物資源学科が、しいて言えば増殖科だろう。
東京水産大学をさらにさかのぼると、水産講習所になり、水産講習所は、農林省の管轄で、学問の研究よりも、学問を活かして産業(水産)を振興させる講習に力をいれていた。したがって、実習が多く、実習場、実習船も多く持っていた。漁業科の実習場は、館山にあり、増殖科の実習場が小湊にあった。潜水実習は、館山の漁業科でも行われていて、漁業科の潜水実習は、神田献二先生、増殖科は、宇野寛先生が担当された。お二人ともまだ若く助手(今の助教よりは、もう少し格が上のような気がする)であった。
実は、1953年のロバート・ディーツ博士の写真は、漁業科の神田先生が撮影されたものであり、神田先生の後を引き継いだ竹内正一教授が、同学年で、親しくしていたので、使わせてもらっている。
その神田先生の行っていた館山での潜水実習は小舟を使っており、小舟の上にポンプを置いて、マスクに送気していた。
館山、漁業科の潜水実習 舟からマスク式で潜水している。
この日本初の事故は、これ以後起こる多数の事故と同じように、それを起こした当人でなければどうしてそんなことになったのか説明できない。そして、解剖による、事故原因の生理的解明も行われていない。
そして、実習場には、櫓漕ぎの小舟があり、それを使えばよかったのに、使わなかったことが、後の裁判で問題になった。このことは、記録・書類を見たわけではなく、この事故について、唯一、宇野先生が僕らに話されたことなのだが、もしも、舟が使えたのに使わなかったことが、有罪になったら、以後の日本では、舟なしのビーチエントリーで事故が起これば、すべて、舟なしが責任になってしまうことだろう。
そして、幸運なことに、その後、自分が危機一髪の時は、必ず水面に舟があったのだが、それは、できるならば、舟を用意しようと心がけて来たからで、それは、この1954年の事故の教訓からであり、単なる幸運とは言えないとも思っている。
この事故の翌年1955年、僕は、東京水産大学増殖学部に入学する。1954の事故のことは、世界海洋探検史など、活字で読んで知っていたが、気にも止めなかった。もともとが水族館少年で、「ユージニー・クラーク 銛をうつ淑女 末広恭雄訳 法政大学出版局 1954」が僕の愛読書で、これは、パラオなどで銛で魚を突いて魚の研究をする話であり、僕が目指す夢の世界だった。クラークさんは、日系のアメリカ人女性で、後に日本にも度々おいでになり、伊豆海洋公園でご一緒したことがある。
東京水産大学は、当時、久里浜にあり、鎌倉に下宿して、休日は、葉山の磯で素潜りの練習に励んだ。
葉山の芝崎という磯で、魚を突く。最初は、突いてくださいと海底で横になっているタカッパ(タカノハダイ)を突き、次には逃げ足の鈍いブダイを突き、秋になり、水が冷たくて潜れなくなるころには、敏捷に逃げるクロダイが突けるようになり、水深8mまで潜れるようになった。
大学一年生、葉山の磯で素潜りしていた
1956年、大学の潜水実習は再開されたが、どこかに行ってしまわないように、鵜飼いの鵜のように、紐付きで潜らされた。自分は紐付きは絶対に嫌だとおもった。後で紐付きのダイビングである、ケーブル・ダイビング・システムを提唱するようになるとは、夢にも思わなかった。
1956年の紐付き実習に、後で潜水部を一緒に創設する竹下徹先輩、橋本康生先輩らが参加されている。
そして、専攻科の、当時まだ水産大学には大学院がなく、専攻科がそれに相当するのだが、専攻科の白井祥平先輩が久里浜に来て、水産生物研究会(通称水研)でお話をされ、僕がダイビングに熱心で、かつ、かなり(8m)潜るということを知り、奄美大島探検に誘ってくれた。
敗戦国日本は、小笠原も沖縄も日本国内ではなく、アメリカの統治下にあった。奄美大島も同様であったが、1953年に日本に返還される。ようやく戻って来た日本最南端の島である。白井先輩は貝類専攻で、真珠をつくるマベ貝の種苗研究に長期奄美に滞在されることになり、その折りに水中撮影もしたい、その時に一緒に潜ろうという誘いであった。願ってもないこと、これが、白井先輩とのご縁のはじまりだった。
マベ貝は、タイラギのような大きな貝で、きれいな真珠層があり、真珠もできるが、惜しいことに真円の珠にはならない。半球だが、白蝶貝などで裏打ちすると、すばらしいカフスボタンや、ペンダントになる。タイラギのように海底に半ば埋もれたようにして生育しているが、これをアコヤガイのように垂下、吊り下げて養殖しようとしているのが、光塚さんという方で、その研究に白井さんが招かれていた。
場所は、奄美大島の瀬戸内で、久根津(クネツ)という部落で、部落の沖にある無人の小島、油井小島(ユイコジマ)に作業所がある。久根津には、今、ダイビングサービス「コホロ」があり、50年余の歳月が流れた後訪ねて、オーナーの太田健二郎さん、かわいい猫とも仲良しになった。部落の方を集めて、僕らが行った1956年のことなどをお話ししたが、はっきり覚えている方は、部落には居なかった。油井小島には、昔の研究施設の跡の石垣が残っている。
1956年のマベ真珠研究養殖場には、アクアラングセット1台とコンプレッサーがあった。しかし、ほとんど使われていないで、僕らのために、何回か充填するうちに壊れてしまった。すでに紐付きの講習を受けている橋本先輩が、紐なしで潜り、僕のために、最後の一本の空気を20キロ残してくれた。
「君は素潜りができるけれど、決して息を止めないように、息をこらえると、肺が破裂して、大変なことになる。ここでは、まず助からない。」そんなことは、とっくに知っていたが、注意を受け、潜水時間3分ということで、生まれてはじめて、アクアラングから空気を吸って潜水した。
時間はない。一気に5mぐらいまで、素潜りの要領で潜り込んだ。素潜りで見慣れた珊瑚礁だが、水中で空気を吸ってみる光景は全く別だった。
潜水、ダイビングという行動、マスクを着けて、水中を自分の眼で、直に見た時、そして、水中で空気を吸った時、生涯忘れることはない。
右端は、白井先輩
※1956年の奄美大島、水中と島のエキスペディションも、自分にとって探検の原点だったが、それらについては、「ニッポン潜水グラフィティ」に書いた。ぜひ読んでいただきたい。