第二次大戦が終わり、戦後、1945年、日本の急務は、食料の確保だった。 食料生産者である農業、漁業はなによりも優先した。 北洋漁業、サケマス漁は、現在でこそ200海里の領海の線引きがあり、ロシア、アメリカの領海には出て行かれないが、戦後、1960年代までは、独航船と呼ぶ数10トンの漁船で、数千トンの母船を中心に船団を組んで、オホーック海、ベーリング海に出漁して行く。 サケマスは、流し刺し網を海に張り巡らして穫る。その網が、あるいはロープが船のスクリューに絡んだら、船の走行能力が落ちる、最悪は停止する。遭難である。同じことは、南洋に出て行くマグロ船でも起きるが、暖かい海ならば、裸で素潜りでも切りほどけるが、落水したら、数分で死んでしまう北洋の海では、潜水服、潜水器が必須である。重装備のヘルメットでは、個々の独航船には積みにくいし、長い訓練も必要である。 戦時中、船の応急処置に使われたマスク式が最適である。ただし、冷たい北洋である。ヘルメット式と同等の潜水服は必要である。
アワビ、サザエ漁は、素潜りの海女さん、また房総では、ヘルメット式の領分でもある。マスク式の進出する余地はない。伊豆半島のテングサ穫りは、水深が浅いので、マスク式でも十分に対応出来る。伊豆のテングサ穫りは、マスク式の領分になった。 また、伊豆七島、神津島で行われているタカベの追い込み漁、網を張って潜水器で魚を追い込む漁、では旭式が使われた。 旭式は、浅い海での水産に根を張った。
※ここから先は、日本のスクーバの歴史、第二部とオーバラップするが、マスク式で行ってしまう。
旭式の佐藤賢俊氏は、僕のダイビングへの出自ともいえる日本潜水科学協会の設立者の一人でもあった。 第二部で紹介する菅原久一氏、潜水医学の梨本一郎博士、僕の師である宇野寛先生、猪野俊先生等と潜水科学協会を設立する。そんなことで、佐藤賢俊氏とは、長い付き合いになる。長くお世話になったが、微妙なおつき合いでもあった。 というのは、大学をでたけれど、研究者の途に進めなかった僕は、東亜潜水機に就職するのだが、そのお世話をしていただいた、宇野先生は、僕を東亜潜水機に入れようか、旭潜研に入れようか、考えた末、東亜潜水機に紹介した。旭潜研には、一年後に一級下の、遠藤徹が行くことになった。遠藤さんは後に独立して、福岡潜水というウエットスーツメーカーになり、一緒に仕事をすることになるが、それは第二部の話である。 東亜潜水機に入って見れば、旭潜水は、ライバル、競合する会社である。微妙とは、そういういきさつであったが、終生のおつき合いではあった。
旭式は、佐藤賢俊さんがお亡くなりになり、経営が変わって製造をやめてしまった。沖縄でのモズク養殖は、このマスクを旭面などと呼んで、使っていたので、無くなってしまうとこまる。杉浦さんという方がクラウドファウンディングで資金を集めて、子のマスクを復元された。浅い海での労働には、このタイプのフリーフローマスクは、水中作業が続く限り不滅だと思うのだが。
アメリカでも、デスコという会社で作られているマスクが、軽作業に現在でも使われている。デスコのマスクは、デマンドバルブ(レギュレーターのセカンドステージ)が付いているものと、デマンドバルブが省略されて、フリーフローにしたものとがある。金王式に近いマスクである。