三浦定之助は、1887年 明治20年 生まれ、1909年 明治42年 農林省水産講習書漁撈科卒業、
水産講習所は、東京水産大学の前身だから、先輩になる。
長崎県水産試験場技手、東京潜水工業 技師を経て 静岡県伊東水産試験場場長
日本各地の定置網漁場を調査
1961年 没 74歳
※ 渡辺理一、片岡弓八、大串岩雄の東京潜水工業にも三浦定之助は関わっていたらしい。潜水技師として日本各地の漁場を調査というのは、東京潜水工業としての仕事だったのだろうか、もしも、そうだとすれば、サルベージは大串式、水産は山本式という区分けができにくくばったしまう。もう少し東京潜水工業について、調べたい。
三浦定之助には、多数の著書がある。「潜水生活20年」「南海の魚」「おさかな談義」「海草」など。
ここで取り上げる、「潜水の友」は、山本式マスクの販売元である日本潜水から、非売品として、出されている。今でいえばダイビングマニュアルであり、山本式マスクの販促品として出されたものだろう。
奥付の隣に、「昭和10年9月19日、発行所より寄贈、深川図書館」と印がある。深川図書館、今の古石場図書館だ。僕は、そこで借りて複写した。この本は、あの戦争、あの下町空襲で焼け残ったのだ。なお、下町空襲で深川辺は死屍類類だったから、図書館の本は、どこかに疎開してあったのだろうか。
三浦先輩は、静岡県伊東水産試験場の場長であったから、伊東試験場がマスク式潜水を使った定置網潜水のための講習のメッカになっていた。
潜水の友は、その講習のテキストでもあったから、当時、昭和10年、1935年、僕の生まれた年の潜水事情のすべてが書かれている。少し詳しく紹介しよう。
三浦定之助先輩は、マスク式潜水、というよりも、日本で初の潜水技術指導者であり、主にマスク式潜水器をつかって定置網潜水の技術を教えた。
「潜水の友」には、自筆らしい図が載せられているわかりやすい絵で、大串式と山本式の違いもよくわかる。
第一章が心構え、つまり精神論と潜水器材の様々、ヘルメット式とマスク式の区別とか優劣とかの説明、すなわち概論だ。
第二章が一般潜水作業員の心得
第三章がマスク式潜水器のハード説明と使用法
第4章が潜水ポンプによる送気法
第5章が潜水病と続く。
第一章 心構え
行け!海国男児は海底へ
圧力に耐え、荒波に挑む。潜水夫は、戦士である。恐れずに海に挑む。
そんなことが書かれている。
1935年の時代背景は、これから中国戦争が始まろうという時代だ。
その1935年に僕は生まれて、太平洋戦争をへて、1955年に東京水産大学に入学した。そのときに、教えられた歌、歌わせられた歌は、「一度死んだら二度とは死なぬ、たったひとつのこの生命、どうせ死ぬなら千尋の海の青い墓場に浪の花」おそらく、海軍兵学校から終戦で横滑りしてきた先輩が伝えた歌なのだろう。今聞けば、歯が浮くような歌だが、みんなで歌い、それが80歳を越えた今、すらすらと書けてしまう。そんな時代だったのだ。
2.~3 潜水機の分類
マスク式、ヘルメット式から潜水艇までの概略 もちろん、スクーバは出てこない。マスク式については、かなり詳しく述べているが、これは、一応、すでに述べた。
4 圧力について
物理的な概念、ボイルの法則、送気圧と水圧についてなどを計算式を交えて、詳しく述べているが、分圧の法則、ヘンリーの溶解の法則はでてこない。
5 潜水作業気質
以下「 」は引用である。
「潜水さえできれば、誰でもできるような仕事もあろう。しかしながら、現今の多くの潜水作業は、多年辛苦の結果生まれたものであり、最も荒い仕事の上に細密の注意を払うものでなければ効率を上げることが困難である。困苦欠乏に耐え、呼吸する空気さえも節約または中止してなおその上にいろいろな冒険をしてはじめてなし遂げることができる。」
これが基本精神であり、この基本の上に、裸潜り気質、海産物採取潜水夫、サルベージ潜水夫気質、大謀網(定置網のこと)潜水夫気質、フケツ潜水夫(工事ダイバーのこと)気質、海の研究者気質、が述べられている。
6 日本定置漁業研究会が行う、マスク潜水講習のプログラム大要が述べられている。
「一般のこれまでの潜水夫になる階段は、まず「ポンプ押し」から入る、これは約1年、次に裸潜水、素潜りをやる。10mぐらい。そして綱持ちになる。これは潜水夫助手で一切のことをやる。綱持ちの時代に、間を見て潜水をさせてもらう。潜るためには、ポンプを押す人、綱持ちも省略できないから、なかなかチャンスはない。これが2年ぐらいで、ようやく潜水夫になれる。
この徒弟制度を経ずして、定置網潜水ができるようにすると言うのが、日本定置漁業研究会潜水講習会である。
第一期講習は15日間で、マスク式潜水のあらましを講習して25尋(1.8m×25=45m)まで潜れるようになる。
第二期講習はヘルメット潜水でこれも15日間
第三期講習は、エリート対象で、学科も重視して17日間で最終日には50尋(90m)まで潜る。」
混合ガスではない。空気潜水である。本当に90mまで潜ったのだろうか?
