アクアラングは、ジャック・イブ・クストーが、発明したとか書いていることが多いが、デマンド呼吸器のアイデア、吸った時だけ空気が流れるデマンドバルブの考えは、前からあった。同じような作動原理、人が息を吸い込む力でレバーを動かして、空気を出す方式は、日本でも、大串式の大串岩雄、旭潜研の浅利さんなど、考え付き、実験もしている。それらとアクアラングとの違いは、呼吸抵抗だった。これより前のデマンド弁は、息が苦しくて長時間使えなかったのだ。
アクアラングは商品名になっているから、クストーがプロデュースしたというべきか。
ジャック・イブ・クストーは、こういう潜水器が欲しい、と、エール・リキッド社のエミール・ガニアンに注文した。そして、一緒に考えた。ものができるときというのは、こういう経路をたどることが多い。
クストーが偉いというか、すごい所は、その潜水器を使って何をしたか?だ。この潜水器を使って、クストーは、ダイビングの世界を一新、塗り替えてしまった。そして、海底居住というとんでもない方向に世界を誘導するきっかけも作ってしまった。そして、そのための手段、ツールとして、映画を、後にはテレビを使った。
1942年、クストーは、自分のアイデア、ボンベの高圧空気を呼吸する水中呼吸用自動弁を作ってくれ、とエール・リキッド社のエミール・ガニアンに頼む。Emile Gagnan なんと読むか、日本語での表記をどうするか、ここでは、日本アクアラングのカタログに載っている表記、ガニアンを使う。しかし、日本アクアラングのカタログでも、ガニオンという言い方もしている。
ガニアンの勤務していたエール・リキッドは、フランスを根拠にする国際的な会社で、エール・リキッドとは、液体空気のこと、液化ガスを扱う会社である。
日本アクアラングの2015年のカタログにエール・リキッド社の沿革が載っている。日本アクアラングは、エール・リキッド社の子会社だ。エール・リキッド社は、1902年に液体空気製造の会社としてフランスで発足する。1907年には日本にも進出し、1930年に日本法人の帝国酸素を設立する。
帝国酸素というから、日本帝国の会社なのかと錯覚させられるが、会社の首脳はフランス人が占めるフランスの会社なのだ。(現在は日本エア・リキッド株式会社)全国各地に酸素充填の拠点を持っていて、液化した酸素をその拠点に運び、酸素ボンベに高圧酸素を充填する。伏龍の酸素も、その一部は、ここで充填してもらったのだろうか?。酸素は金属の切断、溶接に必須であり、鉄筋の建物、鉄製の船は、アセチレン・酸素溶接で造られる。
エミール・ガニアンは、そのエール・リキッドの技師である。
「海は生きている」クストーの The silent World の訳で訳者は、東京水産大学の学長である佐々木忠義先生が訳したことになっているが、佐々木先生の訳文は読みにくい、というより、まだダイビングの用語の日本語が無くて困ったのだろう。。
The silent Worldは、クストーが製作した映画「沈黙の世界」が世界的なヒットになったので、この本もその映画のこと、映画の原作なのかと思うがちょっとちがった。映画の主人公?であるカリプソ号はでてこない。この本は、映画、沈黙の世界を作るに至るまでの話だ。
クストーが、ダイビングを始めたのは1933年頃、海軍士官だから、海軍の潜水仕事もするようになるが、最初は、魚突き、遊びだ。コリリューのフィンも使った。魚突き仲間は、フィリップ・タイエという海軍士官と、フレデリック・デューマだ。三人組で、魚突きに熱中する。
クストーは、素潜りで満足せず、循環酸素式を自作するが、酸素中毒になってひどい眼にあう。ル。プリュール式のスクーバ(手動弁の空気呼吸器)も使うが満足できず。フィンで自由に泳ぎ回れる圧縮空気呼吸器が欲しいと奥さんのシモーヌの関わりで、エール・リキッドを紹介してもらって、ガニアンと出会う。1942年12月のことである。なお、シモーヌは、資産家だったらしく、クストーを資金面でも支えている。当然、嬶天下で、夫妻で来日された時にアテンドした後輩が笑っていた。
