1956 フランス 85分
カンヌ映画祭 ドキュメンタリー部門のグランプリ
アカデミー賞のドキュメンタリー部門もとっている。
沈黙の世界の日本公開は 1956年である。世界同時に公開だった。たしか、有楽町の有楽座で見た。有楽座は、昭和の映画館を代表する映画館で1935年から1984年まであった。有楽座でロードショウ上映された(記憶が正確であれば)それだけで、大作なのだ。もしかしたら、1955年の「青い大陸」が当たった効果かもしれない。
沈黙の世界は、DVDで、今でもアマゾンで買える。たしか9000円前後と高価である。
クストーについて、先に参考にしたテキスト「海は生きている」は、英語のタイトルが Silent would であるが、映画「沈黙の世界」の舞台であるカリプソ号は、この本にはでてこない。1943年のアクアラング誕生から、カリプソ号に至る道筋を書いたとも言える。沈黙の世界の参考テキストはないので、映画をみながら、映画を参考にしながら書く。
映画「沈黙の世界」、製作は、ジャック・イブ・クストーと、ルイ・マルが名前を連ねている。ルイ・マルは、そのご、「死刑台のエレベーター」で世界的にブレイクしたプロの映画監督である。どの程度かかわったのかは、わからないが、少なくとも編集はルイ・マルがしたのだと思う。
まず、オープニング、たいまつを持ったダイバー6人が、斜めに潜降してくる。水中で火が燃え、煙の気泡が上昇していく。ダイバーたちはどんどん潜降していく。このカットの終わりに、サイレント・ワールドというタイトルがでる。
1964年の東京オリンピック、聖火リレーの最終走者が、国立競技場の階段を駆け上がり、聖火台に聖火を移して、たいまつを高々と掲げた時、新しい日本が始まったと感じたように、このたいまつダイバーが泳ぎ抜けた時、ダイビングの新しい時代が始まった。と僕は感じた。人類の海への第一歩、自分の第一歩だと感じた。
後に映像の仕事をするようになり、力のある映像を求めた。映像に人を動かす力を求めた。その意味で、このトップシーンは力がある映像だった。これは、ルイ・マルの編集、創造だと思う。ジャック・イブ・クストーが偉かった、成功したのは、映像の専門家と組んだことだ。ハンス・ハースは、映像のプロとは組まなかった。ハンス・ハースもクサリファを作るほど成功したが、クストーのように世界を動かすことはできなかった。
この松明をもって泳ぐことを日本のダイバーでもやってみたいと思う奴がいて、誰だったか詳しく覚えていないが、花火製作の玉屋に発注して作らせ、成功したとか、水中で破裂して危なかったとか、噂を聞いた。
今、ならば、この松明は、自然破壊、環境破壊だと言われるかもしれない。
クストーの映画の成功は、カリプソ号と名付けた探検船を仕立てて、地中海を出発して紅海からインド洋までの探検航海をしたことである。
その、クストー探検隊が使った、作ったカリプソ号だが、
ウィキで見ると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%BD%E5%8F%B7
カリプソ(Calypso)はジャック=イヴ・クストーが海洋調査に用いた海洋調査船である。
カリプソは、掃海艇として英国海軍によって米国のワシントン州の造船所で建造された。掃海艇は、磁気に感応して爆発する機雷を処理処分するので、木造船である。1943年2月、イギリス海軍で「J-826」として就役、地中海において運用され、1947年退役した。地中海で退役したのだ。それをクストーらが、買い取って潜水探検船に改造し、カリプソと名付ける。カリプソはギリシャ神話のカリュプソーに由来する。カリュプソーは、海の女神、トロイ戦争の英雄オデッセウスを誘惑する妖女である。
巾7m、全長42m 329トン、当時の掃海艇としては、大型の部類に入る。
映画のシーンを追って、沈黙の世界を説明して行こう。
水中スクーターが出てくる。今現在のものに比べると大型だがパワーがある。水中を飛ぶように飛行する。そう、飛行するという表現がぴったりだ。そして、3人までのダイバーが列になって繋がって、曳いて行かれる。このシーンはかなり長く、美しいサンゴ礁、珊瑚の林を縫うように走り抜ける。今見れば、そんなことをして珊瑚を壊したらいけないと思う人が多いと思うけど。1956年、そう言う人は、まだ生まれていない。
クストーのチームは、スクーターとか映画カメラを作ったりする器用な人が居て、映画では、ラバンと紹介している。