潜っていたと思う。
しかし、第三期生については、
「特殊天才的の人であって、十分可能性のあるとみた潜水夫だけを採用するのであって、志願したところで、許可するものではない。」と述べている。
そして、さらに後の潜水病の章で、「小生愛弟子の内でも深海潜水の部に入る人々は、約2割がこのために逝っております。」
当時の水産人で、著書多数のダイバーとしては、最高のインテリが、死亡率2割とマニュアルに書く。そういう時代だったのだ。そして、潜水とは、そういう行動だったのだ。最先端に立てば、死亡率2割。
※ すでに述べたが、現在の潜水士の規則は、高気圧傷害、潜水病予防のために1961年に実施されている。潜水死亡事故の例は毎年20ていどあるが、その中に、減圧症によるという報告はほとんど聞かれない。高気圧医学進歩のおかげである。ただし、昔ならば、職業病で片づけられていたような減圧症の症例は多く、それぞれ再圧治療を受けている。
第二章は、一般潜水作業員の心得
運用方法について述べている。項目だけあげる。
8 ポンプ押しの注意
9 空気圧縮機を使用せる場合機関士の注意
10 綱持ちの注意
11 潜水船船頭の注意
12 潜水練習者と心得
ここでは健康について述べている。潜水に弱い人と強い人という説明で
「潜水に強い人というのは、少しぐらい無理な潜水をしても容易に潜水病にかからない人で、多くは痩せた筋肉のしまった身体である。しかし、このような人は、潜水に適当であるかといえば、必ずしもそうではなく、潜水病にかかると、激烈で、直ちに死亡するようなことが多いので危険である。」
要するに適当に太っていて、病気になるが抵抗力のある人、僕のような人が良いのかもしれない。そんなことは書いていないが。
14 潜水合図
15 潜水後ろ捌き
16 潜水船の準備
書いてある内容は、80年前の事情だから、ダイビングそのものについては、現在のダイビング事情とは大きく食い違うが、仕事の仕方、運用のマニュアルとしては、とても優れている。
第5章 潜水病
このダイビングの歴史では、ここまで、ヘルメット式など、各ステージでの減圧症を追っている。第二部の僕の時代のスクーバ潜水でも、減圧症についての変遷を追っていく。
この「潜水の友」は、当時の減圧症事情に詳しい。
山本式、大串式マスクは、40m以上を日常に潜る。大謀網、定置網は、その設置深度が50mを越える。
どんな減圧テーブルを使っていたのか、減圧症の罹患は?
