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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1006 ダイビングの歴史 16 マスク式 3 「海底の黄金」

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  沈没船の宝さがし、宝の引き上げは、誰でも興味を持つテーマである。そして、その富の量に比例するように危険でもあるから、冒険、命がけにもなる。
 小説「海底の黄金」は、大串式マスクを使って、地中海、アレキサンドリア沖で、大正4年ドイツの潜水艦に沈められた八坂丸(12000トン)からの金貨(23億円相当)引き上げを成功させた片岡弓八の物語である。この話の資料として、まとまっているものは、この小説の他にない。しかし、第一章の発端から、大串岩雄の「発明一筋」と話がちがっている。
 「海底の黄金」では、真珠養殖場の経営者である渡辺理一が、真珠母貝の効率的な採集のために、手軽で効率の良い潜水機を作ろうと、知り合いの鍛冶職の大串金蔵に相談を持ちかけ、二人で、マスク式潜水機をつくったと書いている。大串岩雄は、出てこない。
 ともあれ、この小説では、この簡易ですぐれた潜水機を持って、渡辺理一は、片岡弓八を訪れる。
 片岡弓八は、商船学校(商船大学、今は海洋大学)の出身で、水産講習所の練習船の航海士を努めていたことがあり、そのときに渡辺理一と知り合っている。
 これらは全て、小説「海底の黄金」の記述であり、真かどうかわからないが、渡辺と片岡は、東京潜水工業を設立し、片岡は常務取締役に就任している。ここから先の、「海底の黄金」の記述、事績は、東京潜水工業の業務で行われたのか、片岡個人のやったことなのか、わからないが、東京潜水工業は、以後、小説に登場してこない。


 片岡弓八は商船学校をでた船乗り、船長であり、ダイバー、潜水夫ではない。潜水はしない。命をかけるのは、ダイバーであり、片岡弓八ではない。
 潜水夫根性というか、気質は、今の自分にも残っているような気がするが、海の中に入って仕事をする事に無常の価値観をもってしまう。それがすべてなのだ。そして、そのことが金になる。自分の潜水は金にならなかったが、それが、多額の金になるならば、命を削っても良いとおもってしまう。親方、経営者はそれを利用して仕事、金儲けをする。片岡弓八は、それである。
 もちろん、小説「海底の黄金」は、そんなダイバーの視点からは、かかれていない。歯医者さんであり、新田次郎 に師事していて、ノンフィクションを書こうとした。
 それでも、そして、潜水についての知識的にはまちがいが多いけれど、小説として読ませる。


少し長くなるが、潜水病にかかわる部分を抜粋、紹介しよう。潜水病、減圧症は、ダイビングの歴史、第一部でも第二部でも重要な部分だと考えている。
 以下、引用 
 ※いうまでもなく、現在の潜水医学の視点から見れば、間違いの記述も多々あるが、小説である。


「 潜水病の悲惨さを、一番身をもって体験してきたのは、潜水長の山内だ。木曜島の日本人墓地には、潜水病で死んだ日本人ダイバーの墓石が、ユーカリの樹の下に見渡すかぎり立ち並んでいた。いずれも、二、三十代の若者たちの墓石である。
 「血の玉が腹から上がってくるよう」
 潜水病にかかったダイバーは。吠えるようにそう叫ぶ。
 「そりゃ、きたぞ」
 周りの男たちは、そういいながらダイバーの胸のあたりから腹に向けて、力いっぱい押し戻そうとする。ダイバーは苦しがってさらに吠える。すると「きばれよ」とさらに力を入れて押し下げる。そのため肋骨の骨折もしょちゅうだった

 最初に軽くくるのを、ダイバーたちは「ロマテキ」と呼んでいる。これはロイマチスのように、手や足が針で刺されるように痛むのである。
 二番目に重いのは「ハウカース(合いの子)と呼ばれた.これに罹ると、初め何とっも言えぬほど気持ちが悪くなり、ものが二重に見えたり、吐き気がくる。また、身体全体がむず痒くなるのもこの段階の特徴である。
 最も重いのが「パレライス」である。これは30尋(54m)以上の深さで長時間作業をしたときに罹るものである。合図が無いので引き揚げてみると、既に死亡していたり、人事不省に陥っていたりする。「血の玉」が上がってくると言って、地を吐き乍ら苦しむのも、この段階のものである。」


 以下、点々と書き抜く 八坂丸の捜索も進んで、ようやく金塊があるという十二畳ほどの部屋にたどり着く。水深は60-70mぐらいだろう。この部屋を金庫室と呼んでいるが、金庫室の中は、濁りで手探り状態である。
 
 「金庫室の障害物は着々と取り除かれていったが、肝心の金貨の箱は姿をみせなかった。
 ダイバーたちのあいだに次第に不安とあせりが広がりはじめた。同時に「ロマテキ」の症状も頻繁に現れはじめた。
  「いずれ、ハウカースに掴まる者が出るかもしれん。そうしたらガントン(ふかし、療法)のために、ヘルメットがいるなあ、」
 潜水長の山内が永尾(綱持ちで山内の補佐役)に小声で言った。
 「実は、俺もそれを心配していたところだ。だが社長は大のヘルメット嫌いだからな」永尾はちらと、弓八の方を盗み見して言った。
 「とにかく、次の帰港時に社長に頼んでみよう」山内はそういって潜って行った。
 ※ヘルメット嫌いの理由は、片岡弓八と東京潜水工業は、アラフラ海の白蝶貝とりに大串式で挑戦し、効果をあげるが、現地のヘルメットダイバーは、歯で噛む潜水器など受け入れないで、採用にならなかった恨みがある。この本の最初の部分でこのいきさつは書かれている。
 ※ ふかし療法については、房州潜りの項で述べたが、ダイバーを沈めて再圧し、長時間かけても痛みが消えたら引き上げる。また、浮上時の減圧停止よりも、一旦浮上してから、再度潜らせるフカシが減圧症の予防策でもあった。大正時代、潜水病に対する対抗策、治療策としては、これしかなかった。


