参考にしたテキスト
第二次大戦とダイビング、ヨーロッパ、アメリカについて述べてきた。そして、日本だが、日本は特攻兵器だ。
テキストにしたのは、「海軍伏龍特攻隊 門奈鷹一郎、光人社NF文庫 2015」「人間機雷 伏龍特攻隊」瀬口晴義 講談社2005年」、そして「マリンダイビング潜水の日本史 伏龍特別攻撃隊」である。
門奈鷹一郎さんは、予科練から伏龍隊に入り自ら伏龍の訓練を体験されている。戦後、早稲田大学に入り、出版社に勤務していて、他にいくつかの著書がある。ほとんど知られていなかった、伏龍の史実、真実を、世に知らせよう。それも、できるだけ公平な立場に立って、史実としての伏龍を書こうとしている。講演会も諸所で行い。僕は、パパラギの武元さん主催の講演会に行き、門奈さんとおめにかかっている。
人間機雷の著者、瀬口さんは、東京新聞記者である。新聞記者らしい著述である。
特攻という戦について、日本人であれば、誰でも心に触れるものがある。自分も特攻についての本は、ほとんど読んだ。特攻についての想いも考えもある。それを書けば際限もない。
ここでは、出来るだけ特攻には触れず、ダイビング機材、技術、行動の視点から見ていくことにする。
清水登さんについて
それと、伏龍潜水器開発の中心人物のひとりであった清水登(すすむ)さんとは、特別のご縁がある。そして、清水さんは、山下弥総左衛門さん、三浦定之助さんと同様に日本の潜水の歴史を見る上での重要な一人である。清水さんのこともここで書きたい。
「清水登氏は、明治34年(1901)3月生まれ、大正10年(1921)舞鶴海兵団において基礎潜水術を修得、艦船部隊での実地潜水に従事、機関学校で潜水高等技術を修得、以後、工機学校、工作学校での潜水指導などに従事、昭和16年(1941)から昭和20年8月(1945)終戦まで、工作学校の研究職員として簡易潜水器の研究開発、および、その使用実験に専念していた。それが伏龍潜水器である。
また、この工作学校在職中、水中ガス切断方を研究、器具と使用緒元を開発している。日本における水中切断の父、とも言える。
昭和35年(1960)から昭和46年(1971)まで、東亜潜水機に在職、その後、体調を崩されて、神奈川県三浦三崎に引退され、没している。
以上、門奈鷹一郎、海軍伏龍特攻隊より、引用
自分は、1960年に東亜潜水機に入社し、1970年に退職している。清水さんとほぼ同じ年月を東亜潜水機で過ごしている。清水さんは嘱託で、主として水中切断、溶接の機材を担当された。その世界では第一人者であり、その機材、技術については、現今でもあまり変わっていないのではないだろうか。
1963年には、僕の100m実験潜水の潜水総指揮をお願いした。
その他、ワンマンチャンバー(再圧タンク)の艤装も担当され、また、東亜潜水機の潜水訓練タワーは、清水さんが設計製作した。この仕事は、僕がやりたかったのだが、スクーバの製作、販売が僕の担当であり、忙しかった。清水さんはどちらかと言えば閑職であり、時間があった。東亜潜水機の潜水訓練タワーは、清水さんの置きみやげといって良い。
※ 清水さんについては、また東亜潜水機の項で述べる。
伏龍の潜水器
伏龍特攻に使われた潜水器は、どんな潜水器だったのだろう。
まず、伏龍は,(ここでは伏龍に使った潜水器のことを伏竜と呼ぶことにする)まず、伏龍はスクーバである。スクーバと言っても、今のレクリェーションダイビングに使われているような意味でのスクーバではな訓練の初期には命綱を着けているが、実戦では着けられない。ホースも命綱もないと言う意味でのスクーバだ。しかし、現在のスクーバのように、フィンで泳ぐこともしない。海底を歩く、ヘルメット式のスクーバである。
