Quantcast
Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

0830 潜水の歴史 12 アラフラ海 ダイバーの墓場

$
0
0
_b0075059_09394147.jpg


 明治から大正にかけて、そして、第二次大戦まで、日本のヘルメットダイバーは、世界に出稼ぎにでる。
 カリフォルニアのモントレーには、アワビ採りが、出て行き、アワビステーキをその地の名物にした。オーストラリア、そして、アラフラ海へ、白蝶貝の採捕に出て行く。


 白蝶貝の内側は真珠層で、真珠も作るので、真珠貝採りとも言えるが、球の真珠ではなくて、貝そのものを高級なボタンなどにするために採取する漁業である。そして、白蝶は貝の中で、一番美しい。そのまま置物にもなる。
_b0075059_09403603.png


 アラフラ海の潜水は、一時には、日本人ダイバーの数1200人、減圧症が続出し、木曜島は、潜水夫の墓が林立している。
 この白蝶貝採りをテーマにして、司馬遼太郎が「木曜島の夜会」という中編のドキュメンタリー小説をかいているが、日本人ダイバーが、なぜ減圧症で次々と倒れながら、潜水漁業に駆り立てられるのか、ダイバーの心情に迫っている。「物から入って、やがて物が消え、形而上的な衝動だけで、イノチもなにも要らなくなってしまう。」スポーツのような感覚かもしれない。スポーツも薬物を禁止にしなければ、死ぬまでやりぬいてしまう。
_b0075059_09412134.jpg

 漁獲量は潜水時間に比例する。そして、深く潜れば漁獲は増えるがダイバーは死ぬ。ダイバーのほとんどは、減圧症にかかったろう。
 日本人ダイバーの白蝶貝とりは、太平洋戦争前は日本の委任統治であったパラオを根拠地として、40~50トンのダイバー船でアラフラにでて行く、最盛期である、昭和13年ごろには、200隻を数えたという。そのころ流行した岡晴夫の「パラオ恋しや」は、「海で暮らすなら、ダイバ船にお乗り」と歌われる。
 そして、戦争になり、白蝶貝採集はできなくなるが、戦後昭和28年に復活する。もはや日本には南洋、パラオはないので、本土から母船式漁業として、一隻の母船に25隻のダイバー船がいっしょに、はるばるアラフラ海付近まで出漁した。
 昭和34年まで船団出漁の記録があるが、プラスティックの台頭で、白蝶貝ボタンの需要が少なくなったことそして、領海問題もあり、日本からの船団での出漁は終わる。
 この船団出漁についての写真が、三重県志摩郡大王町の、「アラフラ商会」
 今でも白蝶のボタン。貝細工など売っているお店だが、そのホームページ
 http://arafura-pearl.com/history.html
  で当時の漁の写真が見られる。このダイバー船の写真は、そのホームページからの引用である。
_b0075059_09424430.png


 日本本土からの船団出漁は終わったが、現地アラフラ海での真珠貝採り、白蝶貝採りは続く。ボタンなど貝細工の需要は減ったが、白蝶貝を真珠母貝としての真珠養殖が日本のいくつかの会社で始まり、これは、生きている貝を現地の真珠養殖場に売るのだ。現地木曜島の産業としては、充分に成立するのだろう。
 僕ら、東京水産大学増殖学科卒が、この南洋真珠養殖に進出していて、潜水部の第三代、僕より2代後輩になる笹原捷夫君が南洋真珠の会社に就職し、「アラフラ海の思いで:文芸社 2000年」を書いている。執筆の動機は、「木曜島の夜会」を読んでというのだが、とてもおもしろい。1960年代のアラフラ海での白蝶貝採取の潜水、南洋真珠養殖の現場のこと、アラフラ海現地の当時の状況がよくわかる。
 真珠養殖については、ここでは触れないが、アラフラの潜水、「アラフラ海は日本人ダイバーの墓場」だと言われるあたりのこと、ここに引用したい。
 なお笹原君は1970年に真珠会社を退職して、ブリジストンに就職し、1989ー1992年まで、西伊豆土肥のブリジストン101の所長を勤められた。


