オリンピックについて、津田先生は、自分とほぼ同じ考えを書いている。
このオリンピックの計画が東京都から発表、立候補したとき、猪瀬知事は、既設の施設を使うので、史上最小の予算でできると発表した。それが、レガシーと唱えて、レガシーだった既設の国立競技場も壊し、新設工事のためにたくさんの樹も切り倒し、人工干潟もカヌー競技場にしてつぶし、辰巳国際水泳場の隣に巨大プール施設を作った。2021年のオリンピック記念レガシーとして残すのだが、大きすぎて維持が困難なので、オリンピックが終わったら縮小できるように作られているとか。
東北大震災の復興を唱えながら、それは置き去りにして、誘致で汚職までだして、悪い流れに乗った。悪い流れの上で、津田先生も直下型地震のような災害が下ると心配されていたが、想定外のパンデミック、無観客となって、無駄の標本レガシーが史上に残る。
以下は、僕の意見だけれど、
無人、無観客のむなしい開会式、そして、閉会式というのは、涙なしには、見られないようにパンデミックの最中、日本はやり遂げる、とか、マスコミは感動をもりあげるだろう。見ないようにしよう。変に感動してしまってはいけない。
せめて、あと二ヶ月延ばせば、ワクチンも効いてきて、スポーツの秋、観客も入れられただろうけれど、それが、緊急事態宣言のさなかに、始まり、緊急事態宣言の終わりにオリンピックも終わる。
ワクチン不足とかで、二ヶ月遅れでも無理だったかもしれないけれど。
オリンピック反対などと、呑気なことをいってきたけれど、本気になって、どうしたら、何時やったら良いのか、マスコミも国民も考えた、論じたのだろうか。全員が阿呆だった。バッハだったか、が、延期はないという、鶴の一声で、総理大臣も、何とか大臣も長官も、なにも言えず。
そして、今日は、オリンピックと言うぼったくりの象徴になったバッハ会長が、中国大事、と世紀の本音失言をして、騒ぎになっている。
それにしても、オリパラピックが終わった後にくる空洞。空虚な自己弁護的、賛辞。そして、その後にくるものは?
スポーツとは何なのか真剣に国民が考える機会になれば、と思う。
自分の人生のためにするスポーツ。
人は、身体を動かし、身体を張って東アフリカをでて地球全体に拡散した現生人類は、身体を動かし続けるように作られている。生涯の内で一度は、スポーツが自分のすべて、と考える時期が一度は必要。そして、そのスポーツが収入のすべてになるアスリート競技者になる人もいるだろうし、生涯スポーツとして、健康と生き抜く力の源泉にする人もいるだろう。
そして、それを政治とビジネスに繋げる人もいるだろう。その象徴がオリンピックであることが、これはこれまでも、言われて来たことだが、今度のオリンピックでさらに明確になった。
それを否定することはできない。政治とビジネスを否定しては、世捨て人になってしまう。
生涯スポーツと政治・ビジネススポーツとのバランスを考えることが大事、国民に要求されることだとおもうのです。
生涯スポーツについては、また別に書きたいですが、国の政策として、生涯スポーツと競技スポーツに分けたことがまず第一の失敗でした。
ではなくて、人が生きていくために必須のスポーツと政治・ビジネススポーツに分け、それぞれに必要な施策をしていくべきで、それは、ある程度成功していたともいえるのですが、そこにオリンピックという、超政治スポーツが着陸しようとしてきて、そこにパンデミックが被さってきた。
人が生きていくために必須のスポーツを真剣に考えないといけないし、我がダイビング業界も考えなくてはいけないでしょう。