一般の、従来型のヘルメットよりも小さいヘルメットだ。潜水服は旭式、マスク式が北洋で使ったものと同じであり、上下を環銅金具で繋ぐ方式であり、腰には7キロの鉛を巻き、足には、片足1キロ、両足で2キロの鉛が底についた靴(サンダルのような)をはく。ヘルメットは、本格的なヘルメットと同じ構造を小さくしたもので、胸当て(シコロ)にボルト4本で止める。面ガラスは、前面の一個だけで、締めて留めたら、自分では外せない。外せば浸水して沈み、死んでしまう。
ヘルメット式と同様に潜水服を膨らませて、水面に浮上する事はできるが、水面で泳ぐことは出来ない。浮上に失敗すれば、吹き上げ状態になるし、潜降に失敗すれば、墜落である。訓練の初期では潜降索をたどって船から潜水するが、実戦では命綱も潜降索もない。並ではできない技術が必要である。水中でトラブルが起きれば、必ず、岸まで歩いて帰るか、船の直下まで来て、ロープなどで引き上げてもらうほかない。そして、電話はついていないから、訓練中は水面に浮標(浮き)を浮かせて曳航し、これで引き上げてもらう。この浮きが、動かなくなったら、事故だと判断して、引き上げられる約束にもなっていた。
呼吸は水面に気泡のでない、循環酸素式、今で言うリブリーザである。リブリーザは、吐いた呼気の炭酸ガスを除去して再び呼吸する。人間魚雷で述べた、ドレーガー式(欧米型)のリブリーザは、その呼気をためておく呼吸袋、(カウンターラング)と、呼気の炭酸ガスを除去する炭酸ガス吸収剤の入った装置、キャニスターと、そして酸素ボンベから成り立っている。ところが、伏竜には、呼吸袋がない。ヘルメットの空間、及び潜水服を呼吸袋にしてしまっているのだ。
ダイバー、この場合は兵士は、潜水服+ヘルメットの中の空気を鼻から吸い込む。そして、呼気、吐き出しは、口から排気口金の中に出す。口から出した呼気は、蛇腹管の呼吸管を通って背中に背負っている炭酸ガス吸収缶(キャニスター)に入る。呼吸を続けていれば、空気(酸素)は循環して、呼吸を続けられる。酸素が少なくなれば、苦しくなるので、腰の部分にあるコックを捻ると、背中に背負っている酸素ボンベから酸素がヘルメットの中に出てくる。酸素ボンベは150キロの高圧で、これを調節弁を通して減圧している。
伏龍の謎 酸素中毒について
伏龍の仕様説明によれば、酸素2対空気1の気体を呼吸するとあった。これはすごいことだ。この時代にナイトロックスを呼吸していたのだと驚いた。そして、どうやってこの時代にナイトロックスを作ったのだろうと疑問に思った。
しかし、門奈さんの本をみても、酸素と空気を混合するような記述はない。その酸素の供給も充分ではなく、タバコと交換で闇で仕入れるようなことも、書かれている。
おそらく、こういうことだったのだろう。欧米型の純酸素を循環させる呼吸器では、呼吸袋の中の空気を完全に純酸素に置き換えるために、使用の前に袋の中の空気を吸い出して鼻から吐き、袋に純酸素を入れる。これを繰り返すことで回路が全部純酸素で満たされる。伏竜では、この置換作業をせずに潜水器を着け、呼吸を開始して、とにかく苦しくなったら酸素を補給していた。これによって、ほぼ酸素と空気が2;1になった。なったとしたのだろう。そして、実体は純酸素を呼吸する酸素呼吸器だった。
これで、15m、20mまで、潜って酸素中毒にならなかったのだろうか?
