マスク式は、長くなりそうだ。
本にするときに、全部収録できるかどうか?
そして、資料にもう一度目を通さなくてはならない。これが大変で、停滞していた。
マスク式とは
マスク式とは、顔を覆うマスクを着け、水面からのホース送気で呼吸する潜水機である。顔の全面、眼、口、鼻を覆っているのが原則であるが。大串式のように、目鼻を覆い、口は送気の弁操作にあてるものもある。
ところで、先に取り上げたルケヨールの潜水機は、頭の部分が兜、ヘルメットになっているようで、ヘルメット式のようである。この方式はずいぶん後、マスクの面の部分が、小さいヘルメットになった最新のハードハットに、似ている。ルケヨールは最新のシステムに似ている。古い古い先進型のハードハットヘルメットだ。
現時点、2000年代、21世紀の潜水機の分類をこの視点から見ると、
①マウスピースから呼吸する
②眼鼻口を覆うフルフェースマスクからの呼吸。
③目鼻口と頭を覆うハードハット、
④伝統的なシーベ・ゴールマンの潜水服とヘルメットが連結されているヘルメット式の四つになる。
そして、③のハードハットは、呼吸死腔を減らすために口鼻を覆う、インナーマスクを使用する。②のフルフェースは、インナーマスクを使用する場合と使用しない場合がある。
人の呼吸は、口鼻の両方から、口からだけ、鼻からだけの三態に分かれる。
口鼻の両方からは、マスク式(ハードハットを含む)とヘルメット。口からだけが、マウスピースである。
鼻からだけで呼吸する潜水機は、現在、日本、アメリカでは存続していない。
これから述べていく、大串式、山本式は、鼻からだけ、鼻から吸って口から出す、なお、後に述べる、伏竜特攻の潜水機も鼻から吸って口から出す。
大串式、鼻から吸うマスク式潜水機
大串式は、地中海、アレキサンドリア沖で、水深70mから八坂丸からの金塊引き上げに成功したことで有名を馳せた。
ことについて、山田道幸 「海底の黄金」 講談社 1985 ノンフィクション小説がある。書いたのは歯医者さんだというが、とても面白い。ただ、アラフラ海の白蝶貝採りについての部分、そして、大串式マスク生誕のいきさつなどについては、フィクションである。したがて、八坂丸の部分もフィクションであろうが、当時のサルベージの様子など、本当のように書いている。
大串式については、大串岩雄著「発明一筋」に詳しいし、関わった中心の本人が書いているのだから、これ以上の資料はないだろう。
大串岩雄は、明治34年(1901)大串友治の次男として産まれる。兄は金蔵、後にこの兄、金蔵の名義で大串潜水器の特許を申請したために、大串式は大串金蔵の発明と見られていた。
ちち友治は、事業に失敗して、夜逃げ同然で転々とし、それでも長崎県で自転車屋を開く。そのころの自転車は、今の自動車に匹敵していて、教習場のような練習場が必要であり、友治は、自転車の販売と教示を業とし、やがて、修理を少し大がかりにやる鉄工場を開業する。手先が器用で、もの作りの天才、今でもカメラハウジングは、そのような天才が作り出す。僕と一緒にブロニカマリンを作った、川崎の島野徳明も、sea & seaの創業者山口さんもそして、後藤道夫もそんなイメージである。
そして、友治氏は、ろう付が得意だった。ろう付けとは、先のヘルメット作りのところで述べた。金属部材、黄銅、銅などを融点のことなる合金、たとえばハンダを使って、接着していく。ハンダが溶ける熱を加えない限り、はがれることはない。手作業の金属加工の王道である。岩雄も父に習ったのだろう、蝋付けの達人になる・
友治はなぜか潜水器の製作を思い立つ。なぜか?動機の説明はない。それを、14歳になっていた岩雄は手伝う。高等学校、大学のコースではない。もの作り天才の修行である。
大串式は大正3年(1914)に特許を申請している。背中に亀甲型のボンベというか、空気溜を背負う。ボンベは蝋付けで作り、補強のために針金でぐるぐる巻きにする。これに自転車の空気入れで空気を圧縮充填する。40ー50ポンドというから、約20キロほど充填できる。ますくは、そのころの一眼式水中眼鏡と同様に銅製で背中のボンベからホースで空気を送り、マスク側面に弁を付け、ボタンを押し上げると空気が入ってくる。それを鼻から吸い口から出す。
この潜水器をまずは風呂屋で実験する。10分ほど、潜っていることが出来た。
父、友治は、3000円という大金をどこからか借りてきて、長崎出島に工場を作る。当時としては先進のシーメンズの電動モーターを据え付ける。1950年代、下町の機械工場に行くと、東亜潜水機も同じくだが、大きなモーターが一つ回っていて、そこからベルト駆動で、いくつかの工作機械を回していた。それと同じである。1910年代だから、先進の工場だ。
この工場で50台の潜水機を作る。
海女の漁にこの潜水機を使ってもらおうと、壱岐、対馬の販売に行くが失敗、売れなかった。素潜りの項でのべたように、海女漁の事情を知ってみれば、売れるわけもないのだ。沖合の潜水機による漁は、すでのヘルメット式が普及している。
大正4年(1915)長崎の水産試験場に売り込みに行く。20分の潜水をやって見せて好評だったが、その実演を渡辺理一が見ていた。
渡辺理一も水産講習所の先輩で、有名な三重県鳥羽の御木本幸吉と前後して、長崎の大村湾で真珠養殖を成功させていた。
渡辺理一は、養殖場で使う真珠貝、アコヤガイの採集と管理用に、潜水器と特許を買い取ってくれた。その大串式の使用と指導に若い大串岩雄が同行し、大変に気に入られる。
岩雄は水泳が得意だったと言うから、浅い海で20分潜れる潜水器は、この養殖場での潜水作業は成功を収める。
その特許なのだが、岩雄は15歳と若すぎたために、兄金蔵の名前で特許をとる。なぜ金蔵なのだ。父の友治ではないのだ?と疑問に思うが、家庭の事情なのだろう、明快な説明がない。
が、これらの経緯が紆余曲折して、後世に伝えられ、水産講習所卒業の渡辺理一が、真珠貝採集の手軽な潜水機が欲しくて、大串金蔵に製作を依頼して、大串式マスクが出来た、ということになった。
しかし、呼吸の度にマスクの側面のボタンを操作するのでは、まだるっこしい。口で操作する工夫、改良にとりかかる。
レバーを歯で噛む方式と、補乳瓶の乳首のようなゴムの袋を噛んで、その水圧で弁を開く方法を実験する。歯で噛む方式が成功する。
充填圧20キロとは言え、背中のタンクで20分も作業が出来るということは、世界で初の成功した完全なスクーバであった。限られた空気を逃さずに使い切る。これを送気式として使えば、深い潜水でも使えると明察したのは、おそらく、渡辺理一だったのだろう。40万円の巨費を資本にして、サルベージ、宝探しの会社、東京潜水工業を設立する。
父、友治は、折から流行したスペイン風邪にやられて、亡くなってしまう。47歳だった