 「社長、ダイバーたちは疲れ切っています。このままでは危険です。」
 昼食後、サロンで一服している弓八のところへ山内が入ってきた。
 「私もそれは感じている。だがもう一息なんだ。ダイバー諸君もやっと金庫室の様子になれてきたところではないか、頼む、山内君、頑張ってくれ、たかが12畳の部屋ではないか。」
 たかだか12畳の部屋が、80メートルの海中でどんなに広いものか、潜ったことのない弓八には、想像もできないことだった。だからこそ、金貨の発見に手間取っているダイバーたちが、無性に歯がゆかったのである。


 「次は誰だ。ああ赤嶺君か、しっかり探してくるんだぞ、金貨が君をまっているぞ。」弓八は三郎の肩を叩いた。赤嶺はちょっと白い歯を見せ、黙って潜って行った。」
 若い赤嶺なら、案外やってくれるかも知れんな。
 弓八はそう考えた。考えながら、今回の潜水夫たちの年齢が平均して高いという点にこだわっていた。作業が思うように進まないのも,あるいはその辺りに原因があるのかもしれない、そんな考えに耽っていた弓八の顔をまるで、こん棒ででも殴るかのように永尾の緊張した声が響いた。
 「三郎の様子が変です、上甲板の上で動かないんです。」
 「どうしてだ。どうして動かないのだ。命綱を引いてみたのか!」
 「ええ、何度も引いているのですが、あっ、今動き出しました。どうしましょう」
 「上げるんだ!すぐ上げてくれ。急げ。」
 叫んだのは、意外にも山内だった。それは山内らしからぬことばだった。深ければ深いほど、浮上はゆっくりするのがダイバーの常識である。
 永尾はそんな山内をなだめながら、決められたスピードで、ゆっくりと着実に引き上げて行った。同僚に手助けしてもらいながら、梯子を登ってきた赤嶺は、顔色こそよくなかったが、思ったよりも元気な様子だった。
 「何だ、なんでもないじゃないか、若いんだから、そんなに慎重にならなくても大丈夫だよ。」弓八が独り言のように言った。
 「さあ、それでは、急いで、次をやってもらおうか。」
 「社長、やはりみな疲れているようです。今日はこれでやめましょう。さっきお話ししましたように、ガントン用に、ヘルメット潜水具を用意する必要があります。そのためにも、ポートサイドへ戻ってください。」
 「山内君、われわれにはもう時間が無いのだ。一刻も早く金貨の所在だけでも確認せんことには、どうにもならんのだ。わしの気持ちも察してくれ。」
 そこまで言われると、山内の立場としては退かざるをえない。
 「進藤君、やってくれるか」
 「はい、行けといわれりゃ何度でも。」
 「すまん」
 山内は、進藤の装備を手伝いながら、低い声で言った。
 「赤嶺の様子が変です!}
 東江が保温室の方から叫んだ。見ると赤嶺が仰向けになって倒れていた。赤嶺は口から血の泡を吐き出していた。手足が小刻みにけいれんしている。
 「うつぶせにするんだ窒息するぞ」
 そういいながら山内が駆け寄って、赤峰の身体を抱き起し、自分の膝の上でうつぶせにしてやった。
 「ああ、こんな時にヘルメットがあったらなあ」
 山内はしきりにあたりを見回した。無駄なことはわかっていても、探さずにはおれない気持ちであった。
 
 八坂丸の沈没地点とポートサイドとのきょりは、ちょうど東京都伊豆大島の距離とおなじだ。その間の10時間を山内は三郎につききりで、人工呼吸を続けた。
 翌22日早朝、船はポートサイドへ入港し、赤嶺は直ちに、中央病院に運び込まれた。病院の懸命の手当てにもかかわらず、三郎は、入院後まもなく息を引き取った。まだ、22歳の若さであった。


 小説であるから、赤嶺三郎という人が実在であるかどうかわからない。多分、実在だろう。
 当時の潜水病についての考え方、処置についても良く描かれている。特に、ヘルメットによるふかし療法、ガントンについて、フカシだけが命の綱だった様子。


 よく知られているように、そのあとすぐに、八坂丸の金貨は引き揚げられ、金貨の引き上げは、1925年(大正14年)であった。(※宇佐美真三氏による)
 その後、小説では、それを横取りしようとする悪徳業者、海賊などとの暗闘があるが、片岡弓八は多額の金を手に入れた。そして、次に昭和9年(1934)には、バルチック艦隊の会計船、ナヒモフ号の8千億円のソブリン金貨の引き上げを企てる。ナヒモフ号については、別の項で述べるが、その時に弓八の手元には、ナヒモフ号引き上げの資金は残っていなかった。いくつかの失敗で、八坂丸のお金は使い果たしたらしい。泡銭なのだ。
 ナヒモフ号財宝引き揚げの資金を、八坂丸でやったように一口株主を募った。今でいうクラウドファンディングのようなものである。しかし、今度はこの方法について、なぜか警察が動き出して、成功できなかった。ナヒモフ号の財宝は、後で述べるように、最新のシステム潜水でも引き揚げられないでいる。
あるのか? 
 
 片岡弓八は、昭和33年10月、吉祥寺の自宅で世を去った。享年75歳だったという。


 ※なお、大串岩雄氏関係について、宇佐美真三氏より、助言をいただいている。ありがとうございました。

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