ここでもう一つのテキストを見る。「マリンダイビング 連載 潜水日本史 3 伏龍にかけた潜水大尉:伏龍特攻隊記録 元海軍大尉 清水登」
「水中特攻最後の切り札」 という見出しがある。
清水さんが戦時中に書かれたものをほとんどそのまま紹介するとしている。
「海底で自由自在に動き回ることができ、しかも長時間潜水使用とするとき、大きな工業用ボンベに空気をいれたのでは、とうてい水中作業などできない。
この難問題に苦慮していたところへ、航空技術廠の医学部長が空気を酸素で代用する示唆を与えてくれたのである。爾来、同部の大島軍医少佐が協力、指導にあたった。そして、少佐自らが酸素マスクをかぶって水圧タンク(潜水病治療用)に入り込み、長時間の実験を行った。その結果、大気圧では、12ー13時間、深度10mでは5時間、深度20mでは一時間の潜水は、人体に悪影響を及ぼさないという貴重な結論を出したのである。
理想としては、空気と酸素の混合体を呼吸するのを最良とするが、当時の資材と時日の不足はその研究をゆるさない。」
結局、混合ガスの実験はしないで、純酸素で潜ることになったのだ。
これで結果としてうまく行ってしまったのだ。フラフラしたのも何人かは居たというが、数百人の訓練を行ったのだが酸素中毒の症例は報告されていない。
伏龍の目標水深は15mである。そして、最長では8時間余も潜っている。
もう一つ疑問がある。純酸素を呼吸するスクーバ、商品名「オキシラング」が1960年代に、イタリーから輸入され、死亡事故が起こった。理由は潜水の途中で水面に顔を出し、空気を吸い、置換作業を行わないで潜り、呼吸回路の中の酸素分圧が下がったためだった。伏龍では、苦しくなったら酸素を出す、そんなことで大丈夫だったのだ。
鼻から吸って口から呼吸管に吐き出す。一般の人は、この呼吸が不自然と言う人もいるかも知れないが、大串式は歯でバルブを噛んでマスクの中に空気を出し、鼻から吸っていた。ただ、鼻から吸う、口から出すを真剣に護らないと、呼吸が循環せず、数呼吸
で酸欠、炭酸ガス中毒になり倒れる。と門奈さんの本では書いている一方、マリンダイビングでの清水さんは、重労働で息が弾んだら、口金から口を離して、酸素を口から吸えば良いと書いている。
とにかく、海軍の潜水の総本山である 海軍工作学校で、ヘルメット式潜水の神様とも言われた清水登大尉が実験担当者になり、昭和20年3月17日から約一ヶ月、潜水の回数は74回、延べ潜水時間は36時間、一回の最長は5時間で、特攻兵器として使えると判断した。
伏龍特攻隊
特攻に使える、使われる人間の方は、全国で10万を越える。海軍の重要基地である横須賀、呉、佐世保で、三千人が訓練を開始した。4月中旬に潜水器のテストが終了として、その前の3月から量産に入ったとしても、日本でヘルメットを作れるのは、東亜潜水機と横須賀潜水衣具くらい、その他のゴム工場、鉄工場などを臨時に動員しても、5月の訓練開始には、数百台が精一杯だろう。そんなにも無かったかもしれない。ボンベは航空機用を転用、炭酸ガス吸収缶は潜水艦用のものを転用したと言われるが、臨時、不慣れな工場で作ったものもあるだろうし、総じて粗製であったろう。吸収缶が漏水すると、炭酸ガス吸収材である苛性ソーダが水没すると呼吸管から吹き出してきて、これをまともに吸い込めば命がない。このための事故がいくつも報告されている。ヘルメットや潜水服が浸水しても大変だ。今、ドライスーツを着るスクーバダイバは、たいてい、水没の経験がある。伏龍では、水没して、息を吐き出す呼吸管に水が入ったら終わりだ。
指揮官になるのは、予備学生の将校、訓練の教官は下士官が集められて訓練を開始、ある程度出来るようになってから、初心者である予科練の少年たちを訓練する。
