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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0113 ダイビングの歴史 33 オキシフルの潜水機

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  1953年が、アクアラングが日本に紹介された節目になるのだが、その1953年に、これは日本独特の、潜水機の歴史上も特筆すべき潜水機がテストされ、テストは成功を収めた。
 過酸化水素 オキシフルで酸素を発生させて呼吸しようという潜水器である。山下弥三左衛門の「潜水読本」によれば、「本器の特色は過酸化水素の補給だけで一回一時間近く潜ることのできる酸素発生器を利用したもので、重量3貫・約12キロで、これを背中に負い。腰に着けた錘と浮き袋にて水深20m程度を活動範囲とし、浮きも沈みも手軽にできるといわれている。(BCを付けていた?)このニッセン式簡易潜水器は1953年6月神田のYMCAプールで実験された。旧陸軍工科学校出身の元曹長 米良勅夫氏をリーダーとして、元海軍技術大尉等のグループ5人が3年がかりでつくりあげたものである。」
 
 リブリーザの酸素ボンベを過酸化水素での酸素発生装置に置き換えたものである。腰のあたりに浮き袋があり、BCのように浮沈ができたというところがすごい。危なくもある。


 写真はどこのプールかわからない。この写真で見たところ、腰の周りに浮き袋などない。胸のところにあるのが過酸化水素による酸素発生器か?
 この潜水器、商品として売り出されていた?。
 それを見たのは、城ヶ島にある。神奈川県水産試験所で1958年である。人工魚礁の調査で相談に行った時、井上さんという水産大学の先輩に見せてもらった。ビニールの袋のようなスクラップで使い込まれた様子はなかった。 実用にしたら、無事ではすまなかっただろう。その時、宣伝のパンフレットも見たので、ニッセン式という名称で売り出されていたことを知ったものだ。東亜潜水機の僕のデスクがあった倉庫の片隅でも、ニッセン式のパンフレットを見た記憶がある。白い地に、赤と青のゴシック体の字で、ニッセン式とあった。写真はモノクロだった。ニッセン式の水中撮影の写真はない。


 ※神奈川水産試験場で見たビニール袋のような潜水器と、写真に見る潜水器とどうしても頭の中で繋がらない。その後、神奈川水試の工藤さんにたのんで探してもらったがない。捨ててしまったらしいという。


 酸素は町場でもそんなに高価なものではない。他のオキシラングのように酸素の小瓶でいい。化学的な酸素発生装置など、命を賭ける大冒険だ。それでも、①950-1953年にこれを作った。潜水にかかわる人たちは、みんな冒険者なのだ。
 実際には、このニッセン式で、潜れることは潜れたが、不安定で、特に位置の差で、酸素の発生がとまることもあったらしい。酸素の発生のコントロールはどうやったのだろう、今の僕らがちょっと考えただけで危険がいっぱいである。幸い、事故は報告されていない。
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 ニッセン式の話が小説になっている。
 有馬頼義の「化石の森」がそれだ。小説の筋は恋愛の話だが、主人公の中泉という男が、この潜水機の研究をしている。彼は戦時中シベリアで毒ガスの製造の研究をしていた。そんな部隊があった。たしか442部隊だったか、それにかかわっていたが、毒ガスがばれなかったので、日本に戻ってくることができた。つまり化学の応用の専門家である。
 彼が新しく研究した潜水機のことを婚約者に説明する下りがある。
 「簡単に原理を説明しよう」と中泉は、台の端にある小さなボンベを指さした。「この中に過酸化水素の30%液が入っている。此処には触媒、つまり過マンガン酸カリの結晶がある。この二つが出会うと酸素が発生するんだ。しかし、この酸素の中には、水蒸気が含まれている。それで、この次にある濾過機を通す。この中にはソーダ石灰という奴が入っている。ここを濾過した酸素は化学的に作られた純粋酸素だということになる。それをこの気嚢の中に入れておく。ここから管がでて人間がそれをくわえるのだ。」
 アクアラングとの比較も出てくる。
「アクアラングの欠点は、時間の制約を受けることのほかに、中の人間の吐いた空気を水中に捨てているわけでしょう。この気泡の音で、魚は逃げてしまう。」
「これからはスポーツとしての潜水が盛んになると思う。その意味でも、ヘルメット式は手数と金と人力が大変必要だし、アクアラングは素人には使いこなせない。僕の潜水機なら、だれでも簡単に使うことができるでしょう。薬屋に行って、オキシフルを買えばいいんだから。」


 このあと、伊東の水産試験場へ行き、この潜水機とヘルメット式が潜水を競うシーンがある。


 まちがわないように、これはドキュメンタリーではなくて、小説である。だから、書いてあったことが実際にあったかどうかわからない。しかし、小説家の想像だけとも思えない。実物の残骸、化石を見たようなものだ。
 化石の森の初出は1960年である。


 有馬頼義が「化石の森」を書いた、1960年には、まだ、ニッセン式は存在していたのだろうか。僕が神奈川県水産試験場でその残骸をみたのは、1958年だから、1953年の何回かのテストのあと、神奈川に行ったのだろうか?
 小説「化石の森」に伊東の水産試験場がでてきている。当時伊東水産試験場は、水産の潜水のメッカの一つだった。三浦定の助先輩が定置網潜水の講習をやっておられて、僕はその弟子にあたる稲葉繁雄さんと親しく、彼の家に泊めてもらったこともある。その時にニッセン式のことを彼に訊いてみたら何か分かっただろう。
 しかし、ともかく、だめだったことだけは明らかだ。
 これも想像だけど、人間の呼吸で正味酸素の消費はわずかなものである。呼吸袋が十分に大きければ、炭酸ガスを除去して、呼吸を何回か繰り返すこともできるし、酸素が加われば、プールで潜るくらいはできたのだろう。
 化石の森、に伊東の水産試験場がでてきている。当時伊東水産試験場は、水産の潜水のメッカの一つだった。三浦定の助先輩が定置網潜水の講習をやっておられて、僕はその弟子にあたる稲葉繁雄さん親しく、彼の家に泊めてもらったこともある。その時にニッセン式のことを彼に訊いてみたら何か分かっただろう。
しかし、ともかく、だめだったことだけは明らかだ。何も残っていない。でも、東亜潜水機の僕のデスクがあった倉庫の片隅で、ニッセン式のパンフレットを見た記憶がある。白い地に、赤と青のゴシック体の字で、写真はモノクロだった。ニッセン式の水中撮影の写真はない。




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