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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1017 ダイビングの歴史20 山下

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三浦定之助の「潜水の友」に続くのは、その同じ昭和10年、1935年には、A型マスク、旭式マスク、それに対抗する海王式もつくられ、平行して地中海では、フィンが生まれ、使われて、第二次大戦に突入していく構成を考えていた。


 しかし、三浦定之助と並ぶ、これも講習所の先輩の山下弥三左衛門を置いていくと、どこに填めようか?
 出版するときには、もう一度全体を見て、考え直すとして、自分の意識の流れで、山下弥三左衛門先輩に登場してもらうことにする。


 1959年、東京水産大学を卒業した僕は、家の事情で、研究者への道が閉ざされ、東亜潜水機に就職する。それが、自分に合っていたらしく、研究者にもどることなく、未だに未練はあるけれど、そのままの道を進むのだが、その東亜潜水機での初仕事の一つが、山下弥三左衛門著、「潜水読本」の配送だった。
 「潜水読本」は、奇しくも、この計画・進行中の「ダイビングの歴史」の出版をお願いしようとしている成山堂書店の出版なのだが、そのソフトカバーの別刷りを東亜潜水機が販促に使い、お得意へ配った。「潜水の友」を山本式の日本潜水が出版したのと似ているが、そのお得意への配送が僕の仕事で、その縁で、東亜潜水機にもよく、顔を出されていた山下弥三左衛門先輩への対応も僕の任になり、東亜潜水機を離れてからも、亡くなられるまで、おつき合いが続いた。


 これは、1970年頃、鹿児島に潜水講習に行ったおり、鹿児島在住だった山下さんを訪ねた折の写真。そのころ愛用していたオリンパスペンで撮ったので、二枚続きになっている。後ろに桜島が見える海縁にあった鹿児島空港と、ダグラスDC4 が貴重?なので、重ねたままにした。 
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 略歴を見ると


 山下弥三左衛門先輩は、大正3年、1914年に水産講習所漁撈科を卒業。三浦定之助が、1909年の卒業だから、5年後輩ということになる。
 鰤定置網自営、昭和3年 1928年、一等潜水士、
 ということは、「潜水の友」でいう致死率2割の三期の講習の卒業生なのだろうか? 潜水読本には、潜水士訓練のプログラムが掲載されているが、フカシ法とともに、減圧タンクの使用法の科目もある。最終日の潜水試験は50尋である。60-70mは潜ったのだろう。山下さんは、三浦定之助の講習を受けて一等潜水士になり、やがて、その講師になって、潜水読本記述のプログラムで講習を行ったのであろう。
 昭和8年、1933年、日本定置網漁撈研究会理事
  この定置網漁撈研究会の消長も興味深いが、そこまでは踏み込めない。
 全国潜水行脚、技術指導、魚の生態研究
 鰤定置を自営されていて、潜って自分の眼で網の状態を見て、一時は相当の成功をされていた。潜って自分の眼で網を見ない漁師、親方の網を低智網などと呼んでいて、全国に網を自分の眼で見る指導をされていた。
 三浦先輩とは、必ずしも人間関係として良好ではなかったらしい。山下先輩の方が新進であり、二人とも個性の強い人であったので、意見の相違があったと思われる。しかし、自分の書いた定置網の本の序論で、三浦先輩について、
「三浦先生は、潜水研究に着想され、定置漁業を自然条件のもとに観察され、定置界に新しい、指導標を建設された先駆者である。
 三浦先生の身命を賭とした業績を想い、潜水病苦に堪えて達筆を後進者に残された寄与は、高く評価せずにはいられないものがある。」とある。師事する態度は取り続けていた。
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 海底撮影機(特許)5種製作


