日本の素潜り漁業は、多分、縄文時代、まちがいなく弥生時代からほぼ現在と同じようなスタイルで行われてきた。
例によって、使った参考書の説明から入って行こう。
海女の歴史は、これはもう民俗学になるから、参考書文献は多数ある。
どれも、おもしろいけれど、しかし、ここで民俗学にはまりこむわけにはいかない。
参照に使わせてもらったのは、潜水漁業と資源管理」大喜多甫文 著者は三重大学の卒業で、三重県の高等学校の先生をされている。よく調べられていて、僕のホームグラウンドである外房 白浜の磯ねのことも、海女組合のことも、商売、経済のことも、なんでも書かれている。
海女のすべてに興味があるが、ダイビングの歴史の限られたスペースの中で、考えると、やはり、技術と道具のことを追って行き、そして自分の体験、自分と海女、海士とのつきあい。そして現在の素潜り、スキンダイビングに至るということになる。
魏史倭人伝がどうとか、万葉集がどうとか、江戸時代の浮世絵のこととか、文化、民俗学にかかわるようなことは、全部省くことにした。
器財、道具、技術にかかわる事項を追っていく。
まず、大喜多先生の水眼鏡の項を引用する。
潜水用水眼鏡
「明治中期以前、アマは素眼で潜水していた。しかし、海中で眼を開けると痛いので、多くは口中に米糠や鮑腸(なんだかわからない。鮑の内臓か?)を含み、これを海面に吹散するか、または魚・鯨油を海面に点滴して水中を透明にして、海底にあるアワビを見定めておいて飛び込み、手探りで採捕した。」
せっかく引用したのに、否定するのは?
、と思うけれど、ダイバーの常識では考えられない。アマさんが潜る前に、水面に米糠とか油類を、吹き付ける。すると水面が平らになって、水底が見通せる。それから目標を見定めて潜るというのだが、海は流れも波もある。舟の陰は波を遮って、ある程度は見えたのかもしれないが、年間で本当に数える日しか底はみえないだろう。ただ、何とかして海底を見透かす努力はしたのだろう。
そして、素眼というのは、意外に見えるものなのだ。
1962 年、東亜潜水機時代だが、よみうりランドに「水中バレー劇場:竜宮城」ができて、水中舞台監督を引き受けた。ダンサーは、顔をマスクで隠すわけには行かない。竜宮城の乙姫様たちがマスクででてきたのでは、様にならない。マスクを着けないで踊り、観客席ににっこりほほえまなくてはならない。主役級はぜったいに素眼でなくてはならない。その潜水を指導するのだから、自分も素眼で潜る。眼を細めると、なんとか見えるものだとわかった。
タンクを背負ってバレーを踊るわけにはいかないので、手にホースを持って、そのホースに付けた吸い口のような手動のレギュレーターから優雅な動作で空気を吸う。
このレギュレーターを設計制作したことが縁になってその潜水までも指導することになり、水中舞台監督(つまり、インストラクターのこと)になったのだが、やがて、このホースを、客席から見えない下の方で操作するホース捌きをそのころできた学生のダイビングクラブの学生たちが、やるようになった。
とにかく、縄文時代から明治時代まで、アマさんは素眼で潜ってアワビをとった。
「明治10年時代には、四角な箱の底にガラスを貼った箱眼鏡が製作され、船中よりアワビを見定めておいて海中に飛び込み採捕した。」
「我が国における潜水用眼鏡の製作・使用は、1885年、(明治18年)熊本県天草郡ニ江村の出島久八、出島辰五郎両名製作の両眼鏡(二つ眼鏡)が最初である。その後、1886年、沖縄糸満の漁師、1887年、壱岐郷ノ浦の海士がそれぞれ「二つ眼鏡」を使用した。
このように、明治10年末に九州で使用され始めた両眼鏡潜水用眼鏡は、その後各地に伝播した。志摩では、1890年神志摩のアマが使用許可申請をし、翌年から使用した。房州では、1992年頃、安房郡長尾村(白浜)で使用され、それから少し遅れて、伊豆半島に伝播した。
しかし、潜水眼鏡の使用が資源の乱獲を招来すると考えた、志摩地方北部の漁業組合では、1897(明治30年)「水眼鏡は一切使用を禁止する」と使用禁止にした。」
熟練したアマにとっては素眼に耐えて潜水することが、ちょうど良い漁獲量であり、眼が見えるようになっては、乱獲になると考えたわけだ。
このことはとても重要である。素眼はつらいし、眼を煩うこともある。それでも、適正な漁獲量を維持するためには、我慢する。また我慢して、適正漁獲量、商売が成立するくらいの漁獲はあった。
この素眼、現生人類が、水中での視界が良好ではないと言う点から、考えて、やはりアクア説は夢なのだろうとも思う。水生人類が進化して陸にあがったものであれば、水中での視覚はもう少しましな形で残っていたのではないか、と思うのだ。
ギリシャの海綿採りのダイバーが素眼で潜っていたために眼を痛めて、失明に近くなっている写真を見た。
日本のアマにも、メクサという眼の病があったという。被害、病気がどの程度のものか資料がない。ひどい人はつらかっただろう。眼の弱い人はアマを続けることができないで、脱落したのだと思う。
しかし、みんながみんな、ひどいメクサになったとすれば、水眼鏡の使用を禁ずるような規則を考えるだろうか。我慢できる程度だったのだろうか。
それでも、水眼鏡の無かった時代の海女は、高齢になって失明する人も少なく無かったという記述もある。
次にアマの衣装だが、明治以前は、男も女も裸であったはずだ。1960年代のはじめまで、能登半島、対馬、それに房総の一部の海女、海士は裸だった。
大崎映晋さんという、年上の友人だが、海女さんの裸で潜る姿を撮影していて、二冊の本をだした。
「人魚たちの居た時代 成山堂書店 2006」
「海女のいる風景 自由国民社 2013」
大崎さんは90歳を越えていて、2013年の出版記念会でご挨拶したのが、お目にかかった最後だった。
僕の東亜潜水機時代、ベレー帽がトレードマークで何回かお見えになった。そのご1967年の日本潜水会に参加されて盟友になったが、潜水会では、首に5キロのウエイトをかけたネックレスで、泳がせてしまった。
いつでも、やさしい方で、ジャック・マイヨールを日本に招いた人でもある。
能登の海女は「ハチコ」と呼ぶ、男の褌よりも小さい、最小限度を覆っている女性用褌を着け、上半身は裸である。若い海女も多く、水中の姿は美しいから、写真になる。写真集としては、中村由伸「海女;1978」が有名で、今アマゾンで、25000円前後ででている。
志摩半島の海女は、1926年(昭和元年)に生活改善運動で着衣を申し合わせて、上着は白木綿の襦袢、下着は同じ白木綿のパンツをはくようになった。海女ショウの衣装なので、それに白の襦袢というと歴史の香りもするが、昭和の衣装なのだが、海女さんの美意識が決めたものなのだろう。房総半島の海女も、これを着る。
その他、男海士は、古いセーターとか、メリヤスの重ね着などもするが、生地、素材に保温力がないのだから、濡れればそれまでだし、2回目、三回目と水に入る時、そんな濡れたものを着るのはいやだ。裸で潜り、舟に上がったら、すぐに暖かい綿入れなどを着て、火にあたって身体を暖めるほうが暖かい。真夏ならば、火にあたらなくても、海水浴と同じだ。やってみるとわかるのだが、濡れたものを着るよりは、裸の方が暖かい。とにかく、海女は火種を抱え込むようにして火にあたることで、体温を維持する。