カリプソ号は船底にハッチがあって、そこから水中に降りることができる。波浪がかなり高くても、船縁を梯子で登り下りする必要がない。この仕掛けで水中に入り、ギリシャ人の海綿採集のヘルメットダイバーを驚かすシーンがある。ヘルメットダイバーは、重い装備を付け、重い鉛の靴も履いて、海底を歩く。ホースにつながれているから、自由に泳ぐことができない。ヘルメットダイバーに近寄って、海綿採集を手伝い、周囲を泳ぎ回る。ヘルメットダイバーは、よちよち歩く。しかし、魚のように泳ぐことが、表現をかえれば、糸の切れた凧のようにどこかに行ってしまう。そして事故が起こる。これは、後の話であり、またこの本のテーマの一つでもあるのだが、魚のように自由に泳ぐということが、命を賭けるほどの魅力ではある。
カリプソのもう一つの仕掛けは、船首に作りつけた観測窓だ。走るカリプソの船首の水中窓から、水中を撮影することができる。イルカ、多分カマイルカの大群に出会うと水中から、イルカの泳ぐ姿を撮影できる。
沈没船、レックダイビングもする。レックを見つけるために、船首の水中観測窓を使うけれど、これは危ない。実際にはやっていないだろう。
深い水深でイセエビ取りをしていて窒素酔いになり、空気不足で急浮上して、軽い減圧症にかかり、ポータブルのチャンバーで再圧治療するシーンもある。チャンバーに入っているので、自分が穫ってきたイセエビを食べれれない。
ダイバーの最大の敵、スイマーの敵は鮫と思われていた時代である。サメの被害、サメに噛まれた人、サメに噛まれて死んだ人は少なくないから、サメは恐ろしいが、サメが人を襲うというか食べる、食いつく条件はいくつかあって、それにはまらなければ大丈夫なのではないか、と今は思っているが、危険であることはまちがいない。クストーの時代はサメは大敵である、と同時に海の危険の象徴として、絶好の被写体である。カリプソは、サメ撮影用の檻を2基積んでいる。サメ撮影用の檻はその後どこでも、使われるようになったが、クストーがこのアイデアを最初に実現したのかもしれない。
ダイバーは、サメを目の敵にして、釣ったり突いたりして、サメを次々と殺す。そのシーンをサメの檻から撮影する。
カリプソは、マッコウクジラの群れに出会う。そして、子供のクジラに船首をぶつけてしまう。わざと群れの中に乗り入れてぶつけたのではないか、と疑う人もいたが、そこはクストーを信じよう。傷ついた子クジラは、もはや生きられない。本当か?殺してやるのが情けだと、銛で突き殺して、船側に結びつける。たちまち、サメの群れが現れて、子クジラを食べる。今見れば、残酷物語であり、顰蹙を買うだろう。もちろん、檻を入れて撮影する。
インド洋にでて、カリプソが目指すのは、アルダブラ環礁、地球上でただ二カ所、インド洋ではここだけに、ゾウガメがいる。カリプソのチームは、上陸して、キャンプを張り、ゾウガメに乗って遊んだり、鳥、多分アルバトロスの営巣を見たりウミガメが上陸してきて産卵するのを見たりする。
大型、1.2mぐらいあるハタと出会う。このハタは、餌をもらってなつく、殺さずに、友達になる。この後、遊びのダイビングは、スピヤフィッシング全盛の時代になり、ハタの類を殺しまくるのだから、クストー等のチームは、この時代としては、自然保護の最先端を行っていたと言えるだろう。これがラストシーンである。
他に、カリプソの船内生活とか、マスコットのダックスフンドとか、細かいシーンがある。
今、こうして、コンピューター画面で沈黙の世界をみている。現在の感覚で見ている。1956年に見た時の感動はない。
そして、やはり、この沈黙の世界が、第一部と第二部の境界なのだろうと思う。
東京水産大学2年生の僕は、1956年にこの映画を見て、1957年に潜水実習を受け、日本潜水科学協会の学生会員、第一号になるのだが、この映画を見て、もはや、クストーに全部やりつくされた、ぼくのやることは残されていないのではないかとおもった。しかし、まだ海は、フロンティア、何時の日か、探検船をつくり、探検隊を結成して、世界の海を探検しよう、と心に決めた。世界は無理でも、日本一周ならばできるだろう。さて、実現しただろうか。
1956年、僕は、日本復帰直後の奄美大島探検隊に参加して、生まれて初めて、スクーバを着けて、3分間ほど、魚のように泳ぐ。
やはり、ジャック・イブ・クストーの沈黙の世界は、新しい歴史の幕開けだったのだ。