「剛胆無比の潜水夫は何が怖い?やはり潜水病だ。しびれだ。海底の大蛸(潜水病のこと?)の祟りによって、優秀潜水夫は次々と死亡又は不具者になってしまった。小生等も二回其の厄に会してしまった。」
「英国海軍で研究発表された時間制限表があります。飽和潜水夫を深海から引き上げて実験されておりますが、減圧療法ににた長時間を要するものであり、多くの海底作業は、この能率では経済的に成立することが困難であろうと思われる。
マスク式では、短い潜水時間と、交代潜水夫の多数を持って、浮上途中停止なしに、又は甚だ短い停止で浮上するなどの作業方法が採られている。」
「50ヒロまたは77m潜水:
50ヒロの潜水記録を有するといえば、我が国にも十指を折るにたらない。一般潜水夫としては、このような深海に行くことは無理である。一回5分以上潜水はしない。連続二回潜水するというようなことも甚だ危険である。午前2回、午後一回位の回数でその間は休養し、また一日置き位に休養して潜水する。現今、対馬沖の日本海戦のナヒモウフ号などこのくらいの深さで計画されている。このように潜水時間が短縮するということは、交代する潜水夫が多数を要することになる。」
「潜水の友」で減圧表に類するものは、
各潜水深度で減圧症にかかった事実がどのくらいあるか、其の状況をふまえて「マスク式連続潜水表」というのを作っている。これは、これ以上は潜ってはいけない潜水時間の表である。
減圧停止については、「マスク式潜水、普通海底において潜水制限時間」という表があるが、これを見ると、たとえば、79mで4分までは停止なし、6分になると20ヒロ・36mで3分、18mで6分停止する。
15ヒロ、23mでは、30分までは停止なし、30分以上は、10ヒロ・18mで3分停止する。
しかし、注意として
「以上述べてきましたが、以上制限時間外、長く海底にいると必ず潜水病にかかるとは限らない。否、少しくらい超過するも罹病しない場合が多い。大正年間ごろはまだ長く潜水していた。現今、我が輩始め制限外潜水もやる。しかしながら、事業計画として無理はあってはならない。」
厳密にやっていたのでは、仕事にならない。ちょっとぐらいなら、越えても大丈夫だと言っている。現在も多くのダイバーが、自分も含めてだが、この傾向はあって、助かっていて、ここまで、生きている。
再圧タンクも現在のものと、ほぼ同じものがあった。スケッチを載せて居るが、どこにあるかは書かれていない。
三浦定之助 減圧症報告、抄録
自分が罹患した潜水病について、その経過を克明に報告している。現代においても、参考になるので、書き抜く。
① 7月10日より潜水作業を開始して、罹病は8月28日である。
②.8月14日より二週間、集魚灯試験の為夜間潜水をなす、疲労す。
③.8月26日、27日、大暴風あり、大謀網尽く流失す。この間、休養せるを持って、疲労なし。
④.8月28日、風無けれども波浪高し。11時より、11時半、第一回潜水終了
28尋-30尋(54m)潜水時間32分。無事
海上にて全員食事せしも、潜水夫(本人のことらしい)食事せず。
⑤.一時南風強く吹き出し、潜水船操櫓自由ならず。
※手漕ぎの船で、ダイバーを追尾していたらしい。
⑥ 潜水夫は海底土俵の山(定置網の固定土俵)を次から次に検査して歩く予定。海底においては南東に向かって潮流が段々と急になり始めた。表面は東流す。
⑦.潜水夫は、息綱(命綱)が汐に流されて、網の方に横流れせらる。
⑧ 潜水夫は 定置網を固定する錨綱が、頭上5-7mで、いちいち泳ぎ上がって引っ張らなければならないため苦境に陥る.