 自分の作らせたハウジングが上手く働かず、多分水没した?日本刀で真っ二つに叩き切ったという伝説がある。切れるはずがない。嘘だ。それほど苦労したということだろう。潜水読本の写真を見ると、立派なハウジングで、昭和11年、12年 1935~6年 南洋パラオ島沿岸、海底映画撮影(パラオ海底を発く)とある。こんなハウジングを1955年に作られていたとすれば、驚異だ。水中撮影史に輝く。とにかく自分の企画した撮影機で映画を撮影した。すごいことだと思う。


 御前潜水、講話、陛下御研究資料採集 御下賜金13回、
 昭和天皇は、葉山の御用邸に採集船を持っておられ、相模湾のヒドロ虫の研究などをされており、図鑑も発表されている。山下さんは、その船で潜水して採集などを担当した。


 昭和18年、1943年、海軍軍令部嘱託、潜水作業指揮監督
 昭和22年、1947年 水産庁嘱託 南洋真珠採集乗組員への潜水講習


 潜水一筋に生きられた生涯であった。
 ご厚誼をいただいていたのだが、僕は、若者の常で、言葉態度には表さなかったが、スクーバダイビングを体験されていなかったことからの、まちがいなどを指摘したりして、生意気だった。
 しかし、この「潜水読本」は本当に、1935年ごろから、1960年までの日本の潜水器、潜水作業(サルベージから海産まで)行われた潜水講習のすべてのデータが集められていると言って過言ではない。写真で見るように、本がボロボロになるまで、使った。


 言うまでもなく、現代の視点からは、まちがい、あるいは、実情との差はあるにせよ、昔、1935-1960では、こんな風に見えて居た、考えられていたということの参考になる。
 自分が、「最新ダイビング用語辞典」を編集し、そして「ダイビングの歴史」を書いているのは、山下先輩の「潜水読本」の続編を書いているのかもしれない。後の時代のだれかが、同じように、ボロボロになるまで、本を使ってくれれば、と思うが、デジタルの時代である。どうなるだろう。


 潜水機器の変遷と進化は、それぞれで追って行き、この潜水読本からの引用もその都度行っていくが、ここでは、減圧症、潜水病について、1935年の「潜水の友」から1960年の「潜水読本」まで、どのような変遷があったのか、要部を引用して記して行く。
 
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              山本式 海王式 など、すべてのマスク式が掲載されている。
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                 アクアラングも


 潜水病に関する研究として、記述
 「関東大震災永代橋ピアー工事で潜函病が多出した。東大物理療科の真鍋先生が着手されたのが、著名で我が国最初の潜水病治療とされた。
 三浦定之助先生も真鍋先生の治療の恩恵に浴された。その後昭和15年頃、千葉医大の石川博士は、真鍋先生の秘蔵弟子として、潜水病の研究に努められ、筆者は、山下式潜水病治療機を寄付した。(フカシの器械だったらしい)
 千葉労働基準局病院にも斎藤博士の英断にて、治療タンクが設置された。」
 この記述は、1935年から1960年に至る、潜水病治療の歴史沿革を述べたもので、1960年には、東亜潜水機もワンマンチャンバーを製作していて、僕はその艤装を手伝い、1963年の自分の大深度潜水実験に使用した。
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 1960年、潜水読本には減圧チャンバーの所在地が記されていて 全国で8か所、下田には三カ所に設置されている。佐渡の水産試験場、三重県尾鷲の水産試験場にも置かれている。減圧チャンバーを使う減圧表も掲載されている。水産試験場が潜水の中心だった。これは、三浦定之助、先輩の労に負うところが大きかったのだろう。しかし、それでも、フカシが減圧症治療の中心ではあった。
 現在、聞くと驚かれるかもしれないが、治療施設のない海外の島嶼では、1990年代まで、いや、現在でも減圧症の治療は、フカシで行われている。


 潜水読本に掲載されている減圧表は、米国海軍の1953年版のテーブル、バルデーン氏(ホールデン)の表、英国式の表である。
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              ドイツ海軍の表とバルデーン(ホールデン)の表


 とにかく、潜水読本には、潜水についての1935-1960年のすべての情報が詰め込まれている。



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