ガニアンは当時手掛けて居た、木炭ガスによって自動車を走らせるためのレギュレーターを改造して、割と簡単にでっちあげる。クストーとガニアンはパリのマルヌ河で、この呼吸器のテストをする。南フランスでテストをすれば良いじゃない、と思うが、秘密にしなければならないとか、工場が近いとか、何か理由があったのだろう、パリで潜ってみる。思ったようには作動せず苦労する。位置の差による、呼吸抵抗の増大、あるいは、空気の吹き出し、などで苦労したようだ。実験の結果、セカンドステージのダイヤフラムの位置を、背中の肩胛骨の間に置けば良いということで、解決する。
そして、ここから、「沈黙の世界」の冒頭から引用。
「1943年6月のある朝、私はフレンチ・リビエラのバンドル駅に出かけて、パリから急行便で届いた一つの木の箱を受け取った。その中には、将来有望な新しい一つの器械が入っていた。それは、数年にわたる夢と努力の結果、エミル・ガニアンと私とが考案した自動圧縮空気潜水肺なのである。」
同じ「沈黙の世界」の中で、1942年12月にガニアンと出会ったようなことも書いてあるのに、ここでは、数年にわたる夢と努力、とある。数年にわたる夢と努力は、クストーの夢と努力であり、それがあ、ガニアンによって実現したということだろう。とにかく、こうして、クストーの潜水肺、アクアラングが誕生する。
クストーは、魚突きだけでなく、海軍の潜水仕事もする。洞窟探検もする。深度に挑戦して、おそらく窒素酔いだろう、仲間の下士官、モーリス・ファルグを失う。撮影にも力を入れていて何種類かのカメラも作る。
そして、1950年、イギリスの退役掃海挺を改造し、カリプソ号と名付け、潜水航海に乗り出し、記録映画「沈黙の世界」を製作する。この映画が世界的にブレイクするのだが、それら、映画については、別項として、後述する。
1996年、僕は自分が60歳になったことを記念して、100m潜水を行う。これも後述するが、テレビ朝日の特別番組で取り上げてもらうことができ、ディレクターの乾君もがんばってくれて、僕の100m潜水だけでなく、地中海、コルシカ島の宝石珊瑚採りの取材、そして、パリで、クストーに会う手配もしてくれた。しかし、とても残念なことにジャック・イブ・クストーの健康が優れず、フランスまで行きながら、キャンセルになった。クストーは、その翌年1997年に亡くなる。最後のインタビューができたのに、かえすがえすもざんねんである。
※クストーは1910年生まれ
クストーとのインタビューがキャンセルになった代わりに南仏ニースにあるスピロテクニークを訪ねた。同級生で、日本アクアラングの社長になった上島章生君の手配である。
ニースの工業団地というが、敷地は広々していて、工場は、平屋でこれも広く大勢の女子行員が何か潜水器を組み立てている。軍用なので見せられないということだったが、リブリーザのように見えた。大きさから見て、セミクローズかと見た。
工場長がアテンドしてくれて、客用のロビーのようなところで、ウインド・ケースから、プロトタイプのレギュレーターを出して見せてくれた。ねじ止めの蓋を開けて見せてくれたが、ダイヤフラムは、布引のゴムであり、中の弁構造も、スピロのレギュレーターとして売り出されたものとは、かなり違っている。これで、1943年にクストーが潜ったのかと聞いたら、そうだ、ということだった。僕は、恥ずかしながら、英語がしゃべれないのだが、この時は会話ができた。ダイビングについてだけ、僕の英会話は、成立する。ダイビングについては、英名がそのまま日本語になっているからだと思う。
※ クストーの写真は商標登録されているので、つかえない。日本アクアラングのカタログを見れば、必ず出てくる。