写真は、クリンゲルト(klingert)1797年
その次にくるのが、アウガスタス・シーベによった作られた、ヘルメットで、これが、現在も使われているヘルメット式潜水機の原型である。
ヘルメット式潜水機
シーベ(Siebe) はドイツ人で銅製の道具を作る職人であったが、1819年に銅製のヘルメットに革製のジャケットを付けた原型が出来た。これは画期的な潜水具であり、イギリス戦艦ロイヤル・ジョージのサルベージなどに使われ、数々の改良点が付け加えられ、1837年には、現在のものに近くなった。
潜水器そのものの改善とともに空気を送るポンプの能力の向上も大きな力となった。
シーベの原型の図
1996年、自分が60歳を記念する100m潜水を企画し、周囲の仲間たちの応援に恵まれて、テレビ朝日の番組として、実施することが出来た。
自分の潜水だけでなく、それを芯として、ダイビングのすべてを紹介するという特集番組になり、その一環としてモナコの海洋博物館を取材できた。
モナコ海洋博物館は、海に関わるすべての博物館であるが、ダイビングの博物館でもある。シーベ・ゴールマンの初期のヘルメットも展示されていると思ったのだが、展示されていなかった。替わりにというわけではないのだろうが、クリンゲルト、そして1935年の表示があるヘルメットの新型、これは、リブリーザのようにも見えるが、よくわからない。
とにかく、シーベ・ゴールマンのものが最優秀で、改善。改良が加えられ生き残り、普及した。
シーベ・ゴールマンと書いたが、シーベは、ヘルメット式潜水機のプロトタイプを完成させてから、ゴールマン Gorman という協力者とそのヘルメット式潜水機の製造販売の会社を作った。シーベ・ゴールマン社は、今でも健在で、ヘルメット式だけではなく、セミクローズを作ったりもしている。
実は、自分が東京水産大学を卒業して、就職した会社、東亜潜水機が、現存する会社として、日本のヘルメット式潜水機メーカーとして最古の伝統がある会社であり、ヘルメット潜水機が、身近な存在である。東亜の作っているヘルメットも、いくつかの改良点はあるのだろうが、シーベ・ゴールマンの1837年ころのものとほぼ同じである。完全に道具になってしまうと、下手な改善をしても、潜水夫が受け付けてくれない。
ヘルメット式の排気は、ヘルメットの中で、ダイバーが頭でボタンを押して排気するキリップと呼ぶ排気弁でするのだが、頭で押す必要がない自動弁も作られたが、使うダイバーはいない。頭で押すのが無意識にできるほど、熟達しないと仕事にならないのだ。
このシーベ・ゴールマンのヘルメットが、日本に入ってきてからの事績であるが、大場俊雄先輩が「房総の潜水器漁業史:1993年・崙書房」「房総アワビ漁業の変遷と漁業法 1995年・崙書房」「房総から広がる潜水器漁業史 2016年・崙書房」「房総のカジメとアワビで成った新財閥 森家と安西家 2017」 4冊が手元にある。ヘルメット式潜水器を使ったアワビ漁業史として克明であり、しかも、読んでいて飽きない。僕はダイビングの歴史として、先史時代から現在まで、すべての潜水機を見ていこうと手を広げているが、大場先輩は、ヘルメット潜水漁業史をどこまでも深く掘り下げて行く。本格的な歴史家である。
大場先輩と書いたが、先輩は東京水産大学増殖学科3回生、僕は7回生である。そして、「房総から広がる潜水器漁業史 2016年」に書いておられるが、「昭和29年(1954)7月千葉県小湊で潜水実習を受ける。前半は旭式マスク、後半はスクーバである。そして、4年生の実習(大場先輩たち)が終わった翌週、3年生の実習が同じ海で行われ、学生2名が帰らぬ人となった。」この事故が、このダイビングの歴史の第二部の冒頭になる予定にしている。
