僕はダイバーだから、水中のことばかり考え、書いてきたが、呼吸できない、すなわち生きていけない死の空間として、水中だけでなく、無酸素、あるいは有毒な気体、たとえば一酸化炭素、硫化水素、毒ガスのある場所がある。無酸素の場所としては、深い穴の底、密閉された場所、火災現場などがある。無酸素は恐ろしい。数回、無酸素の気体を吸い込むだけで、酸素呼吸する生物はたおれる。そして、死んでしまう。
無酸素の中に入って行くためには呼吸器が必要である。その呼吸器と潜水器は雁行して発明、発展してきた。古くは、ルキヨールの呼吸器がそれである。新しくは、現在の消防士は、小さいタンクを背負い、マスクを着ける。
火災用呼吸機の需要は大きく、呼吸器のメーカーは、歴史的にはドイツのドレーガーが有名であり、水中の潜水器も原理は同じであることから、潜水器も作っている。ハンス・ハースが使っていたのは、循環酸素式も、開放式もドレーガーである。
アクアラングを作ったクストー・ガニアンのガニアンは、液化ガスのメーカー、エアー・リキッドの技師であったから、エアー・リキッドは、この呼吸器の製造販売会社を作る。スピロテクニック(以下、スピロと略称する)であり、クストーも当然この会社に関わる。アクアラングという名称は、スピロが登録した商品名であり、原則として、スピロもしくはその関連会社以外は、商品名としては使えない。スクーバという名称を使うが、逆の視点から見れば、スクーバは、アクアラングだけを指すのではなく、送気式ホースのない潜水器の総称であり、アクアラングもスクーバの一つである。そして、炭坑用の呼吸器、消防の呼吸器はスクーバとは呼ばない。スクーバとは、Self Contained,Underwater Breathing,Apparatus の頭文字をとった略号である。日本語に直訳すれば、自給気式水中呼吸器である。
アクアラングが日本に入ってきたと言うか、日本でアクアラングを使い始めたのは、一つは海上自衛隊であり、一つは東京水産大学であった。
ここで、参考にするのは、「池田知純 潜水の世界 大修館書店 2002年」この本は、歴史とはうたっていないが、歴史を基調としてダイビングの世界のことを書いている。著者は海上自衛隊のお医者さんなので、自衛隊関連について、そして、その他でも僕の知らないこと、確かめたいことが多々書かれている。そして、僕の業績というか、やってきたことも好意的に書いてくれている。
引用する。
「我が国で最初にスクーバ潜水をおこなったのは、おそらく、当時日本を占領していた米軍の軍人であろうと思われるが、新聞に報道されるなどして一定の大きな影響を与えたのは、昭和28年(1953)のことである。すなわち、同年5月25日付けの朝日新聞科学欄には、水中呼吸器としてスクーバに関する記事がある。同じく、6月10日付けの読売新聞には、千葉県小湊の鯛の浦でスクーバ潜水が行われたことが大きく報道されている。いずれも研究者として来日していたディーツ博士が関与するものである。」(池田知純)
東京水産大学は僕の母校であり、大学の実習でスクーバ潜水を拾得して、卒業論文を書くリサーチもダイビングでしたので、まず東京水産大学ルートから見てみよう。
ディーツ博士とは、
ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、1914年9月14日 - 1995年5月19日)はアメリカ合衆国の地球物理学者、海洋学者。ハリー・ハモンド・ヘスとともに、海洋底拡大説の提唱者の1人として知られる。天皇海山群の命名者としても有名である。
1941年にイリノイ大学で学位を取得し、海洋地質学者 フランシス・パーカー・シェパード に師事した。1953年、フルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部においても研究を行った。このときに海山に歴代天皇の名をつける。天皇海山群である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・シンクレア・ディーツ
この写真は、ディーツ博士が小湊実習場で潜って見せた時、これを見ていた東京水産大学漁業科の神田献二先生が撮影したものである。その時、自分の恩師である宇野寛先生も参加されている。
上の写真は、その当時の小湊実習場であり、中心の円形の建物が、1階が水族館、二階が学生の実習室である。目の前には磯が広がっており、磯の上にコンクリートの巾1mほどの道があり、その道を通って、磯根の先端近くまで行くことができる。通路の真ん中あたり、左側にプールのような池がある。ここに、鯛が飼われていて、観光客が、餌をやる観光生け簀である。この生け簀にディーツ博士はスクーバ、アクアラングで潜って見せた。
この時、ディーツ博士は、当時若手の助手であった神田先生、宇野先生たち、にアクアラングの指導をしただろうか。
5月25日が朝日新聞、6月10日が、実習場の対岸にある鯛の浦に潜っている。その間に半月ほどの時間があるから、何らかの指導をしたことは、間違いないと思う。
ディーツ博士は、小湊鯛の浦に潜って水中撮影をしたわけだが、その時の写真をみると、16ミリシネカメラ、その後、僕らが作ったような、しっかりした水中ハウジングを手にしている。当時のアメリカでも、ダイバーとしても著名な人だったのだと想像できる。
次に海上自衛隊ルートであるが、「潜水の世界」からの引用
「スクーバが導入された二番目のルートは、海上自衛隊に伝えられたものだ。海上自衛隊が保安庁警備隊の名称で正式に発足したのは、昭和27年(1952)だが、(二年後には、海上自衛隊に改称)それ以前から主に米軍が敷設した機雷(多くは船の磁性を感知して爆発する感応機雷)の除去を目的として航路啓開業務(掃海業務)を実施していた組織がその前身である。(この組織に後述の三宅玄造氏らが所属していた)当初は舟艇を用いて電纜を曳航し海中に磁場を発生させることによって機雷掃海をおこなっていたが、その方法では高性能の機雷を処分するには限界があり、結局は機雷を一つ一つ探知し個々に処分するしかないことが徐々に認識され、その手段としてスクーバ潜水がクローズアップされてきたのである。