※ホースが綱と交錯するので、乗り越えなければならない。フィンを付けて泳いでいるのではなくて、海底を歩いている潜水である。泳ぎ上がるのは辛い労働である。
⑨ 進むに連れて、錨綱が高くなり、息綱は下流の土俵綱に引っかかり、信号不通
※綱を引いて信号する。
これが直接打撃の大なるもの。
⑩ わずか10分で終了すべき仕事に約30分を要し、過労のため呼吸困難(めまい)に陥り、終了後横流され急浮上す。
⑪ 浮上直後変わりなく調査報告をなして、帰途につく、帰港当時は急潮全海に亘り、大謀網竹全部沈下、風強きを以って沖島陰、20mの浅場でフカシ潜水をやるべく予定なるが、ここも海が荒くて不可能であった。第二の直接原因と思う。
※浮上途中の減圧停止ではなくて、フカシで減圧する方法を当時はとっていた。フカシのための表もある。現在の船上減圧と同じ考え方ではある。
この場合、その、予定していたフカシができなかった。
⑫ 陸に付く頃、突然左足に痙攣を感ず。眼を開ければ、万物黄色に見えたり。
⑬ 胸部に激痛を感じ呼吸困難なりしも、暫時にて止み、帰宅安静せるも左右両足時に痙攣止まらず。海荒く風ますます強く、ふかし療法困難なり、海況の為不幸は続く。
⑭ 入浴してこれを揉むとき、痙攣去るも腰部に潜水病を感じ、歩行困難なり。
⑮ 夕方、医師を迎えるころは用部の麻痺全身に広がり、寝る他なきに至る。排尿、排便共に不可能に至ったり、翌日より天気平穏ならず、フカシ療法を始めるも、ただ陸上にて潜水具を着けてやるに過ぎず、圧力低く大効なきが如し。
※陸上でヘルメットを着けて、加圧したものと思われる。
⑯ 9月3日より快方に向かう。同5日直立しうるに至る。以後、ふかし療法二ヶ月を経て、快方に向かいたるものなり。
⑰.潜水して15尋(27m)にて症候消失したるが如し、海底において不自由を感ぜず。
フカシについては、
「1908年のホールデーン博士の論文によって、作られた時間表をもとにしてフカシ療法が各国でおこなわれている。我が国では明治28年 ごろからフカシ療法をやることが始まっている。
最近(大正12年)隅田川永代橋架橋工事において、真鍋学士によりて、もっとも有力なる減圧方法が研究され、罹病者40人全部全快したのである。」
潜水病症状の大体
潜水病の症状を揚げて、説明している。
1.脳神経径に発生する場合。
2, 腰部以下半身不随
3 目の充血
4 排尿、排便の自由
5 発汗の不均衡による不快
6 手足先など局部に発生する場合。
7 めまい
1.脳神経系に発生する場合
「潜水病により即死するか、または即時発生してその日のうちか翌朝までに死亡するようなときは、およそこの場合と見ることが出来る。これは、普通潜水病に強いというような人、よほどの無理をやっても、一度も潜水病にかからなかったというような人に多いのである。小生がこれまでの生涯で見聞きしたところでは、およそ、全罹病者の三割弱はこの即死の場合がある。これら即死の場合といえども船側に浮上した後に、または直後に死亡するので、二、三語話す余裕がある。海底で潜水病で死亡して浮上したということはないのである。後略」
2.腰部以下半身不随の場合
「この場合、潜水病の発生は前者よりも遅く、船に上がった後20分位より、最も遅きは十時間後、夜中安眠中に来ることあり、この種の場合も普通潜水病に強いと言われる人である。多くの場合、半身不随とはいうが全身不随も同様で寝返りさえもできない場合が多い。但し、頭と両方の手が自由であるのみ。潜水病としてはこの類が一番多く、六割をしめている。小生の場合もこの類である。一度この病気に罹ったら、少なくとも三ヶ月は床上に横たわり、専らフカシ療法を施す。
4の、排尿、排便の自由 も悲惨である。
「小生は2回罹病しましたが、やはりいずれも9月であった。いずれも1年中の悲哀身に迫る淋しい時期!半身不随の儘就床して耐えざる痙攣と針で刺すような局部の刺激に仮眠から覚めて虫の音を聴くとき、何と心細い深夜ぞ!
中略
潜水梯子に載せられて担ぎ出され、同情深い、友の手によるとは言え、再圧療法のため白波の下に沈み行く身!」
これが昭和10年、僕が生まれた時代のダイビングマニュアルである。
急速潜降、深い潜水の場合には潜水時間は5分、10分と短いので、次々と何人ものダイバーがタッグマッチのように潜水を繰り返す。
このマニュアルを読んでも、ダイバーになったことだろう。ダイバーになってしまえば、潜水病を絶対的に防ぐなどということはできない時代である。
三浦先輩は1961年没だから、僕が東亜潜水に入社した1958年には、まだご存命だったが、潜水病の後遺症か、東京まででてくることはなく、こちらは、なにしろ、日曜休日もない会社だったから、見舞いにも行かれず、ついにお目にかかってお話を聞くこともできなかった。三沢社長に見舞いに行きたいと申し出れば、喜んで、もしかしたら、同行してくれたかもしれない。