先輩は、宇和島水産高校の教諭となり、マスク式潜水を生徒に指導されたりした後、千葉県水産試験場に転じられ、アワビ種苗生産を担当され、業績を残している。千葉県水産試験場長で定年退職された後、ライフワークとして、潜水漁業史を調べ、執筆されている。アワビについても、「あわび文化と日本人:2000 成山堂書店」を書いておられる。これも、ダイビングに関わる人ならば、必読である。
僕は、千葉県水産試験場におられる時代から、一方ならぬお世話になっている。
「房総の潜水器漁業史 大場」によれば、慶応2年(1866)横浜港で、英国弾薬運搬船の船底修理が行われた。この作業に英国軍艦パロシヤ号付属のヘルメット式潜水具が使われた。この船底作業に横浜居留地の消防、衛生清掃の世話役だった増田万吉が参加していて、潜水作業に興味を持ち、日本でこの潜水作業が出来る者がいないことから、オランダ人から、潜水作業を習い、明治5年(1872)横浜で器械潜水業を始めた。
ちょっと整理しよう。ヘルメット式潜水機の原型でが出来たのが1819年、1837年に、現在のものに近くなった。
そして、1866年にはすでに、外航する軍艦などには、船底の応急修理用の船具備品として、ヘルメット式潜水具が搭載されていたのだ。
そして、僕は、1960年、ヘルメット式潜水機のメーカー東亜潜水機にスクーバ潜水機の開発と販売担当で入社したのだが、横浜の船具屋から、英国船に備え付けられている潜水用ポンプの修理点検の依頼があり、片言の英語がしゃべれた僕が引き取りに行った。ところが、キングス・イングリッシュの船長とは全く話が通じず、そばにいたアフリカ系の船員が、通訳してくれて、ようやく引き取ってきた。そのポンプは、チーク製の筐体に金ぴかのハンドルで、手入れもよく、ほとんど美術品であった。博物館にもこんな美しいポンプは見られない。
そして、東亜潜水機には、明治時代のシーベ・ゴールマンも修理に入って来ているのを見ている。穴が開いても、銅製だから、ハンダづけで穴を塞ぐことが出来る。半永久、100年の歳月を越えても、使うことが出来る道具なのだ。少なくとも、その潜水夫一代は、自分のヘルメットとして、使うことができる。潜水夫の修行は綱持ちからはじまって、見習い潜水夫と徒弟制度的階段を昇って、親方が一人前と認めると、親方は、東亜潜水機に弟子を伴ってきて、ヘルメットを誂える。そして、掛け売りの出来る口座を開く、そんな具合に東亜潜水機は、全国のヘルメットダイバーと直につながっている。僕が東亜潜水機に入社する少し前までは、そんな具合であり、まだその名残は残っていた。
僕が入社する少し前の東亜潜水機、
門を入って、左が事務所で、事務室と重役室の2部屋であり、僕は重役室に机を置いていて、その重役室の奥が倉庫で、その倉庫に机を置いて作業場にした。入社早々は、午前中は重役室で参考書、例えば、米国海軍のマニュアル、ロバート・ディービスの「Deep sea Diving] など、英文をノートをとりながら、読んでいた。午後は、倉庫でスクーバの試作と言っても、倉庫にあるものを分解してみたりだが、工場にでて、仕事を手伝いながらの自主実習などをして、1年目を送り、2年目から自分の仕事、スクーバの製作をはじめた。生物学者の卵(孵化しなかったが)であった自分が、潜水機製造者に生まれ変わる時間だった。
9年後、潜水訓練、潜水機試作テスト用潜水タワー建設中の東亜潜水機
話が横道にそれたが、房総の潜水漁業にもどる。明治10年(1877)千葉県安房郡白浜村根本の森清吉郎は、横浜で増田万吉が、器械潜水をはじめたことを聞き、つてをたどって、実験操業を行う。大場先輩の著書では、この実験の契約など、詳細を究め、明治初頭の漁業者の仕事の進め方なども興味深いが、ここでは省略する。
実験操業は大成功を納め、森清吉郎は、横浜のハドソン商会から、シーベ・ゴールマン潜水機を650円で購入した。
アワビ潜水機漁業は、千葉県房総はもちろんのこと、茨城県大津、三重県答志、静岡県田牛、北海道、長崎県など、全国に拡大していく。
当然、乱獲の問題が起き、規制、禁漁、採捕許可、締め付けと緩和を繰り返して行くことになる。