海上自衛隊が最初にスクーバに接したのは、昭和26年(1951)であると思われる。同年、父島の掃海業務に派遣された山下達喜は、そこで米海軍が機雷の処分にスクーバを使用していることを知り、我が国でも掃海業務にスクーバを用いることを考えたという。昭和28年(1953)には、スクーバを導入し、何人かの隊員が体験潜水を行っている。そして、昭和29年(1954)山下の命を承けた飯田喜郎(後に初代の水中処分隊の隊長になる)は、横須賀で初めてスクーバ潜水の部隊としての訓練を行い、要員養成に本格的に取り組んで行ったのである。
一方呉ではフランス製のスクーバを受け取った三宅玄造らが昭和31年(1956)宮崎県で発見された爆発物の処理にそれを使用している。もっとも、コンプレッサーがなかったので、大半の作業は海軍時代の軽便潜水器(マスク式)を用いて実施している。
(池田知純)
孫より年下のリンテクノの生徒たちには、ゲンゾーと呼ばれて、親しまれていた。
※三宅玄造さんは、伏龍の清水登さんと親交があった。伏龍特攻隊の出身であったかどうか、聞きそびれている。海上自衛隊の機雷処分隊が発足する以前、朝鮮戦争の折りの機雷処分などに参加している。後に海洋科学技術センター(後のJAMSTEC)でシートピア計画の潜水に関わっている。シートピア計画は海上自衛隊の水中処分隊関係者で固められて実施されたのであるが、その中で機材関連の要所にいた。自分とは1980年の釜石湾口防波堤工事で機材を借用することからご縁が出来、1988年に社会スポーツセンターで生涯スポーツの指導員養成をするときの講師にお願いした。さらに、尾道マリンテクノ(インストラクターの養成、海技免許のの講習など)に入られ、僕がマリンテクノの講師をした際にもお世話になった。親しくおつきあいさせていただいたのに、歴史的なお話を聞いていない。呉にお住まいになっていて、自分が呉に行ったときにお話をと連絡したが、亡くなられた後だった。
回顧録のようなものを残して置いてくれたならば、旧海軍から、機雷処分、海上自衛隊、JAMSTEC、そしてマリンテクノへの詳細がわかるのに、と残念である。おそらく、海軍からの関係者に遠慮されて、書かなかったのだろう。
再び「潜水の世界」にもどって
「海軍出身で一種フィクサーのような立場にいた渋谷武之丞が設立した実質的にはペーパーカンパニーの大同物産(当時の大企業大同グループとや関係がない)を経て、昭和26年(1951)に非磁性のアルミボンベを含めたスクーバ一式が複数台(一説では30台ほど)がフランスから直接輸入され横須賀に保管されていたという情報もある。」(池田知純)
右側は消火器改造タンクでついているレギはスピロ製
※大同物産は、設立された時はペーパーカンパニーだったかもしれないが、有楽町のJR(当時は国鉄)路線下のビルにこじんまりした事務所があった。自衛隊に納入されたスピロテクニックのアクアラングは、バルコム交易(自動車BMWを当時輸入していた)を通して輸入され、そのアクアラング器材すべてのメンテナンスを後に東亜潜水機に入った自分が担当することになる。そのメンテナンスを通じて、横須賀の水中処分隊とのおつきあいが始まる。渋谷さんのことも後述する。
大同物産からアクアラングが輸入されたのは、1952年だと思う。そして1953年に飯田さんを中心とした体験潜水が行われている。水産大学ルートも1953年である。1953年(昭和28年)が、日本のスクーバダイビング元年だとしてよいだろう。
「三番目のルートとして、スポーツないしレジャー潜水としての普及があるこれは、前二者のように特定のルートを通してというものではなく、湘南地方などで目にする主として外国人(多くは米軍人)のスクーバ潜水をいわばみようみまねで取り入れ発展していったものである。これに関しては、雑誌ダイバーの2000年1月号に「ニッポン潜水50年史」として要領よくまとめられている。」(池田知純)
ニッポン潜水50年史 は、須賀潮美がまとめたもので、自分も多数写真を提供している。この記事のために、海上自衛隊関連のスクーバ導入について調べたがわからない。上記 池田さんの「潜水の世界」を参考、引用させていただいた。
月刊ダイバーの潜水50年史では、黎明期のダイバーとして、後藤道夫、望月昇、小野沢潤、そして須賀次郎が紹介されている。その小野沢さんだが、米軍軍人にダイビングを習った。「1928年神戸生まれ、米軍基地に勤務した後、52年から商業写真やグラフィックの分野で活躍する。64年からは、工業デザイナーとして活躍、当初から、レギュレーターからハウジングまで、自分が使いたいものを作り続けたが、現在は(2000年当時)ジュノンの代表として水中カメラハウジングを製造する。持っているのは名器ローライフレックス(須賀潮美)
ジュノンのハウジングは、ダイバーズフェスティバルに出展されて、何度か親しくおはなしした。僕が島野製作所と組んで、ハウジングを作っていたころは、ライバルだった。そのころに日本の中小工業を支えた、街のものつくりの天才の一人だった。
つくるハウジングは、ほぼ一品製作で、美術工芸品のように美しかった。現在持っている方は、フィルムのハウジングだから、もはや使わないだろうが、美術工芸品として、大事に持ち続けてほしい。残念ながら、僕は持っていない。
今、この黎明期のダイバーとして挙げた、後藤道夫、望月昇、小野沢潤は、世に居ない。僕だけが残っている。このダイビングの歴史第二部を書いている所以である。