 ダイバーの墓場 


「潜水病防止の減圧方法について、どのような方法をとっているのか聞きました。※ダイバーに聞いています。
 減圧は仕事にならないのでやらない。潜水病にやられたら、仕事の後「ガンドウ吊り」をするとのことでした。
 ※ガンドウ吊りとは、ふかしのことで、ガントンとも呼んでいた。
 潜水病にやられたとき、軽い痛みならそのまま我慢してしまうそうです。痛みが激しい場合、ダイバーが痛みを感じなくなる深さまでもどし、10時間ぐらい(一晩)その深さにとどめて置くそうです。」
 木曜島のダイバーの墓は、後に整理したところ1000人弱、笹原さんが、別に聴いたところでは、潜水病の死よりも、壊血病による死の方が多かったとも書いているが、やはり、減圧症だろう。しかし、減圧症では、なかなか死に至るほどのことは無かったのだろう。痛くても潜水すれば、潜水している時間はしのげる。規定による減圧でなくても、丹所春太郎のひょうたん潜りのように、自分の経験で、だましだまし、悪化させないで、作業を続けていたのだろう。そのうちに、減圧症も間接的ではあっても健康を害して、ある日、死んでしまう。
 
 1960年代までは、再圧タンクはあったものの、僻地までは届いていない。なんとか、ふかしで対応して作業を続けた。再圧タンクの歴史については、また別項で書く予定にしている。


 技術的なことだが、アラフラの白蝶貝採りは、ヘンキー型という特殊なヘルメットを使う。自分が東亜潜水機に居たころ、もはや、白蝶採りの需要が無くなって来ていたためか、このヘンキーを作れるのは、世界で東亜潜水機だけになってしまっていて、年に3ー4台、外国から注文が入る。ヘンキーは、普通のヘルメットよりも一回り大きくて、頑丈である。
 ※ここでも、写真を残していなくて、残念。東亜潜水機に行けばあるかもしれないので、そのうちに行くつもりだが。
 ヘンキーは、潜水服も普通のものとは、違っている。ハーフドレス、腰から下がない。上着だけ、袖も半袖である。ヘルメットを身体に固着させるためだけの潜水服である。これで、脇の下を締めると服内に空気が貯まり、浮く。腕を上げると、空気が抜けて沈む。これで浮力を調整するのだ。
 アラフラは、潮流が早い。これで、ドロップオフをドリフトしながら、白蝶を採るのだとか。
 アラフラ海の思いで、でも「真珠貝採りでは、上体だけを覆う潜水服、半ドレスを着用しています。水温が高く、全ドレスでは仕事中暑くてしょうがない。半ドレスの方が、海底で動き回りやすい。」
 激流のトレス海峡で、船と一緒に流れ、移動しながらの潜水では、この方式がベストだったのだろう。


 なお、ここでは、減圧症に関する部分を取り上げたが、「アラフラ海の思いで」旅行記として、秀逸です。南洋真珠養殖についても、様子がよくわかるし、そして、「アイランダー」。島の人たち、は、アポリジニーとアイランダー、そして、白人、名誉白人の扱いの日本人、中国人、混血も進んでいる。アイランダーのことを、この本で初めてしった。
 ニュージーランドラグビーのウォークライは、アイランダーのダンスに由来している。


 この本が、今も買えるか、アマゾンで調べた。とても良い批評が掲載されていたが、現在とりあつかっていない。発行部数が少なかったので、出ていないのだろう。
 そして今、2020年木曜島は、どうなっているのだろう。行ってみたいと強烈に思う。
 ウィキで見ると、1960年代末、タンカーが沖合に座礁して、オイルが流れ、白蝶貝は壊滅し、イセエビ採りが、島の主な産業となっているとか。でも、それからでも50年、半世紀である。白蝶も復活したのでは?
 ダイビングの歴史から、跳ね上がってしまったが、10人に一人は死ぬと言われ、潜水病になれば、痛みに耐えて、10時間吊される。お金も入るが、貯めるお金ではない。誘蛾灯に蛾が惹かれて行くように、ダイバーは、それに惹かれていく。
 笹原君が、「木曜島の夜会」を読んで、自分も書こうと思ったように、もしも、僕が木曜島で白蝶を追っていたら、なぜ?が書けたかもしれない。
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

Trending Articles