5月26日に特攻兵器として、本決まり採用になり、米軍の上陸は9月に予想されていたので、それまでに3000人、修正されて2000人を訓練しなければならない。6月はじめに基礎要員となる士官、下士官480名が集められ、訓練が開始された。
訓練は、まず水に浸かって呼吸してみる。次いで5mに、7m、10mと深度を増していき、ある程度出来るようになってから、水中を長距離行軍する。予想される実戦では、米軍の上陸部隊が現れたら、たぶん、激烈な艦砲射撃があるだろうから、それは内陸で避ける。艦砲射撃が止んだらば、海岸から水に入り、配置について、上陸用舟艇を待ちかまえる。舟艇が上を通る時に、竿の先に着けた爆雷を突き上げて、諸共に自爆する。この為に、海岸を歩いて、水に入り、水中を行軍して配置に着く、そのための訓練である。
この行軍訓練で、大きな事故が起こる。7月に久里浜で行われた潜水歩行訓練で、1000mのラインを往復し2000mを水中歩行しようとした。20名ほどで訓練し助かったのが数名という説と3名が死亡したという説がある。少なくとも3名は死亡した。
その他、苛性ソーダ、炭酸ガス吸収缶の水没事故もいくつか報告されている。この様子は、イタリーの人間魚雷の映画でも見た。
肺が焼けてまず助からない。
死亡事故のことを、東亜潜水機時代、清水さんに聴いたことがある。一名も殺していないという。いくつかの死亡事故報告がある。清水さんは嘘をついたのか?、嘘を言うような人ではない。
清水さんは、自分が直接にかかわって指導した部分では殺していないと言ったのだろう。今、スクーバのショップで、自分のところは無事故だと言っているのとおなじだ。
とにかく、難しい潜水器で、そして、廃物利用のような炭酸ガス吸収缶、5月に訓練をはじめて、8月には終戦である。潜水器の数が足りなかったことが、事故防止になったのだろう。実際にはどのくらい亡くなったのだろうか、10人以上100人未満だった?
軍隊式訓練で、強制されての事故があったので、戦後の小説では、その非人間性が強調された。門奈さんの海軍伏龍特攻隊では、淡々と自分の体験をのべている。
実戦への参加はないうちに、終戦を迎えた。一度だけ、夜光虫を敵の上陸と勘違いして、出動したことがあったが、上陸前の艦砲射撃もないのに、出動した。
出動したが、武器である突き上げ爆雷がないのだ。爆雷が出来てくるのは10月の予定である。
門奈さんの本では、言っている。特攻も武器があるから、突撃することもできる。武器がないのでは、怖くて進めない。
武器が手に出来て、もしも実戦に参加したら?
上陸してくる米軍は、次々を島を陥落させてきた歴戦である。それにUDTもいる。これも精鋭部隊である。制空権も米軍にある。
誰が考えても必敗、成功したとして、こちらが一隊が70名かの精鋭だったとして、上陸してくる舟艇の一つでも沈められただろうか?上陸作戦では、陸からも、舟艇をねらって砲火を浴びせる。伏竜を避けて撃っていたのでは、米軍の舟艇は楽に上陸できてしまう。この点を指摘している将校もいたという記述もある。
しかし、敵の上陸を前にして、伏龍以外の特攻兵器は、爆雷艇「震洋」これは水面をのろのろ走るから、たちまち沈められるだろう。伏龍しかなかったのだ。.
幸いにして、8月の終戦で、実戦には間に合わなかった。
愚かな特攻兵器だった、と戦後の僕らの世代は
考えた。しかし、さらに時が流れて、今の自分は思う。あの、何もない、大戦末期に、とにかく送気の必要がない、独立して立ち向かえる兵器としての潜水器を作り上げた。そして、浅い水深ではあっても、8時間連続して潜水できた。誇れることだ。特攻の是非とは別の話だ。
その8時間、炭酸ガス吸収缶が壊れて、苛性ソーが吹き上げてくれば、終わりである。アメリカ軍との勝ち負けは置いておき、その苦労に打ち勝った特攻隊員は、ダイバーとして、世界に誇れる。